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日本の、戦争の体験、犠牲者のことを考えるのが普通と思われる8月15日に、新型コロナと豪雨災害で大騒ぎのこの日本に暮らしながら、ハイチの大地震とアフガニスタンのタリバンのことを考えるとは、どういうことなのか。

 この前、ハイチの(正確にはハイチ出身アメリカ人の)小説家エドウィージ・ダンティカの『すべて内なるものは』を読んで感想noteを書いた。その中には2010年のハイチ大地震(31万人を超える死者が出た)に関わるものもあったのだが、また昨日、ハイチで大地震があり、何百人も死者行方不明者が出ている。ハイチの歴史と現在の苦境を知ることは、奴隷貿易の歴史、人種差別、アメリカとカリブ海諸国中南米諸国の関係を知る事にもつながるし、ざっくり「カリブ海諸国」としてしか日本人には見えていないあの地域の中の多様さと、その国や地域の間の対立や争い、などなど、いろんなことを考えさせる。なぜハイチは特に貧しいのか。なぜ特に、ひどい目に遭いつづけるのか。(世界初の黒人だけの共和国で、人種差別がまだ残り続けた隣国から、国としてまるごと差別されてきた歴史があるのである。)
 
 話は変わって。アフガニスタンでは米軍の撤退でタリバンが一気に攻勢を強め、地方都市の多くを制圧し、首都カブールに迫っている。基本、欧米の報道でアフガニスタンのニュースは知るわけだけれど、それだけだと、一面的なのだ。 タリバンの問題をちゃんと考えるためには、イスラムのこと、基本的人権のこと、欧米や国連はイスラム世界の紛争内戦にどう関わるべきなのか、関われるのか。そういう、すぐには答えのでない難問について考えることが必要になってくる。

 タリバンはイスラム法を厳密に実行する集団で、そのことが「原理主義」ということで、イスラムの価値観で言えば、原理主義の方が正しく、欧米の価値観に沿って、イスラム法と矛盾対立する法律を作って国家を運営する「世俗主義」の方が、正しくないと考える人もたくさんいる。イスラム世界の流れを見ると、その「世俗主義は正しくない」の人の方が多いように思われる。(ジャスミン革命以来の北アフリカ諸国を見ても、どうもそのようだ。) 現政権はその「正しくない世俗主義、欧米寄り」の政権なのだ。

 「女性の教育や権利」という点に立てば、現政権のほうが進歩的だ。しかし、タリバンのほうが、イスラム教を厳格に運用することで、犯罪や無法な強盗団をきちんと押さえて統治する、と考える人も一方にある。イスラム法通り、「泥棒の手を切り落とす」ことで、無法者は押さえ込まれる、治安は良くなると、タリバンは考えているのだ。(こういうふうに厳格にイスラム法に基づいた刑罰を行っている国は、現在でもけっこうある。)

 

  タリバン=イスラム原理主義武装集団=テロリスト、と欧米経由報道を見ると思うが、タリバンと現政権の対立は、「田舎をベースにした保守的イスラム教に基づく政治勢力」と「欧米に従属した、世俗的な都市型政権」の内戦である。どちらにも支持者はいる。ここ最近の急激なタリバンの支配地域拡大も、元々タリバン支持が優勢だった地方都市が、アメリカ軍の撤退で元に戻っただけけとも言える。 

 BBCやCNNが「女性の教育の権利実現を進めていたアフガン女性」に対してインタビューすれば、当然、タリバンがカブールまで制圧し政権を取れば「私の命も危険になる」と答えるし、そういう立場の人にとってはタリバンの復権は悪夢である。しかし、現政権や、その前身の軍閥に弾圧されたり、腐敗に苦しんだりしていた人にとっては、タリバンの復帰が朗報、という人もいるはずである。そういう人の声は、欧米メディア経由では伝わってこない。そういう「タリバン歓迎」の人がごく少数だったら、あんな急激に勢力は拡大しないのではないかと思う。

 イスラム原理主義政権と、世俗的だが腐敗した現政権と、どちらを支援するのか。それとも地元の、その国の人の選択に任せて外国の軍は撤退するのが正しいのか。撤退することで悲惨な目に合う人がたくさん出るとしたら「手を引く」という選択は正しいのか。でも、居座り続けたら、その国の人の意志に沿った政権には、いつまでもならない。それでもいいのか。その泥沼の争いにアメリカは嫌気が差して、手を引くことにしたわけだ。アメリカ人の若者の犠牲を延々だし続けることに耐えられなくなったのだ。

(アメリカの撤退は、中国に代役をさせようという深謀遠慮だ、という見方がある。アフガニスタンの解決の見えない泥沼に、中国が一帯一路の経路にあるアフガニスタンを勢力圏に置こうと介入する、それを狙っているというのだ。新彊ウイグル問題を抱える中国が、アフガニスタンに対してどういう形で介入するのか。それは誰にとっての新しい悪夢の始まりになるのか。)

話がズレた。本題に戻ろう。 

 両方の国とも、日本からは遠くて、僕にはハイチ人にもアフガニスタン人にも知り合いはいない。

 それでもこうしたことを知ろうとし、その意味を考えることがなぜ必要なのか。

 そもそも、8月15日というこの日に、こういう、日本からは遠い国に起きている悲劇、不幸のことを考えるのはなぜか。 

 コロナの緊急事態宣言が発令されている首都圏で、新型コロナで命の危機にある人もたくさんいて、日本全土を襲う豪雨水害で命の危機にある人もたくさんいて、日本国内の現在にも切迫した危機がいろいろある中で、わざわざハイチとアフガニスタンのことを、あれこれと考えるというのはどういうことなのか。自分でもよく分からないから、書きながら、考えていく。

