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『恋するアダム』 イアン・マキューアン (著), 村松 潔 (翻訳)  AI、ロボットをめぐる大傑作。明日発売の、カズオ・イシグロ新作『クララとお日さま』もAI、ロボットをめぐる小説らしい。イギリスを代表する二大作家が、期せずして近いテーマで、どんな小説を書いたのか。こちらも注目してね。

『恋するアダム』 (新潮クレスト・ブックス) 単行本(ソフトカバー) – 2021/1/27イアン・マキューアン (著), 村松 潔 (翻訳)

Amazon内容紹介

「冴えない男と秘密を抱えた美女の間に割り込むアンドロイド。奇妙な三角関係のゆくえは? 独身男のチャーリーは、母親の遺産を使って最新型アンドロイドを購入した。名はアダム。どんな問題も瞬時に最適解を出すAI能力を利用して、チャーリーは上階に住む女子学生ミランダと恋仲になることに成功した。だが彼女は重大な過去を秘めており、アダムは彼女に恋心を抱きはじめる。人工知能時代の生命倫理を描く意欲作!」

ここから僕の感想。

 ものすごく大急ぎで読んだのは。というところから説明開始。イアン・マキューアンという人は、イギリスの現代作家の中でも、いちばん知的でひとひねりきいている小説家だと思う。これくらいの年齢、世代の、イギリス、アイルランドあたりの作家は本当に大豊作と言うか、ジュリアンバーンズやジョン・バンヴィルやグレアム・スウィフトや、そしてカズオ・イシグロもその中の1人だ。ブッカー賞を常に争っていて、その作品の内容も、微妙に影響を与え合っているのか、それとも同時代に同世代が書けば、自然にそうなるのか、そこのところは興味深い。

 明日、カズオ・イシグロの最新作『クララとお日さま』が発売になるのだが、この内容が、Amazon内容紹介では「AIロボットと少女との友情を描く感動作。」なんだそうだ。そして、マキューアンの最新作本作も、AI、ロボットをめぐるものなのだ。イシグロ新作を読む前に、これを読んでおきたかったわけ。二人が、AI、ロボットをめぐって、どれだけ全く異なる小説を書くのか。

 マキューアンの小説は、いつも、知的で、シニカルだ。主人公がたいていトホホな、性格や生活状況に何がしか欠点や問題を抱えていて、なにかちょっとカッコ悪い境遇にはまりかけている。そういう主人公が、成り行きで思いもかけぬドラマに投げ込まれていく。背景には、たいてい社会的、政治的状況が描きこまれる。イギリス社会の中で、労働者階級よりは上の、なんらかの知的専門職的な主人公が多く、それぞれの専門分野について、緻密にリサーチをして書かれることが多い。労働者階級よりは恵まれているが、知的専門階級なのに、そうであっても問題は抱えている。経済的だったり、家族愛情生活においてだったり。社会的にそういうポジションの人間の「労働者階級じゃないのにリベラル側支持」だったり、とはいえ「やっぱり、保身的という意味で保守的だったり」という、まあいわば、僕やその友人たちのおかれている、微妙な社会経済政治的立場、のようなものに、なんとなく近しい主人公が設定されることが多い。この辺の自己矛盾を辛辣についてくるところが、マキューアン小説の基本性格なのだ。

 この小説は、かなり凝った設定になっていて、フォークランド紛争当時のサッチャー政権時代という政治背景なのに、科学技術発展段階としては、すでにきわめて進んだAIロボットが発売されている、という、パラレルワールド設定なのだ。現実のイギリスの歴史を調べ直さないと、どこがどう違って、それが知的遊びになっているのか、おおよそは見当はつくが、そこは例によってWikipediaのお世話になりつつ、読み進めた。コンピュータの開発者であり、戦時中、暗号解読で活躍したアラン・チューリング、実際は、同性愛で戦後告発され、不遇のうちに50年代に亡くなっているのだが、彼が戦後も活躍を続け、AIの劇的進化をもたらして、1970年代後半には、もう人間とは区別のつかないような、高度なロボットが商品として発売された、という状況の世界で、お話は進む。

 時には、ものすごく喜劇的に、時にはすごく深刻に、さまざまストーリーは展開していくのだが、AIが、ロボットが、人間とは異なる形で自意識を持ち始めた時に、ロボット自身と、人間との関係において、どのようなことが起きるのか。そもそも自意識とはどのようなものか。そこから照らして、人間の自意識とはどのようなものか。こうした哲学的な考察に、何度も深く踏み込む。物語の展開と無関係にではなく、物語の展開の中で、ロボット、アダムと主人公チャーリーや、その他人間との会話の中で、行為の選択の中で、こうした問題が、どんどん深まっていく。きわめて論理的でありながら、人間とは異なる価値判断を次第に明確にしていくアダムの言動、行動から、人間社会、現代社会の抱える矛盾もまた、するどく浮かび上がってくる。文明批評、現代社会批評として、扱われる問題も、きわめて多岐にわたる。

 とはいえ、繰り返しになるが、起きる事件は、時にコメディであり(何度か爆笑した)、時に深刻なサスペンスであり、また恋愛小説でもあり、家族小説でもある(愛とか、希望とかをめぐる小説でもあるのだ)。とにかく、小説として、面白い。面白い小説の中に扱われている問題の幅と深さが、これは本格的文明批評とか人間とは何かをめぐる思想そのものなのである。それをまとめあげる力技のすごさ。

 イシグロ新作との比較検討も楽しみだが、実は、イシグロの直近二作、特に『わたしを離さないで』ときわめて接近する重要なテーマが、この小説の中には埋め込まれていて、その部分を読んだときには、ひどく興奮してしまった。ただし、それはAmazon内容紹介に書いてある「生命倫理」という問題ではない。芸術創作と愛の証明、という芸術と愛の問題なのだな。(と言われて、すぐなるほど、と分かる人は、イシグロ読みだと思います。)その部分、ちょっとだけ引用。

「彼が考えているというのは何を意味するのだろう? 遠くにあるメモリバンクを調べまわっているのか? 論理ゲートを閉じたり開いたりしているのか? 自意識がなければ、考えているのではなく、むしろデータを処理しているだけではないか。しかし、アダムは恋をしていると私に言った。そして、俳句を作って、それを証明しようとした。愛することは自我なしには不可能だが、わたしはまだこの基本的な問題を解決していなかった。」

 この小説を「読んだよ」と教えてくれたのは、マキューアン読みの読書友達。彼と、「マキューアンやバンヴィル作品の知的な文体は、翻訳者 村松潔さんの文体によるところもあるよね」と話をすることが多いが、本書でも、村松さんの翻訳、素晴らしい。パラレルワールドの事実解説は、訳注にはせずに、巻末解説にざっくりとまとめてくれています。

 カズオ・イシグロ新作を楽しみにしている人は多いと思いますが、そちらを読んだ後でいいので、こっちもぜひ読んでみてね。そして、マキューアンを今まで読んでいなかった人は、どんどん遡って読んでいくのも楽しいと思います。

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