ぬこ餅

🤟毎日がエブリデイ🤟

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最近の記事

夏が咲っている。

 それがこびりついて剥がれない。一体どこに貼り付いているのだろうか。耳か、瞼かはたまた脳裏になのか。その全てのような気もするし、それ自体まったくの嘘で、全部わたしが作り出した幻影のような気もする。  ぼうっとしていると鼓膜に嘘の潮騒が当たる。不快だと頭を振ると、何年も前に聞いた蝉時雨にチャンネルが変わった。期限切れの音が上半身を駆け抜けて、喉の奥に粘着質な唾液となって留まった。  小汚い向日葵の花びらが、諦めるように垂れている。開きすぎた立葵が大袈裟に揺れている。暑さで腐った

    •  少し前にニセアカシアの花を見た。街路樹として植ったニセアカシアの木に花が咲いていたのだった。車の窓が開いていて、花の香りがふんわりと漂ってきて幸せな気持ちになったことを覚えている。昨日、近所に生えたニセアカシアの木の寂しげな枝を見て、あの記憶が夢の産物であったことに気づいた。ニセアカシアの花の時期はまだ先だった。その事実を受け入れても別に悪い気はしない。まるで片思いをしている相手が夢に出てきたみたいな気持ちだった。  大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、わたしは本当にニセア

      • 日記

         スーパーの駐車場から車へ戻るまでの間、西からの日差しに顔を顰めながらも、その爽やかな風に心地良さを覚えていたから気分は良かった。  家へ帰ってきてから、この心地良さとはいったい何であろうか探すために散歩へ出かけた。  日の高い頃に感じた温もりは微かに残っていて、頭上にあって、冷えた空気が瓶底に溜まるみたいにある。そこにわたしが居た。日が傾きだすとだんだん、その温もりは霧散していって、アスファルトの温もりを頼りにしなくていけなくなってくる。  そういうところに居るんだなあと思

        • I cannot sleep well.

           私は眠るのが上手ではない。基本的に心配性なのだ。自分のことはどうでもいいけど、ひとのことになるとものすごく心配性になる。出来ることなら私の周りの人は全員幸せであってほしいと思う。そりゃあ誰だってそうだろうと思うかもしれないけど、心の隅で思うのと心の底から願うのとではやっぱり違うから、多分みんなが想像しているよりは強く思っているんじゃないかと思う。わからないけど。  そんなことはどうでもよくて、私は心配性だという話。友達と遊んでいて別れたら相手が帰るまでの道で何もないだろうか

        夏が咲っている。

          無題

           とある配信者が話の中で漫画に触れている時間があった。ひとつふたつ、世代が上の人が描いた漫画で、若者の日常が描かれた作品だった。  当時、その漫画はリアルだったのだと思う。若者の幸せはこのようなものだったのだろうと受け取れる内容だったみたいだ。  現代における人生観というのは人それぞれであっていいという風潮が強いけれど、女性の幸せとはこういう物だ、真っ当な人生とはこういうものだといった物差しの片鱗は現代にも残っているような気がする。現代にも残っているような気がするということは

          日記

          9月27日  努力は万能ではない。全ての努力が報われるのであれば全員東大生だし、全員プロ野球選手になれるじゃないか。似たようなことを聞く機会は少なくないが、上達には努力は必須だと思うし大抵の場合は努力でどうにかなるものじゃないか、と思う。有り体に言うなら努力の方向性の問題だ。能力を伸ばすための近道を探して効率良く努力するにはどうするかとか、目標に辿り着くためにはどういった努力を積みたいかとか、そういう問題だと思う。全員東大生になれるのか、全員プロ野球選手になれるのかと問われ

          日記でいい

          9月22日  ファミレスに行っても、公園に行っても、どこに行っても子供の写真を撮る親を見かける。SNSをひらけばその写真があがっている。子どもを育てているとそういう気持ちになるのだろうか。不思議だなと思った。自分はそういう写真の撮り方があまり好きじゃないけど(自分がするに限定して)、もし、自分に子どもがいたらどう思うだろうか。子どものために写真を撮ろうと思うようになるのだろうか。今はまだよくわからない。 9月23日  結構長いこと通話をしていた。夜に。恋愛の時代らしい。

          日記でいい

          日記だろうが

          9月19日  再現性と表現性について考えていた。写真って、再現性の高さを求めて見る人が多い気がするのだけど、そもそも再現性と表現性の境界って曖昧だなあと思った。わたしの撮った写真に限っていえば、再現性にこだわっているし、表現は妥協なのだけど、再現性と言ってる割に表現じゃないかと言われそうな作品もある。わたしにはこう見えているということの再現力の高い作品を良いと思うし、それからズレていると、違うなという気持ちになる。だけど、他の人の作品や過去の失敗の積み重ねがそれらを「悪くな

