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『某 』  川上 弘美 (著) 人間はひとつの個性を持つ肉体で、ある社会、親のもとに生まれ、その条件・限定の中で生きて、死に向かう。一回しか生きられない人生を生きる。そういう条件だからこそ人生、人間は尊い、とすると。その条件から外れた不思議な生き物、存在が、もしいたら、いろいろ、どう感じるの??

『某 』 2019/9/12 川上 弘美 (著)

Amazon内容紹介

『死ぬことは、今も怖い。
恋してからは、ますます怖くなっている。
名前も記憶もお金も持たない某(ぼう)は、
丹羽ハルカ(16歳)に擬態することに決めた。
変遷し続ける〈誰でもない者〉はついに仲間に出会う――。
愛と未来をめぐる、破格の最新長編。』

ここから僕の感想。

 僕は川上弘美さんをまとめて読むようになったのは割と最近で、『大きな鳥にさらわれないように』『森へ行きましょう』と読んできたので、この小説だけが特に変わっているとは感じなかった。

 こう、三作続けて読むならば、そこにあるのが、「人間とか人生とかの一回性、固有性」を外してしまう奇妙な設定を持ち込むことで、「人間、人生の一回性、固有性」に深く迫ろうとする方法論的アプローチ、というように読める。

 何を言っているか、分からない?だよね。

 主人公は、人間世界に、突然現れて、とりあえず初めは男とも女とも分からず、年齢もわからない状態で、病院の受付にいる。そこから小説はスタートする。その、小説に現れた時点からの記憶しかない。記憶喪失、ということではない。その時点からしかこの世界に存在していないようなのだ。

 そういう「誰でもない者」が、とりあえず性別年齢外見を決めて、人間世界に入り生活する。(そういうふうに変化変身できちゃうのだ。)そしてなんらかのきっかけで、自分の意志でだったり、そうでなかったりするのだが、また別の性別年齢外見に変化して、別の人間関係、生活に入っていく。これを繰り返す人間ではない「何物でもない存在」が主人公。彼または彼女が、何度も繰り返し変化しては生きていく、その独白形式の小説なのである。


 ただし、自分が死ぬ可能性があるのか、人間と生殖は可能なのか、老いるのか、変化したとき、前の設定の記憶や知識や性格はどの程度引き継がれるのか、生きて見ないことにはわからない。先がわからないという意味では、人間同様、「未来が分からない状態で世界に投げ込まれた」存在なのである。


 人生が一回限りである。特定の状況下、特定の時代に、ある特定の肉体のもとに生まれて生きるしかない人間という存在。その人間の条件から外れてしまった、変な生き物を主人公にすることで人間って、なんだろうということ、好きとか愛とか死への恐れとか、いやもっと単純に働くとかそういうことの意味を、一から問い直していく。


 あるいは一方、小説で人物を造形し、それを動かして小説と言うものを紡いでいくという営み自体を客観視したときに現れる、「小説の登場人物って、本当のところ人間なの?彼らの内的体験を客観視したら、ちょっと違うんじゃない」という疑問を扱った小説のようにも読める。あなたが感情移入して、人間のことだと思って読んでいる小説の登場人物って、本当に人間なの。小説が始まる以前には存在もしない、妙な生き物なんじゃないの。そう言われれば、そうだなあ。へたくそな小説に対し、「人間が書けていない」とか批評家がいうけれど、そもそも、小説の登場人物というのは、「登場人物」という、妙な生き物なのかもしれないよな。(あ、この小説は、当然、へたくそじゃないですよ。小説を書く名手が、「小説の登場人物って、人間じゃないよね」と思ってしまって書いた小説。ていうこと。)


 川上弘美さんは、そういうことが一回、気になりだしたら、どうしても、そういう風にしか思えなくなって、最近、小説を書いているのではないだろうか。ものすごく感動するとか、わくわくするほど面白いとか、そういう小説ではない。なんだか変な知的な話を読みながら、ところどころで心がもぞもぞする。そんな小説でした。

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