 日本の、戦争の体験、犠牲者のことを考えるのが普通と思われる8月15日に、新型コロナと豪雨災害で大騒ぎのこの日本に暮らしながら、ハイチの大地震とアフガニスタンのタリバンのことを考えるとは、どういうことなのか。

 先の戦争中に悲惨な目にあった日本人たちと僕との間にも、76年と言う長い時間が横たわり、その苦しんだ人の中に、僕の知っている人はほとんどいない。僕の父母は幸いなことに、戦中、小学生中学生の年齢だったが、北海道の農家の息子だった父は、食べる者にはさほど困らず、札幌の医師の娘だった母は、その父(僕の祖父)は、中国に軍医として出征していたが無事帰ってきたし、母は疎開も体験し、食料にも困ったようではあるが、近親者を戦争で亡くしたり、自身が空襲にあったりという体験はほとんどしていない。


 同じ時代・時間に生きているハイチやアフガニスタンの人たちとは空間距離的に離れているが、昔、戦争で苦しんだ直接知らない多くの日本人や、その支配や戦闘で苦しんだアジアの人たちとは、時間的にずいぶん離れている。どちらも、面識のない「知らない人」であるという意味では、変わりがない。

 戦争から長い時間がたって、具体的な記憶を忘れないように思い出したり伝え聞いたりして記憶する。そのことの恐ろしさ辛さを知る、ということは大切だと思うのだけれど、その悲惨とこの悲惨とあの悲惨のどれがより大事でどれが「自分事」で、どれが「他人事」かということを考え始めると、よくわからなくなるのだ。

 自分ではない他者の悲惨な境遇について、「自分にとって近いと感じられる人の悲惨」と「自分にとって遠いと思われる人の悲惨」を比較衡量して何かを語ることが、大切なようで、ときには「敵味方を分ける」考えに結びつくということも、考える必要があるように思うのだ。

 僕の書くものがたいていそうであるように、話は突拍子もない方向に飛ぶ。「ホームレスより猫を救うのに、自分が払った税金は使ってほしい」と言った、メンタリストのことだ。知らない汚いホームレスより、かわいい猫を救いたいとYouTube動画で語る彼にとって、「猫」の方が近く自分事で、「ホームレス」の方が遠い他人事なのだ。それは、そういうことはあるかもしれない。そういう人はいるかもしれない。この「大切さの遠近」については、人それぞれの感じ方だ。殺処分される猫の命の方を、ホームレスや生活保護受給者の命より「自分にとって大切」と感じること自体を、その心の動き自体を批判することはできない。ホームレスを救う活動をしている人もいれば、殺処分されるペットを救う活動を熱心にしている人もいる。どちらがより価値の高い活動で、どちらがより価値が低い活動だ、などという必要はない。

 それでも、「猫が僕にとっては大切」だとは思っても良い、言っても良いけれど、「ホームレスの存在、命に価値がない」と思うのは間違っているし、発言するのはもっと悪い。「なんとなく悪い」のではなく、はっきりと、悪い。

 どう考えればよいか。

 「あまりに悲惨なこと、と感じられることは、自分との距離とは関係なく、なくなる方向に人類は進まないといけない」というのが、人類がさまざまな誤りを繰り返しながら到達している、いまのところの人類の合意なのだと思う。

 もちろん、こういうことは、法学者的には、各国の法律や、国際機関で採択する宣言など、明文化していないことには実効性がない、ということになっている。「基本的人権」に関して、そういう明文化されたものを通じて、実現しようとしているわけだが。その目標とする範囲、状態は、各国の憲法や、各種の国際機関での宣言などで様々だ。

 が、いちばん基本的なところには「あまりに悲惨な状態には、人間は、おかれてはいけない。それを放置してはいけない。それは世界中のどこにいる人に関して、分け隔てがない。」ということだと思う。

 自分にとって遠い近いの感覚、というのは、人間にとって自然なもの。身内が大事。同じ会社の人が大事。五輪では日本人だけを応援。こういう「大切さの、遠近感」というのは、人類の古層の記憶、動物時代からの生き残りの戦略の名残だから、どうしたって、ある。 

 しかし、それがいろいろな「とんでもない悲惨なこと」に結び付くことを、人類は経験してきた。「まあ、自然なことだし」と放置すると、ある瞬間に、とんでもなく悲惨なことになる。ナチスのホロコーストも、関東大震災の朝鮮人虐殺も、ルワンダの虐殺も、日常にある「だって大切さの遠近感はあるよ」を放置すると、とんでもないことが起きる。 

 「世界中の誰に対しても分け隔てなく、距離の近い遠いは関係なく、とんでもなく悲惨な状態に放置することは容認されない」という合意に基づいて、人類は進んでいこう。戦争について、その悲惨な体験について思うとき、近い遠いの問題を乗り越えるということを、同時に考えるべきだと思うのだ。

 8月15日という日に、日本の、戦争で死んだ人、苦しんだ人、それは兵士も一般人も含め、そうした人たちと戦争の体験に思いを馳せることは、たしかに大切なのだが。そこに、「日本人のことを思う」という距離感がどうしても強調される。近い人のことから、まず思い出すのが、それは人間として自然なことだ。しかし、近い人のことだけを思い出すのでは足りないのだ。その近い人の悲惨を思うことを通じて、過去の、遠い国の人の悲惨も、現在の遠い国の人の悲惨のことも、思いを巡らせることが必要だと思うのだ。
そういうこの日だからこそ、今、この世界の、知り合いもいない、距離的にも離れている、ハイチの地震被害者や、アフガニスタン内戦で恐怖におののいたり、あるいは逆に復権の興奮に打ち震えている、それぞれの立場の人たちのことを思うことには、意味があると思うのだ。



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