友情
***
昨日書いた紅葉鳥倶楽部、物語の終わりにかけてのMちゃんの言葉やリーダーのメモを読むたびに涙が溢れそうになるので、ああ自分はまだあの子のことを忘れてないんだ、と実感している。ふと思いついたあの話は、すごく個人的な物語だったみたいだ。
そろそろ本来のテーマに戻ろう。
本来のテーマでは前回の記事にあたるこれ👇
を書いたその日の夜に、これまであまり見たことがない夢を見た。
***
目を開けると、初夏を思わせる澄んだ青空が見えた。
視線を落として辺りを見渡すと、高原の別荘地にあるような木造の建物の前に立っていた。地面は舗装されていない。周囲は木に囲まれていて、90年代の一時期よく通っていた安曇野から白馬のあたりを思わせる景色である。
視線を建物の方に戻すと、さっきはなかったルビー色の車が止まっていた。この車は見たことある。
アスコットイノーバ・・・
90年代の前半、低車高の4ドアハードトップが流行した時期があったが、発売時期が少々遅すぎたためか大コケした車である。現在、覚えている人はほとんどいないのではないかと思う。というか、当時ですら走っているのを見たことがほぼない気がする。
ただ、デザインはとても美しかった。あくまでも当時の基準だが。低いボンネット(歩行者保護が難しいので今では無理)からリアにかけての流れるようなライン。
その車が目の前に止まっていた。明らかに普通の夢じゃない気がする。
後ろから、未舗装の道を車が進んでくる音がした。振り向くと、赤いロードスターが近づいてくるのが見えた。リトラクタブルヘッドライト(こちらも歩行者保護が難しいので今では無理)で、MoMA(ニューヨーク近代美術館)にテールランプが収蔵されている初代のやつである。こちらはMiataの名前で世界的に大ヒットした。ちなみにMiataは、古高ドイツ語らしい。
ロードスターは自分のすぐ横で止まり、Tシャツにジーンズの恰好をした若い女性が降りてきた。
それが誰かはすぐにわかった。
前回の記事に書いた、18歳のときに分離したパーツの女性の方だった。このような形で対面するのは、多分初めてだ。私が覚えていないだけかもしれないが。
当たり前のことながらお互いによく知っているわけだし、どういう形で対面しても別に良いとして、驚いたのは彼女に顔があることだった。これまでの記事では特に触れてこなかったが(触れる必要もなかったわけで)、それぞれのパーツには顔がない。いや、実際には顔はあるのだろうけれど、顔を感じることはない。胸元から膝あたりまでをぼんやりと感じることがほとんどである。心の中の部屋にいる子供たちについては全身が見えるが、こちらもやはり顔はわからない。ただ、着ている服の形や色はわかる。例えば23番は、刺繍の入った民族衣装のようにも見える濃紺のワンピース型の服を着ていることが多い。解離性同一性障害の人のnoteを見ると、アバターとして各人格の顔が載せられていることがあるが、その感覚はどうやら自分にはないようである。
なので「顔はどうしたの?」と聞いたら、
「あ、これ?自分(彼女自身のこと)が好きなタイプの女の人の顔を平均化した」と笑いながら答えた。
「平均化・・・?!」
確かに、そう言われてみれば、主に映画やドラマの俳優たちだけれど、なんとなく元となった人たちの面影があるような気がする。
車で登場したのは、純粋に運転が好きだかららしい。車を運転すると、そしてそれがマニュアル車や古い車など、より身体を使うものであるほど楽しい気分になっていたのは彼女が影響していたのかもしれない。
二人の立っているその場所は、彼女が分離してそれほど時間の経っていない90年代のままだった。
それから建物の軒先に座ってしばらく話をした。
夢だからか、会話の内容はあまり覚えていない。
ただ、よくわかったことは、彼女と私は友情のようなものでつながっているらしいということだった。私は彼女の存在に長年気付かなかったわけだし、その友情は、純粋に彼女の好意ともいえる。こんなに大切で素晴らしいことはなかなかない。
***
夢を見たその日、Twitter経由でこのような記事をみかけた。
これはもしかしてあの有名なシンクロシニティなのでしょうか?と思ったよね。
***
友情って不思議だ。
愛の一種だけど、何故か愛とは違っていて、いわゆる愛よりも無償な感じがする。そこにはおかしな期待がない。
だから長く続くものなのかもね。