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第3回「純粋の危険 宗教とエコロジストの危険な結びつき。」(「安倍昭恵夫人に『スピリチュアリズム』と『愛国』が同居する理由」(雨宮処凛×中島岳志)との関連/宮崎駿・考/『黄禍』王力雄)) BS1スペシャル「欲望の資本主義2020スピンオフ ジャック・アタリ大いに語る」を7つのテーマに分解・解説

連続投稿、この番組を7パートに分解して、各回ごとに以下のように進めます。

⑴アタリ氏の言葉を、番組字幕を写経しました。アタリさんの言うことだけ興味のある方は、ここだけ、お読みいただければ、と思います。

⑵インタビューがただつながる番組構成上、論理の筋道が⑴だけだと、ちょっと追いづらいので、ざっくりと私がそれを整理します。

⑶そのあとに、私の感想、意見を書きます。個人的なこともあれば、今、日本で問題になっている政治的テーマと、アタリ氏の発言の関係を論じる場合もある予定です。ここは、もし興味があればお読みください、というパートです。

 第三回は、番組的にはタイトルもついていない短い断章です。経済とは、やや異なる興味関心です。アタリさんの視野、射程の広さ深さを見せてくれます。


 私が論じようと思うのは⑶純粋の危険 宗教とエコロジストの危険な結びつき。(「安倍昭恵夫人に「スピリチュアリズム」と「愛国」が同居する理由」(雨宮処凛×中島岳志)との関連/宮崎駿・考/『黄禍』王力雄)です。

⑴番組中継 文字起こし
アタリさん


 「全ては純粋さの問題に関連しています。純度です。誰かが「物事は純粋であってほしい」と言うとき、それは実は「未来より過去がいい」ということを意味しています。純粋さとは過去なのです。未来は変化するので純粋ではありません。変化すれば純粋ではありえないのです。

 極右派と極左派はともに純粋さを求める点でリンクします。異なる種類の純粋さではありますが、彼らはどちらも失われた楽園を求めているのです。

 彼らは、現実世界は妥協の産物で、純粋さの欠片もない悪しき世界だと考えています。さまざまな失われた楽園が手を組んだら非常に危険です。なぜなら失われた楽園とはユートピアでカリカチュア的で民主主義社会では到達しえない世界だからです。民主主義社会では妥協することにより、多くの人々が満足する解決策を見出します。

 私はこの2つのグループが日和見的に手を組まないか、非常に心配です。もちろん長期的な同盟はありえませんがね。例えば、今日ではなく将来的には、宗教的な過激派と、エコロジストが同盟を組むと予測しています。2つの異なる過激派です。

 10年後にあなたと再会できたら、あなたは私のこの話を思い出すでしょう。私は宗教とエコロジストの同盟を、真の脅威と見ています。2つの過激派が手を組んだら、とんでもなく危険です。

 なぜならそれは、新たな種類の全体主義政治を生むからです。今のところはだいじょうぶです。イスラム教徒がエコロジストに歩み寄る姿は見られません。イスラム教徒のシンボルは緑色ですけれどね。ローマ教皇がエコロジーの大切さを説くことはありますが、そんなことは宗教が全く違うアジアでは見られません。

 ですが、私は宗教とエコロジストの同盟を恐れていますエコロジストも宗教家も過激派は純粋さを求めていて、昔は良かったと思っています。とても危険なことです。

 もちろん、市場原理のユートピアも純粋なものですが、それはありえません。だからこそ、政府は市場に対して、不純な均衡を取らなければならいのです。」

番組ナレーション
 「不純な均衡。理念だけの理想より、現実的な平衡感覚を重視するアタリ。経済会議の合間を縫って彼が足を向けたのは、平和記念公園だった。純粋な理想の招く大惨事は、けして過去のことでは無い。原理主義の過ちは必ず繰り返される。そもそも私たちは、自らの意見に対立する主張に出会った時、バランスを取れるのか」

⑵論理の筋道整理
 近い将来、宗教的過激派と、過激なエコロジストが手を組む。それが、最も危険な政治勢力になる。それらは民主主義と正反対の性質、ベクトルを持つからだ。「純度」「純粋さ」を志向するからだ。ひとつは「過去に理想郷を求めること」もうひとつは「(民主主義的な意思決定の特徴である)妥協を不純さとして嫌うこと」。危険な全体主義につながる。
 
