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noteを書く目的:色々ありすぎたこれまでの人生を振り返る①0歳~20歳まで

目次

・ウルトラスーパーハードな親の人生を振り返る
・親関東移住×ワンオペ×第2子(私)HSP=余裕皆無な環境で人生キックオフ
・HSPっ子の私を母理解できず、意思疎通激むず、初期設定スーパーハード
・美しいものが好き、絵、色、粘土、音楽に没頭
・父が転勤族で引っ越し6回、HSP気質×転校=毎回血反吐を吐く
・クラス替えの度に大ダメージ
・小5~6で、いじめのターゲットになり大ダメージ
・中学はマンガと部活で楽しい生活
・祖父二人とも立て続けに脳梗塞で半身不随、日常に介護があった思春期
・母が育児×家事×介護×パート=鬱、母子の共依存が進む
・アルコール依存×鬱の母から虐待発言=10年以上呪われることに
・「一番欲しいものを欲しいと言ってはならない」呪いにかかっている
・親の軸で専門進学を決め後悔
・恋愛を利用して人生のステージを上げるしたたかさ


現状の確認

現在40代前半、ノンバイナリー×Xジェンダー×身体の性は女性、BL大好き。
法律婚アレルギーあり、現在子どもが大学進学し一人暮らし。

今まで大半の時間を親や子どものために使ってきて、純粋に自分のために使えた時間は留学していた数年だけ。
昨年、子が巣立ち、自分のことを考えられるステージにようやくきた。

子の巣立ちを待ちに待って、転職や海外を視野に入れて準備をしてきたが、
驚いたことに、ここにきて動けなくなった。
「人生の疲れ」がどっと出て、半年ほど仕事を休んでいる。

子が巣立って間もなく、職場でくそくだらないトラブルに巻き込まれた時、
「私の人生(時間と労力)を、本当にここに費やしていいのだろうか」と心の声が聞こえてきて、
「あ、ここで頑張っちゃだめだ。いったん立ち止まりたい。この職場の50代の先生方を10年見てきて、自分の幸せとリンクしたロールモデルはここにはいない。」と思った。

本音と現状が大きくズレると、人の体って本当に物理的に動かなくなるということを身をもって体験した。うまくできている。

これまでの本音は、
「自分を犠牲にしてでも子の学費のために稼ぎたい」だった。だから、どんなくそな労働環境でも、適応しようと努力ができた。

今の本音は、
「20歳でNZ留学した前後、親と距離がとれ、子育てに絡めとられる前の、自分軸で動けていた当時の私の願いを叶えてあげたい。ずっと心残りだった、やり残したもう一つのルートを進みたい。」なんだ。


親の人生の振り返り

私の遺伝子上の親は北海道で生まれ育った。
父方の祖父は戦争へ行った。母方の祖父は戦争に行けなかった。私の父は家の中にPTSDを抱えた父親のもとで育ち、私の母は戦争へ行けず、周囲から一人前として扱ってもらえない劣等感を抱えた父親のもとで育った。

両親は、陰の者の父、陽の者の母と、コントラストがはっきりしていた。
父の闇が深いわけだ。戦争によるPTSDを抱えてる親の下に生まれたとなると、その時点で子どもの生活ハードモードすぎるもんな。
母の明るさの理由が分かった。祖父が戦争に行けなかったおかげで、戦争による精神破壊が家庭に入り込むことなく育つことができたんだ。

母は2人兄妹。当時の政府のアナウンスし祖父母が内面化していた家父長的な価値観の色濃いあるべき家族像から、働く(看護師になりたい)選択肢を与えられず、貧困から中学卒業後は親と離れて暮らすことになりとても寂しい思いをした。銀行に就職をし、当時通信制高校に通っていた父の課題を代わりに行うなどして交際していたようだ。目鼻立ちがはっきりした美人さん。モテたはず。
彼女は数人から求婚されたが、家庭環境劣悪の父にべたぼれし、「私が助けてあげなきゃ」と20代前半で結婚した。

