凡人が国のトップにいる不幸について。善人か悪人かは、ひとまずおいて。~天才、秀才、凡人、そして偉人とは何か~

世の中には、能力的に、天才と、秀才と、凡人と、もうひとつ偉人、というのがいる。と思っている。僕の勝手な分類である。

 これは善人、悪人とは別の軸である。天才秀才凡人偉人そのいずれにも、善人も悪人もいる。

 

 コロナに対する日本政府の対応とマスメディアの論調の変化をずっと一年、追いかけていて思うのは、日本の政治家、トップは、本当に二代続けて、凡人なのである。不幸なことに。

 善人か悪人かはまずは問わないことにする。単純に、凡人が国のトップをしていることの不幸が、今の惨状である。

 
 天才と秀才の違いを定義するところから始める。秀才から定義した方がわかりやすい。

 秀才と言うのは、誰でも時間をかければたどり着く正しい答えに、誰にもできないような速度でたどり着く能力がある人間のことである。将棋で言うと「早見え」という才能である。パット見て、すぐに正解手が見える。答えが100点満点の100点を超えることは無い。誰にもできない速さで、すぐ98点まではたどり着くのが秀才である。
 速く正解にたどり着くということは、結果として、同一時間内で、常人にはできない大量の情報処理ができる。情報処理速度と、その結果としての情報処理量が常人の想像を超えているのが秀才である。

 天才と言うのは、秀才にはたどり着けない、突拍子もない答えに、たどり着く能力を指す。速い遅いという速度の問題ではない。飛躍、不連続な何かが、脳内で起きる人のことである。論理的には、一瞬、不正解に見えるが、実施すると秀才の結論を上回る成果を出す。100点満点のテストなのに、150点、200点の答えを出してしまうのが天才である。

 凡人は言うまでもない。100点満点のテストに対し、いくら時間をかけても努力をしても、70点くらいしか取れない。80点取れれは大喜び、というのが凡人である。

 凡人には秀才と天才の区別がつかないことが多い。秀才の「速度がもたらす、論理的飛躍のない正解」と、天才の、「非連続な飛躍から出る驚きの答え」、凡人から見ると、区別がつかない。将棋でプロの差す手を素人が見ると、どっちもすごいと思う。が、プロ同士が見れば、「誰もが納得する正解手」と「誰も思いつかない天才の一手」の間には、厳然たる違いがある。

 広告の仕事をしていると、この差は明確にわかる。分かりやすい。

 秀才タイプの才能は、マーケティング、戦略プランナーの領域に多い。戦略的正解にたどり着く速度が速い。

 天才は、クリエーティブに多い。秀才の出した戦略を、一見無視したような、突拍子もないアイデアをつぎつぎ出してくるが、結果として、秀才の考えた以上の成果を上げる。

 秀才でも天才でもない人のほとんどは凡人だが、ごく一握り、偉人という類の人がいる。テストの点は凡人同様、70点80点しか取れないが、そんなこととは関係ない能力というか、人間の大きさがある。

 凡人は、自分に理解できない秀才や天才の足を引っ張る。意識的にだったり無意識にだったり。秀才のとんでもない速度で出した正解を理解するのに、長い時間と手間がかかるために、実施するのに時間がかかる。結果として、素早い意志決定の邪魔になり、組織や社会に害をなすことがある。悪意はなくとも。組織の要所に凡人がたくさんいたり、意思決定者だったりすると、説明説得するのに時間がかかり過ぎる。凡人かつ悪人だと、秀才や天才がちやほやされるのに嫉妬して、意図的に足を引っ張る人もいる。

 偉人は、自分では秀才のように大量の情報を処理することも、天才のように、突拍子もないアイデアを創り出すこともできないが、秀才と天才を見つけ出して、彼らに権限と自由を与えて、凡人に邪魔されないように重用する人のことである。秀才や天才が活きるのは、トップに偉人がいる場合である。