⑶私の論点
 アタリさんの言っていること、一見すると、日本とはあんまり関係ないと思いがち。指し示しているのが、なんとなく以下のような人たちに思えるから。


 イスラム教原理主義者のことを指している感じがする。イスラミックステートのようなことだけでなく、(イスラム教は、そもそもムハンマドの時代が最も人類は正しく優れており、そこから人類はどんどんダメになっているという下降史観を持ち、神の定めた法律の絶対優位を定めている。本来はネーションステート否定であり、世界をイスラム化する運動を教義に持っている。ISのような過激な団体だけでなく、シーア派(例えばイラン)スンニ派(例えばサウジ)の大国であっても、本質的に「純粋志向」を持っている。)


 あるいは、トランプを支持する、アメリカの中央部(西海岸と東海岸のインテリリベラルが多い地域以外)では、聖書福音派的原理主義者(聖書の記述をそのまんま事実と考えて、進化論すら否定するような人たち)というのが、びっくりするほどたくさんいる。今回コロナウイルスの経済封鎖に反対して、デモしているような人たちである。


  こういう人たちは、今のところ、過激なエコロジストとはむしろ敵対関係にあるが、これらが結びついたときに、恐ろしく危険になる、と言っている。ように思える。そうだとすると、日本とはあんまり関係ない話?

 いやいや、そんなことは無い、というのが、今日、私が書きたいこと。

 婦人公論.jp  4月22日 に、作家・雨宮処凛氏と、政治学者・中島岳志氏の対談「安倍昭恵夫人に「スピリチュアリズム」と「愛国」が同居する理由」という記事が掲載された。リンクを貼っておくので(←下線部をクリックすると飛びます)よろしけれぱ読んでみてください。