彼女は寂しかったのかな。だから、父の虐待育ち故の「救われたい」という異常な執着が、彼女のニーズと合致したのだろうか。ただ、20代前半は性ホルモンの影響がすごいある時期だし、恋愛感情は理性や思考を後退させて生殖の成功率を上げるためにプログラムされたものだと私は考えているから、彼らがこの年代で人生の伴侶を決めたのは博打でしかないと、今は思う。

父に対する恋愛感情をずっと抱き続けてきた母。
子どもの私からすると、生活する空間に恋愛感情をもつ人同士がいて、その人達が自分の生存に関わっていて、彼らがケンカをしたら自分の生存のために仲裁してと、母とどっぷり共依存になって非常に苦労した感がある。
だから、家の中に恋愛があること自体に「必要ある?」って思ってしまう。

母は、両親から愛情を受けて育った自覚はあるが、貧困で16歳から親と暮らせなくなったこと、学費を出してもらえず看護師という夢がかなえられなかったこと、男尊女卑的な価値観により兄を優先されたこと等が彼女の中で未整理の傷だったのではないかと思う。

未整理の傷は都度癒しておかないと思わぬところで自分や自分の大切な人の人生の足を引っ張る。彼女は母になってから、長女である私の人生が私の思い通りに行かないようなムーブをしたし、私も頭では自分の子どもの人生を最大限サポートしたいと考えていたけど、実際、大事な局面で踏ん張りきれなかった。

父は3人姉弟、祖父が中国に別の家庭をもっており、祖母とは不仲。祖母は独りで下宿と飲み屋を経営し、子どもたちを食べさせてきた。
一つの納豆を3人兄弟で分け合って食べるのが当たり前。幼稚園生の妹の弁当を作る小学校低学年の父。
貧困×夫から妻への経済的DV×父親からのネグレクト×母のワンオペ、とウルトラスーパーハードモードな設定だ。

戦争が無ければ、大きく違ったんだろうな。
戦争で自国が焼かれた国、PTSDをもつ人と共に生きる家族が抱える課題って、アメリカも、ベトナムも、ウクライナも、パレスチナも、皆似ているんだろうな。

父は、通信制高校に通い、働きながらバンド活動もして、心に傷を負った美人。さぞかしモテただろう。
あたたかい家庭の雰囲気をまとった女性に惹かれ、母親に結婚を反対された中で結婚した。私の父と祖母の間でしばらくわだかまりがあったようだ。

父は器用貧乏でいろいろな仕事をしたが、続かず、北海道は仕事も少ないため、1歳の幼児である兄と胎児の私を引き連れて関東に引っ越してきた。

これは子育て前に聞いた時は、「ふーん。大変そうだな」だったけど、
子育て経験後は、「これはやばい。大人の余裕はまずないし、必死過ぎる環境だから、子どもを受け入れる余裕なんて欠片もなかったろうな」と思う。
子どもを抱えた移民第一世代の、必死さ、家庭の混乱を、私は子供の立場で経験した。だから、自分が移民の第一世代になると考えると私の中のインナーチャイルドがざわつく傾向がある。

父は、仕事があれば何でもいいと手あたり次第探し、市のごみ収集の仕事、公務員の試験、色々試して、警察学校に入ることになった。
父が警察学校でトレーニングを受けている間、母は慣れない土地で、幼児と乳飲み子を抱えてワンオペ育児。しかも2番目の私は超繊細な赤ちゃん…
想像を絶する世界。よく手はあげずに育てたな。

母は私のことが理解できなさ過ぎて、悩みすぎて、占いに希望を見出した。私のコツコツ勉強するマニアックさは母譲りだと思う。母は、占い師として開業できるまでの知識を身につけた。