 広告の仕事を35年する中で、何人かの偉人タイプの才能に出会った。例外なく、ものすごく偉くなっているが、こういう人は、ごく若い時から、偉人としての才能振る舞いができるのである。

 秀才は、天才に対して謙虚であるべきだし、凡人は、秀才や天才の足を引っ張るべきではない。このあたりの葛藤摩擦を乗り越えるには、偉人に登場してもらわないと、無理なのである。偉人が率いるチームで仕事をするのは本当に楽しかった。

 田中角栄は、天才であり、偉人であったのだと思う。(実は論理的理解能力の速さという秀才性も併せ持っていたと言われている。学歴がなかっただけで、秀才でもあった。)すべての要素を併せ持った政治家だったと思われる。

 コロナ危機への対応は、速度の重要性が極めて高いので、秀才の出した対策を、偉人が即、実行しなければならなかったし、その実施策立案に、天才のアイデアが加味されれば、さらに効果は大きくなる。台湾は、そのように政治が機能した。

 日本は凡人トップの強権政治が長く続いたために、秀才集団である官僚が機能不全を起こしており、天才を登用するような余地は全くない。天才はその才能を潰されるだけなのがわかるから、政治に近づこうともしない。

 天才秀才に権限と自由を与えると、自分の凡人ぷりが衆目に晒されてしまう、と凡人トップは思うのである。

 「ハラさん、自分のこと、秀才に置いて書いているでしょう」。はい。私は天才でも偉人でもないが、仕事をしていた35年、秀才の役割で働いてきた。多くの天才クリエーターの方々に、秀才の能力を評価してもらって、働き続けてきたという自負はある。
 コロナ対策についても、この一年間、誰よりも早い段階から正しい提案を続けてきたという自負はある。実際の政治やメディア論調が追いつくのに、数か月以上かかる、タイムラグをずっと感じていた。

 論理的に正しいことを即座に理解する能力も、誰にも思いつかないアイデアを思いつくことも、一国のトップには、本当は必要ないのである。そういう秀才、天才を見つけ出し、凡人の妨害から守り、いや、凡人の支持を上手に取り付け、必要な解決策を、必要な速度で実現実施するのが、偉人であるべき、国のトップのなすべきことなのである。

 安倍さんにも、菅さんにも、こういう能力は無かった。無い。無いよなあ。

追記1
上記投稿をしたところ、友人から「職人は」という指摘があった。たしかに、天才の構想を形にする、特定分野においてのみ、完璧な、100点の仕事をする存在というのは、分類類型としてあり。いる。総理大臣ではなく、特定領域の政治家、大臣として、良い意味での族議員あがり職人気質大臣というのは、ありえなくもないか。

追記2

野党の追及と言うのが、首相の「凡人」を批判しているのか「悪人」を批判しているのか、野党の政権批判は、そこがごっちゃになっているのが良く無いと思う。政策の不備を批判するときは、秀才性欠如の批判をすべきなのである。スキャンダルの批判はそれとは異なる善悪の問題である。秀才性の欠如=凡人性の批判を凡人に対してするときには、善悪批判をするような、不必要な攻撃性を出しても仕方がない。国民に与える野党の印象が悪くなるだけである。

脱線追記3

将棋の藤井聡太二冠について「天才」と皆言うが、様々な取材や記事を総合的からすると、「並外れた超秀才」のような気もする。論理的ではない飛躍をしてひらめく、と言うのではなく、読みの幅に固定観念をはめずに、普通のプロ棋士が読まない手の、先の展開まで読む。なぜ読めるかと言うと、読みの速度が尋常でなく速いから。他のプロ棋士を「秀才と天才の区別がつかない凡人」状態にするほど、読みの速度が速い。それは脳内盤面画像化するプロセスを端折って、盤面イメージなしに数値データだけで読みを進められるから。この一年の藤井聡太研究の、とりあえずの結論はそういうことのようである。

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