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稜線を越えて、シルクロード

 約束通り、朝4時に目を覚ます。山に行くということで少しいつもより着込んでおこうと思う。1階に降りて物音のしない静まり返った部屋のソファに座った。遠くから、犬が吠える声が聞こえてくる。この街には野良犬もいるみたいだ。その声を聞いていると、どうしてか切なくなる。なかなかセルゲイが降りてこない。まあ急ぐこともないし、予定がずれることは承知の上での約束だ。5時を過ぎてようやくセルゲイが降りてくる。「ごめん、昨日寝たのが遅くて寝坊した」と言う。5時半に出ることになり、あたりが暗い中僕らは出発した。バスを一回乗り継ぎ1時間ほどでそこに行けるという。そこからは歩いていく。

 バスを降りるとまだあたりは夜のように暗く、頬を指すような冷たい空気が体を纏う。あのガソリンのにおいの混じった排気ガスの多い市内とは打って変わって澄んだ空気が心地良かった。僕らがいるのはアルマトイの西南に位置する。メデウという世界で最も高い標高にあるスケートリンクがある場所としても有名らしい。標高は1700メートルほどだ。そりゃあ寒いわけだ。外気温は-12℃くらいだった。ここから歩いて山間の道を行く。車も通ることが出来る整備された道を歩きながら、坂道を登っていく。セルゲイが「この先に820段の階段がある。とても健康的だ」と言う。数100メートル先に続く階段を見上げながら歩いていく。深く深呼吸をしながら、迫ってくる階段の壁に備える。息は深く、肺には冷たい空気が入り、口からの白い息が街頭に照らされて揺れている。階段を上り始めると徐々に息が切れはじめ、深くしていた呼吸も浅くなり、肩で息をするようになる。足元をみるとエネルギーが下がるからなるべく上を見るように言われる。頂上は見えない。もう登り切ったか!と思うと、まだ半分だった。所々階段のわきに休憩スペースがあり、僕とセルゲイは小休憩を取った。登ってきた階段を振り返ると眼下には、まだ眠りの中の早朝のアルマトイの街が見える。息を整えて、再び階段を登っていく。視線は足元に下がり、足は徐々に重くなっていくのを感じる。何度か小休憩を挟みながら、ようやく階段を登り切った。「よし!やったぞ!」と僕らはハイタッチをした。着ていた上着はいつの間にか脱ぎ、カバンの中に入れている。かなりの坂と階段に、汗をかき、正直着込んできたことを後悔するほどだった。

 その後アルマトイの街を右手に見ながら、緩やかに右方向にカーブして敷かれた山間の道を歩いていく。先には街灯で照らされた光が道しるべとなり、光る鉱石のように僕らのことを先へと導いていく。目の前には山頂に雪を蓄えた岩山の山脈が薄明りの中見えている。徐々に山の稜線がはっきりと見えてきて、東から太陽が昇ってきているのを感じる。そうか、この山の先にはキルギス、その先にはゴビ砂漠だ。自分が歩いている道が、その昔シルクロードとして西から東へ、東から西へ物や人、文化を運んできた道なのだと理解した。そのシルクロードの、わずか一部だがいま歩を進めていると思うと、膨大な歴史と広大な自然に飲み込まれそうになる。ふとセルゲイが目的地に着いたら、ある一つのことを必ずすると約束してくれ、と微笑を浮かべながら言う。何のことか、僕にはわからなかったが、景色に見惚れるあまり「わかったよ」と適当に答える。何か企んでいるらしい。そこから40、50分歩いた。到着地には登山をするものたちが集まる山小屋のようなカフェがあった。一面ガラス張りで、周囲の景色が美しく見える。セルゲイは常連らしく、そこに集まっていた仲間たちと挨拶を交わした。みんなは僕のことをあたたかく迎え入れてくれて、温かい飲み物やフレッシュな果実、甘いものをいただき、冷えた体を温めた。一人外に出てみると、歩いていた時よりも空気が冷たく感じた。目の前に広がる山々の大きさや積もった雪は、息を吞むようだった。自然はいつも我々に特別な力を与えてくれるものだ。太陽はだいぶ登ってきているが、まだ山陰に隠れている。空は晴れ、青白く薄く透き通った色だった。標高2000メートル近くまで登ってきていた。

 セルゲイが「約束、忘れてないよね」と僕のことを別の部屋に連れていく。おもむろに取り出したのは、足つぼマッサージの比ではない、それはまさに釘のように鋭利なものが無数に飛び出している板であった。「おいおい、これをやるのか」と聞くと、「健康にももちろんいいし、鍛えるんだ。精神を集中して痛みをコントロールする。これをすることによってストレスとか苦痛とかを緩和して、物事への感謝とかを覚える」と答える。セルゲイは仏教やヨガ、瞑想などを学んでいて、こういった類のものを日々しているそうだ。先にやっている何人かに混ざって、セルゲイがその板に足を乗せた。どうやら片足ずつではなく、サポートしてもらいながら両足でいっぺんに乗るらしい。そりゃあそうだ、こんなとげとげしたものに片足ずつなんて乗れるわけがない。彼はやりなれているらしく、胸の前で手を合わせめを閉じて深く呼吸をしているが、隣のもう一人は初心者らしく、痛みの苦痛で顔を歪めている。さて、僕の番だ。とにかく、なんでもやってみようと思う。肩を借りながらゆっくりその上に足を下した途端、痛みを通り越した物凄い熱い物を足の裏に感じた。これは痛くてたまらない。思わず仲間の方を借りながら腕に力が入る。その道のマスターみたいなロシア人が「スマイル!」といい、苦し紛れの笑顔をしてするが、それどころではなく、押し寄せるこれまで感じたことがない感覚に驚愕した。「お母さんのことを考えろ」と誰かが言った。「OK、あと2分頑張ろう!」と、とてつもなく長い数分間を過ごした。そこからゆっくり足を下すと、足の裏にはまだ痛みを感じ、そのまま地面に足をつくことはできない。椅子に腰かけて5分ほどしてようやく歩けるようになった。足の裏には、穴が空いたかのような深いあとが付いている。サドゥボード(Sadhu Board)、またはデスクサドゥ(Desk Sadhu)というらしい。あの美しい山々に感銘を受けた後、こんなことをやらされるとは思ってもいなかった。しかしなぜか終わった後は気持ちのいいものだった。

 しばらくそのカフェで時間を過ごし、「会えてうれしかったよ」と、そこにいたみんなと別れを告げて道を戻る。すっかり空は明るくなって、早朝とは違った山の顔を見ながら、帰路に就く。帰りのバスでは、疲れでお互いにうとうとしている。バスの向かいの席に座るセルゲイの顔に当たる陽の光があまりにも美しかったので、カメラのシャッターを1枚切った。時刻はまだ午前中だった。

セルゲイ、モスクワ出身の19歳

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