最近まで「占いに逃げる母は弱い」と思っていた。でも、子育てを終えて、インナーチャイルドワークをあらかた終えた今は、「母の知識の深さ、占いへの強迫性は、私のことをわかりたいと思ってくれた気持ちの強さと同じなんだな」と思うようになった。

私も子どもに自尊心をもたせたいと、脅迫的に福祉や教育を学んできた。私の知識の深さ、教育への脅迫性は、私が息子を「自尊心と自分軸のある子に育ってほしい」という願いの強さが発端になっている。
私と母は、この点でとてもよく似ている。

子どもが自尊心をもって、自分軸で育つには、愛情だけでは足りないんだな。
・経済的にある程度の余裕があること
・親が日常的に相談できる人をもっていること
・親戚や友人など子育てを物理的にサポートしあう環境があること
・HSP気質の子どもをHSP気質の親が育て、その親が周りからサポートされていること
・親の無力感・劣等感が薄いこと
・親が人生の傷を癒す習慣があること
・子どもが愛されている頻繁に感じられる生活習慣があること(子どもの成長動画を誕生日に鑑賞会するとか、お遊戯会のダンスの動画を親がちょくちょく見ているとか、写真が飾ってあるとか、子どもの作品を飾っているとか、「私はあなたが大切なので」「あなたの存在が大きくて」とことあるごとに伝えているとか)
・子どもにどちらがよいのかを問い、考えさせ、選ばせ、結果を引き受けさせるサイクルがあること

私の両親は、3人の子どもを連れて、慣れない土地を数か月~3年程度で転々とする生活になり、酒やたばこに依存しながら、必死に生きてきた。


私の誕生から20歳までの振り返り

私は物心ついた時には、母のぴりついた雰囲気を感じていた。
兄は母と相性がよく、私の目には、兄は母から無条件に愛されているように見え、兄に激しく嫉妬していた。

私の目には、父が母を虐げているように見えた。父は王様で、母は使用人のような関係性。なんでも父が最優先。父の気分を損ねないことが母の最優先事項、我が家のルールだった。

小学校に入る前、母がいつも兄を優先しているように感じていて、あるとき私の怒りが爆発した。家の前の国道で、行きかうトラックを見ながら、「自殺してやる」とじっと立っていた。結局実行できないヘタレだったから今があるわけで、そこはヘタレで本当に良かったと思っている。

父はトイレのドアの鍵をかけないで入ることが多く、私が中に父がいることに気が付かないでトイレのドアを開けると、母から鬼のように怒られ、私は尿意を我慢しながら父に謝罪したことが何度かあった。

「小学生の女の子がトイレに入ろうとドアを開ける時に、男親が排泄している姿を見せられる」
今書いていて思ったが、これ自体が性的な暴力だったのか。性的な暴力を受けた上に、さらに私が母からキレられる。性的な暴力×精神的な暴力か。
母は、私の恥ずかしい思い、嫌な気持ち、嫌な目に遭わされた上に強制的に謝らせられる屈辱がわからなかったんだろうか…

夫婦間のパワーバランスの、経済力との関係は深い。
私は、専業主婦になることが何よりも怖いと思いながら育った。
よい関係性を保った夫婦もいるだろうが、他者の存在なくして自分の生存が成り立たない構造の中で生きることは、私は心地よさを感じない。

相手から愛され続ける、相手の会社や事業が順調であり続けること、相手が病気や事故にあわないことが、専業主婦の生活の安定に不可欠な条件になる。

日本の女性の非正規雇用率、生涯賃金、M字カーブを考えると、離婚したくても経済的に離婚できない、離婚という選択肢すら頭に浮かばない人達が、かなりの数いるのだろうと思っている。

20代⇒30代、30代⇒40代と、自分はだいぶ変化していて、20代の時に選んだ人を30代の自分が選ぶか、30代で選んだ人を40代で選ぶかというと選ばない。人間はアメーバのような存在で、形を変化させながら自分の生きたい方向にしか進めない生き物だと思っている。