          日記だろうが

          日記になりたい

          9月15日  はらぺこぐーの助。可愛くない?TwitterがXになってしばらく経った。Xのアプリアイコンが汚れただのひびが入っただの言われた頃に「このままアイコンがパラパラと崩れてTwitterが戻ってくるんだ」って冗談を間に受けて、Twitterが戻ってくるのを待っている。とっくに当選発表日が過ぎて全部外れだって確認した後なのに、本当は当たっているんじゃないかって宝くじのホームページを何度も行き来する、みたいな気持ちで生きています。 9月16日  予定が詰め詰めだった

          日記になりたい

          日記でもない

          9月13日  芸術肌ってなんだろうと考えていた。わたしは、アートを通して社会を見る力が強い人のことをそう呼ぶんではないかと思った。社会の見方は大きく分けると三つあって、経済活動を通して見る、スポーツ競技を通して社会を見る、アートを通して社会を見るに分けられると思う。結局全部、経済活動であるんだけど、アプローチの仕方が違うかなって。まあ、なんでもいいやって気持ちになってきた。前日にたくさん寝たからか、全く眠れずしんどい。寝過ぎたら寝過ぎたで、うわぁ…ってなるのに眠れないとしん

          日記でもない

          日記っぽい

          9月11日  相手の人柄や好みを見て、好きなものを言うか言わないかを決めるって寂しいじゃんと言われたことを思い返していた。確かに寂しいことかもしれない。けれど、自分の好きなもので誰かが不快になったり嫌悪感を抱いたりしているところを見ると辛いから、それなら一人で好きを抱えていた方がずっと良いと思っている。わたしは好きなものについて話す時、思いつきで話すことはなく、どこが好きで、どんな風に好きかを自分なりに理論立ててから話す。これは長い言い訳で、傷つく準備をしています。そういう

          日記っぽい

          日記らしい

          9月9日  家にあった一番大きな梨を持って仕事に行った。これを、切り分けて少しずつ食べよう。小腹が空いたら一切れ食べるんだ、と思っていたけど、皮を剥いて味見をしたら全部なくなっていた。友達が近くまで来たからと寄ってくれて、恋バナを聞いていたら人が集まってきて、なんだこの集団…と思った。結構楽しかった。友達にお気に入りの珈琲豆で淹れたアイスコーヒーを飲んでもらえたの嬉しかったな。ギーをもらった。 9月10日  だんだんと日記が長くなってきている。日常が楽しくなってきた証拠

          日記らしい

          日記みたいな

          9月7日②  パリスジャクソンがSNS上で写真をあげたら、わき毛を剃れってコメントされたというニュースが流れてきた。わき毛を剃れって言う人ってどういう気持ちで言っているのだろうか。不清潔だって言いたいのか。よくわからんけど。脇がフェチだっていう人もいるからわき毛が見えたら萎えたりドキドキしたりするのかな、と思ってわき毛の画像を見に行ってみたけど、無感情だった。これでドキドキしたりしたら困るなあとほんのり考えていたが、しなかったので良かった。グリーンブックの残りを観た。面白か

          日記みたいな

          日記とか

          9月3日  Twitterのフォロワーと食事に行った。最初はスープカレーを食べる予定だったけど、お店が閉まっていたのでハンバーグを食べに行った。すごくお腹が空いていたからずっとお腹が鳴っていた。二人だったのだけど、これからの生活などを考えると二人だけでご飯に行くのはこれで最後な気がした。楽しかった。本を少しだけ読んだ。 9月4日  パキスタンカレーを食べた。温泉に行った。睡眠不足が続いているせいか、人に当たりそうになったので気をつけようと思った。前に読んだ、椎名誠の本で

          本当のスクールカースト

           学生時代を振り返ってスクールカーストの話題を持ち出したり、中高生がそれらを取り上げて盛り上がったりしているのをよく見かける。わたしは決まった友達とばかり連んで、それ以外の人とはあまり仲良くしない質だった。そして、決まった友達というのは加虐性の弱い子達(腹の中で何を思っているかはわからないけど)だったので、わたし自身はスクールカースト的には低いところに居たのではないかと思っている。スクールカーストの話題を敢えて取り上げたりすることはあるけど、当時、スクールカーストを気にして過

          本当のスクールカースト

          自分と向き合うしんどさに内包される己の話。

           対人関係を築いていく中で、もっとも満たされる瞬間っていつだろうか。たとえば相手が恋人だったら、友達だったら、家族だったら、SNSのフォロワーだったら、と、想定する相手が違えば内容も変わってくるかもしれない。友達だって何人もいればその人によって違うでしょう。だけど、わたしには不変のそれがあるような気がする。  わたしは、友達と時間を共有して関係を築いてきたと思う。同じ時間を過ごして経験したことが共通の話題になる。その瞬間くらいはわたしたちって同じ人間なんじゃないの?って思う

          自分と向き合うしんどさに内包される己の話。