 安倍昭恵氏に見られる、ある種の幼さ、幼稚さとしての「純粋さ」(不思議ちゃん性)の中で、エコロジー志向とスピリチュアル志向が結びつくことの危険性を指摘している。


引用します。
 
「雨宮 私の中で、昭恵さんはずっと「不思議ちゃん」のイメージです。何が彼女の言動の核をなしているのかがわかりにくく、つかみどころがない。反原発で、エコロジーやスピリチュアル系が好き。大麻に関心があり、居酒屋を経営する自由奔放な首相夫人。でも同時に、園児に教育勅語を暗唱させる塚本幼稚園の教育方針に感動の涙を流すような、国粋主義的な一面も持っている。
(中略)
中島 おっしゃる通り、原発やTPP、巨大防潮堤の建設に反対するなど、彼女の言動の表面は左派的です。有機農業に取り組んで「昭恵米」を作ったり、沖縄でエコロジー系の活動をしているミュージシャンの三宅洋平さんと、高江にある米軍ヘリパット建設予定地にがる建設反対派の本拠地を訪れたりもしている。ところがその一方で、歴史認識ではかなり強硬なことも言っています。
雨宮 昭恵さんはこの1~2年、大麻の国内栽培促進を訴え、2016年11月の『週刊現代』では「日本を取り戻すことは大麻を取り戻すこと」とまで発言しています。彼女が言うには、大麻は波動が高い草で、古来から日本の神事には欠かせない。ただ、今の麻はほとんど中国産だけれど、日本の大地で生まれた国産の麻こそがピュアなのだという主張です。でも一般に国産はいいことだとみんな思いますよね?
中島 ええ。しかし自分たちの大地から生まれたものだけが純粋であるというこの発想には、危険な部分もあるのですよ。象徴的な例では、かつてナチス・ドイツも有機農業を称揚し、独自のエコロジー思想を打ち出しています。ヒトラーは「化学肥料がドイツの土壌を破壊する」と訴え、純粋な民族性と国土の繋がりを強調しました。
(中略)
中島 僕は戦前の超国家主義を研究しています。超国家主義とは、第二次世界大戦前の日本やナチス・ドイツが典型ですが、その頃と今の状況が似てきている。大正デモクラシーの中で、農業および農村社会を国の基盤と考える農本主義の人たちが、超越的な力で国家を救済する思想を持つ日蓮主義などを介して、どんどん右傾化していきました。つまり左派的な自然主義(ナチュラリズム)と宗教的なもの(スピリチュアリズム)が出会って、超国家主義(ウルトラナショナリズム)になっていった。
雨宮 怖いですね。
中島 そんな戦前の超国家主義に似た動きが加速し、しかもみんなが「右」だと思っていなかった方向から来ていると感じます。
(中略)
中島 現在のスピリチュアルと政治の結びつきは実は古くて、50年ぐらい前に左派が変化したことから始まっています。60年代のアメリカでは、ヒッピー文化を底流として、大麻やエコロジー、オーガニックという自然志向とともに左派的な主張とスピリチュアリズムががる傾向にありました。
雨宮 そこですでに“昭恵さん的なもの”の芽が出てきているのですね。では、最初は左とスピリチュアルが近づいたわけですか。
中島 ええ。もともと左翼思想というのは、理性と合理性をもって社会を進歩させようという考え方です。しかしそれだけではベトナム戦争を止めることができなかった。そうしたことへの反省と批判から、左派の特徴であった理性中心主義が壊れ、左と右の境目が曖昧になっていく。
雨宮 左の人たちも理性より感性が大事だと言い始めた。
中島 はい。アメリカでおきたヒッピー文化に影響を受けた日本の左翼文化がその後、三里塚や水俣などの闘争を経て農村回帰運動につながっていきます。そうした土着的な動きが、伝統礼讃や自国の純粋性にこだわる愛国的なものの土台となっていったのです。たとえば近代文明じゃなくて、里山はすばらしい、とか。
雨宮 それに、ここ数年、外国人を連れて来て日本の技術や伝統を褒めさせるようなテレビ番組や、いわゆる「愛国本」が溢れています。そういう「ニッポンすごい」ブームの背景には、歴史的な流れがあったんですね。
中島 ええ。神社巡りや神道スピリチュアル系セミナーには昭恵さん世代の女性も結構たくさん来るようです。「もう一度日本のすばらしさを取り戻そう」という声に惹かれて。
雨宮 そういう話は、一番わかりやすくて気持ちいいですものね。
中島 日本人であることは、能力に関係なく手にできる属性です。日本女性というだけで、そのままの自分で何か素晴らしいものをもっているのだと、自己肯定されますから。
中略
中島 そうですね。僕が注目しているのは、女性の身体の神聖視です。自然分娩が素晴らしいとか、母乳が絶対で粉ミルクはダメだとか、まずは近代的な出産や子育ての否定から入る。最近は、子宮の声に従ってありのままに生きる「子宮系スピリチュアル」というのもあるようです。
雨宮 皮膚に負担をかける化学物質で作られた紙ナプキンでなく、エコで体に優しい布ナプキンがいい、みたいなのもありますね。
中島 僕が専門で研究するインドでも同じような現象が見られます。女性の身体や母性を神聖視しているようで、その実、女性を家庭に押し込めて社会参加を阻む。その一方で近代科学を否定するのです。
雨宮 風邪でも絶対に薬を飲まないとか、がんでも医者にかからず自然療法だけという人もいます。それがすべて悪いとは言いませんが、押しつけてくる人もいるので困る。
中島 僕も子どもがいるので、体に良さそうな有機農法の野菜を買いたいと思うし、原発を使っていない電気を使いたいとも思います。でもそういう思考がある一線を越えるとどうなるか。歴史を研究してきた私には、エコからスピリチュアルにいき、そこから自国礼賛にがる思考のパターンがあって、その流れが再び起きているように見えるのです。
雨宮 商業化されたゆるふわなスピリチュアルとか、ゆるふわ愛国とか、そういうものが、自然に私たちの身の周りに溢れていたんですね。あまりに溶け込んでいるがゆえに、昭恵さんは森友問題以前から同じようなことを言って来たのに、ずっと見過ごされてきたのだと思う。
中島 ええ。昭恵さんのことを“単なる無邪気な人”で済ませるのは間違いです。彼女は一国の首相夫人なのですから。」

引用おしまい。

 そう、アタリさんが指摘、日本のことも、指摘、予言していたのです。私のごく近い身内にも、伊勢神宮に参拝してから、自覚なく、どんどん思想思考が右旋回しているのがいます。どう指摘したものか、困ったなあ。まったく無邪気に、自分が急激に右旋回している自覚も無いようなんですよね。日本における「純度への志向、宗教とエコロジーの結びつき」というのは、意外なカジュアルさ、幼さ、身近さで増大しているのです。