2匹のアメーバがお互い様々なものを調整して同じ方向へ進み続ける生き方がしたい人もいるし、重なるときが来たらその時は重なり、別の方向を向けば離れていくのがよいという人もいる。私は後者。ここで共感してもらえることがすごく少ない。


小学校は3つ行った。転校ばかり。
繊細な人間なので、クラス替えや転校で新しいクラスにぶち込まれて慣れるまでに1年はかかる。慣れてきたころにまた転校orクラス替え…
母は学校から帰ってきてぐったりしている私を心配してくれた。朝行き渋る私を途中まで送ってくれた。いじめのターゲットになり精神が死にそうな私を支えてくれた。

私の小学生時代は、環境への適応にけっこうな力を費やしてきて、母がいつも心配してそばにいてくれた。支えてくれてたんだなぁ。

中学校では、趣味のマンガ友達に囲まれて、楽しい生活を送ることができていた。吹奏楽部で夜遅くまで残って友人たちと話をしていた。余談になるが、当時の顧問の先生の人権を平気で侵害するマインドだった。自分が先生という立場になり、先生の労働者の権利が侵害されまくっていることを知った。今の私が先生を続けられないと思うのは、日本が先生の人権を意識する国じゃないというところもある。


このころ母方の祖父が脳梗塞で半身不随になり、うちに来ることになった。年金を払っていなかったため、障がい者年金は無し。私の両親は、育児と介護の両方を抱えることになった。

父は仕事、母は家のことと分業しており、母は他者の面倒をみることで自分の居場所を確保する依存のタイプだったため、子どもを育てて家事を回そうという発想にはならなかった。

母はパート、3人の育児、父の面倒、実父の介護、家事と、仕事量が一気に膨れ上がり、夫婦ケンカが増えた。母と父がケンカをするたびに私は母に愛されたいので母の聞き役になり、母との共依存を深めていった。

兄は我関せず。私と兄の決定的な違いは、
私がHSPであることと、兄は母を独り占めして愛された時期があること、そして母と兄の相性がよく言葉が通じたことだろう。
兄は愛された実感があるから、自分と母を分けて考えることができた。私は愛された実感がないから、母と一体化し、いつまでも母の愛を求めた。

祖父の介護で金銭的に厳しくなり、私の高校進学は公立で絶対に落ちない徒歩で通える高校と勝手に決められてしまった。

経済的なものだから、どうしようもないと今なら思うが、当時の私は、許せず親を恨んだ。高校進学してから、頑張っても無駄だと、勉強をしなくなり、授業もさぼるようになっていった。


私が高校生になったある時、母が台所で酒を朝から飲みながら泣いていて、私にこう言った。
「あんたたちがいるから、私は離婚できない。お父さんとは別の人と結婚すればよかったのか。その場合、あんたたちはどうなるんだろう。私の遺伝子が半分入っているから大丈夫か。」
衝撃が大きすぎた。私は父に性質が似ているので、私自身も全否定されている気がした。

母はそれだけ、追い詰められていたんだろう。酒に依存した鬱状態の人の発言を、HSPの私がものすごく深くキャッチしてしまった。この発言は、しばーらく、結構長いこと呪いとなり、私を蝕んだ。

私はどっぷり共依存だったので、「私が母を支えなきゃ」と、大学に行きたかったけど、専門にして、早く母を経済的に援助して父と離婚させてあげようと思ってしまった。

このあたりで、父が戸建てを購入し、父の転勤族生活は終わった。ただ、父は、私の大学進学費用は用意しておらず、兄は男の子だから大学に行かせる、私は女の子だからいずれ結婚するから大学に行かせる必要はないという発想だったようだ。

