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N⇔One

創造力が豊かといえば聞こえはいいのだが、有体に言えば外界から吸収した情報に簡単に影響されてふらふらする性分でもあるため、ここしばらく、現実の世界とは少しずれた別の世界にいる夢を見ている。

"And There Were (N-One)"というサラ・ピンスカーの短編を読んだのが原因である。短編集の最後の話。短編集の中ではあまり好きな話ではなかったけれど、テーマである平行世界に無意識は心惹かれたらしい。ところで、タイトルを見ればおわかりのように、この話は"And Then There Were None(そして誰もいなくなった)"のもじりである。いなくなったのは全員ではなく、平行世界から招待された無数(N人)のサラ・ピンスカーのうちの一人だけだったという話。

もともとバイナリーな性自認ではないことを反映してか、夢の中での性別はあいまいである。夢での性別は、バイナリーである2つの極値をとっておらず、その間に広大に広がっているスペクトラム空間のどこかに収束している。意識として曖昧なのは、起きているときと同じ。起きているときと異なるのは、身体の性別がより自由ということだ。ただし、身体が収束している点はバイナリーである2つの極値のいずれかである。極値に収束している点で自由とはいえないかもしれないが、意識としての軸と身体としての軸の双方を考えてみれば自由は明白だと強く主張したい。異論は認める。

性別程度の揺らぎであれば"少しずれた別の世界"とはいえないように思う。でも、私が見た夢では重力の強さが少し違った。そして、周囲にいるのは同じ人間のように見えて、これも少し違った。夢の中でそれに気づいたときに、これはちょっとまずいのではないかと一瞬思ったけれど、なんだ平行世界だよねとN-Oneを思い出してまあいいかという気分になった。違うように思える世界が遠く離れているとは限らない。もしかすると、お互いに隣り合っているかもしれず、ほとんどの部分が重複しているかもしれない。光学異性体のように鏡像を見ていて、その鏡が何らかのバイアスで僅かに非対称なだけかもしれない。


一つ確かなことは、その世界のものすべてに重力は公平に作用する。

何も恐れることはない。


N⇔Oneなのである。たとえ世界が違っているとしても。