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2020/6/6 「多様性」に疲れてきた

思ってることを隠さず正直に話せばこんな隠れキリシタン(クリスチャンではない)みたいな苦しみも抱かずに済むのかなーと思って今日は書きます。

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最近は「多様性」という言葉に疲れてしまいました。よくネットとかで見ますよね、「多様性のある社会の実現に向けて」みたいな。広く一般においてどれほど浸透した価値観なのか私には観測できませんが、考えるのが好きな人や、ビジネスの話をネットでしている人とかは、ほぼ100%知ってる2020年代のテーマだと思います。

多様性のある社会を実現したいという考え方、私ももちろん賛成です。五年くらい前なんかはそれこそ、まだ二十六でしたから、血気盛んでもあり、すべての人が理性的に望みさえすれば多様性のある社会が本気で実現できると信じていました。

でもどうなんでしょうね。もう無理なんじゃないかなって最近思うんですよ。戦争だってなくならないのに、だって戦争がなくならないのって多様性な価値観の存在を認めないがゆえの結果じゃないですか。だから人と人は争うのに、国と国は争うのに、どうして世界は今こんなことに……胸が痛いです。

「多様性を受け入れる」って言い回しあるじゃないですか。「多様性の受容」とか。あれ、なんなんでしょうね。内心いやがってない?と勘繰ってしまうような表現ですよね。だって「受容」ってなに?という話です。めちゃくちゃ上から目線じゃないですか。 Respect each other ならわかるんですよ。互いに尊敬しあう共存の在り方。

でも「受け入れる」ってなんなんでしょうね。好きでもないけど、しゃーないな、みたいな感じなんでしょうか。あのご近所さん、好きじゃないけど、しゃーないな、みたいな?ご近所争いに発展しないなら確かにそれもアリなのかもしれないけど……

みんなが目指している「多様性のある社会の実現」ってもっとキラキラ輝いているイメージがありました。すべての人種や階層の人が平等に存在して、互いの意見を交換して……って、そんな夢物語が本当に実現できるんでしょうか。実際はもっと泥臭い、我慢も必要な、現実的なものなのもしれませんね。

夢見る二十六歳だったあれから五年が経って、なんの因果か原因不明の難病になり、取り戻せない過去と過酷な現実の狭間で溺れながら、そんなことを考えています。きっと今の私は社会から弱者とみなされる立場で、その社会が目指す「多様性のある社会」では満足に輝けそうもないし、そもそも今の自分に納得していないので、重いだけです。

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ところで今日読んだnote。

「アメリカじゃこうやって(ホームレスに食べ物を)配るのってフツーの文化なんだろうな。日本人はこういうのなくて、冷たい文化だな、なんて、動画を見ながら思っていた。」(本文引用/一部解説のため補足)

古い洋画を見ていて肌身に感じることなのですが、欧米では前提としてクリスチャンであるという共通項が人々にあり、みな神の子=人類みな兄弟、という認識があるからこそ、道行く人同士(この場合は食事を手渡す人とホームレスの人)が対等に接することができるのかな?と思いました。

もっとも、今現在の欧米社会では移民などの影響から宗教も多様化していますが(これぞ多様性というやつの最たるものですね)、土地に築いてきた価値観の地盤は揺るぎにくいのかな、と思います。

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人種のことについても今週はいろいろと考えましたが、それについては言及せずにおきます。なんのこと?と思った方は海外のニュースをお調べ下さい……

思ってることをつらつら書いてみただけで特に調べていないので、間違ってたらすみません。

おわり

HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