高校受験は介護による経済的困窮で挑戦できない。大学受験も家の購入による経済的困窮とジェンダー差別で挑戦できない。
親、祖父、兄…、家族は私の道を阻む存在だった。


そんな中、母方の祖父が母の兄に引き取られて、間もなくして、父方の祖父が脳梗塞で半身不随になり、家に来ることになった。

当時はそれが当たり前だったが、設定がハードモードすぎる。
ハードモードの要因①日本は、子ども関係の家庭の費用負担が多い国であること。
ハードモードの要因②戦争での貧困、戦後の混乱、社会保障体制を構築していく時に波に乗れなかった祖父の無年金問題。
ハードモードの要因③天皇制、家父長制の維持を目的とした、ジェンダー差別が根深いこと。

日本で生きるのがしんどいのは当たり前。私が自分の子どもに「海外に出な」ってすすめてきたのは、このハードモードの設定で子どもが生きる必要はないし、子どもが嫌なら外に出してあげられる力が私にあったから。

子どもは迷いに迷って、日本の大学を選んだ。私は日本のくそみたいな条件の中で生き抜いてきたけど、子どもは私がそれを感じないように緩和してきてしまったから、コップの水が溜まってない、動機が薄いんだろうな。そして、「別の選択肢を提示ないでほしかった。迷わないで大学受験に集中したかった」と言っていた。

父方の祖父は父をネグレクトしていたので、父や父の姉妹が引き取ること自体、不可能。PTSD抱えた父親から虐待受けて育った子どもが介護をするのは無理。

結果、父は引き取ったくせに一切かかわろうとしない。
今度は父が祖父に対してネグレクトをしていた。
そして、母が父の尻ぬぐいをするいつもの構図。

トイレの壁が祖父の便まみれになっていたことが何度かあり、思春期だった私たち兄妹はトイレに入れなくなった。

社会が望む女性像、育児・介護を一生懸命してきた母は、あるときコップの水があふれだし、フラッと出て行ってしばらく帰ってこなかった。

私は祖父の死を望んだ。祖父の介護で母が先に死にそうだったから。

母はしばらくして帰ってきたけど、
私の中に、妻になること、介護への恐怖心がしっかりと刻み付けられた。
それ以降の人生で、法律婚と介護が発生しそうな可能性がでてくると、私の中の癒えていない記憶がアラートを発し、全力で逃げるようになった。


高校を卒業し、私は美容の専門学校へ進学した。
・共依存的な動機は、早く母を経済的に援助し、父と離婚させて、私を愛してほしいと思ったこと。
・私自身の弱さとしては、高校で全く勉強しなくなったので、今更大学受験の勉強についていけない、逃げた現実と直面したくなかったこと。
・経済的な面では、父が家を購入し、兄が地方の私立に二浪して入ったため、本当に家にお金がなかったこと。
・母が自分の本音をすべて塗りつぶして父に合わせて生活をしていたので、私が母に愛されるためには、私も一番欲しいものを我慢して、欲しいと思わないようにしてきた。これは、毎日の食卓のレベルから、一番食べたいものは食べたいそぶりを見せないとか。ここが私が自分軸で生きるために、克服しないといけないところ。「欲しいものを欲しいと言えない、そもそもほしいと認識しないようにしている」

どろどろした気持ちを抱えながら、美容学校に通ったが、
案の定、通っている中ですぐに、「あ、やっぱりここじゃない」と
感じた。「まちがったー 。やらかしたー。」という思いを抱えながら、
片道1時間半かけて通う日々。

その時付き合っていた人が、
パイロットになりたいと公言して航空大学校に入るための準備をしていた。
性的な場面での人権意識とか残念な人だったが、私がその人に一番惹かれたのは、
「自分がやりたいことをやりたいと公言し、まっすぐに努力をするところ」
私もそうありたかった。

だから、その人が航空大学校に合格して、関東から離れるってなった時、
「離れたくないけど離れなきゃいけない。離れている間に、私もその人に見合うことを成し遂げたい。留学しよ。」と思った。
人権意識とか、ほんと残念なところはあったけど、
私自身の幸せを追求する方向に、私を導いてくれたことに関しては、
本当に感謝している。

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