 他人の批判、というだけでなく、僕自身の中で、いちばん危険だと自覚があるのが、宗教と結びつかない、「エコロジー=生態系志向への傾き」が「アンチ・ヒューマニズム」(人間中心主義の否定)に結びつく、という心性、心の傾きがあります。僕の場合は、それが強い。

 言葉が難しいので、ひらたく、説明していきます。僕は、宮崎駿氏の作品、アニメやマンガの大ファンです。ものすごく小さい時から、とんでもない回数を見ていて、大好きで、影響を受けまくっています。誇張じゃなく、代表的映画も、アニメ『未来少年コナン』も、何百回、下手すると千回を超える回数を、見ていると思います。


 そういう回数見る中で感じるのは。宮崎駿さんには、ご本人に自覚があるかどうかわからないですが、「人間なんかいない太古の生態系が好き」という、心の傾きがあると思います。『風の谷のナウシカ』の腐海。人間を寄せ付けないですよね。人間がそこでは生きられない、太古の、巨大な虫だけが生きる世界。『もののけ姫』の、獅子神の森もそうですね。そこは人間が踏み入ることのできない自然。『崖の上のポニョ』の、地球のバランスが崩れて、太古の魚や生き物が泳ぎ回るようになった海もそうです。

 もののけ姫ラストの里山や、未来少年コナンのハイハーバーのような、「人間と自然が、美しく共生する状態」よりも、もっと人間を拒絶する、人間が存在しない自然を、本当は愛しているのでは、と感じられる様子が、描写から感じられる。

人間がいない生態系の方が、本当は良いのではないか。心の半分が、そちらに持っていかれている感じ。

 (もちろん、「ナウシカ」でも「もののけ姫」でも「未来少年コナン」でも、①「工業化し自然を破壊する文明」②「自然と共生する生き方」③「人間・生活を否定し、生態系のありのままの復元を求めること」の三極の間の葛藤相克がテーマになるので、宮崎駿氏が「心が全部、アンチヒューマニズム」に傾いている、とは言いません。しかし、①自然破壊工業文明)と②「自然と共生する生き方」のふたつの軸の対立、とだけ捉える宮崎駿論が、世の中では優勢と思いますので、あえて、それを超えて③アンチ・ヒューマニズムまでいく、自然生態系至上主義の心的傾向が、宮崎駿氏の中にあることを指摘しておきたいと思いました。)

 たとえば、チェルノブイリの事故後、人間が完全にいなくなった地域が、野生動物の楽園になっているのを見た時に感じる「人間は本当はいない方が、他の生き物にとってはいいのではないか」という思い。その動物たちがのびのびと生きている姿を見た時の、ある種の心の解放感。

 こういうのを、エコロジー志向が極端に走った時の、「アンチ・ヒューマニズム」志向、と僕が、勝手に名付けています。

 宗教過激派は、神の教えの前では、信徒個人の現世での命は、限りなく軽くなりますし、異教徒、不信心者の命も軽くなる場合が多いです。その意味で、宗教過激派は、現生の人間の生活や生命を基準とすると、限りなく「アンチ・ヒューマニズム」になる可能性があります。


 エコロジー志向も、極端になると、「アンチ・ヒューマニズム」志向になります。

 このふたつの「アンチ・ヒューマニズム」が結合すると、人の命なんて、なんとも思わない、恐ろしい全体主義が生じるのです。

 現世の生活も、現在生きているこの世での人間の生命も、その価値がどこまでも軽くなる危険性。アタリ氏が指摘しているのは、そのことだと思います。

 この視点での「ヒューマニズム」問題について、アタリさんの思想を追いかけていくときには、ひとつ、しっかりと押さえておく必要があります。

 長くなったので、参考までに、最後に軽く紹介しますが、中国が崩壊する近未来を描いた『黄禍』王力雄、と言う近未来予測超大作の小説があります。エコロジーと宗教というふたつの力が、共産党政権が倒れる中でどのように作用するかを描いています。おそらく、アタリ氏の視野は、こういうところまで捉えていると思います。よろしかったら。超・面白いですよ。


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