「みんな」を崩すための未整理な「言葉」

■悩みます

本音を言うことは難しいなぁと常々思う。それは「我慢すること」と表裏にあって、「みんな言わないようにしているのに、自分だけ言っちゃったらダメなんじゃないか」とか、「みんなそんなことわかって我慢してるんだから、かえって空気悪くなるんじゃないか」とか思って、なんとなくみんなが思ってそうなことを、自ら規制していくことになる。

僕はいま、フリーランス業と並行して、都内の障害福祉施設(通所と短期入所)に勤めていて、今回の緊急事態宣言をうけて、都の現場におりてきた通達によれば、「障害福祉サービスは、利用者の方々やその家族の生活を維持する上で欠かせないものであり、利用者に対して必要なサービスを継続的に提供すること求められる」ということになる。僕らスタッフも、その方針に倣って、施設・事業の継続を決めつつ、利用者さん(のご家族)に電話をし、この状況を説明した上で、一定、通所による感染リスクについても伝えたうえで、利用の判断をうかがっている。

と同時にスタッフの中には、事業継続が必要なのは理解しながらも、やはり「通勤がこわい」という意見はある。終息の先行きが見えない状況下で、いつまで感染に怯えながら事業を続けるのか、利用者さんからの利用の自粛がない限りは、事業を縮小させたり、それに並行して出勤するスタッフ数を減らしたり、ローテーション勤務にするなど、様々な可能性は考えうるが、その判断すら決めきれない不確定な状況が続き、「とりあえずは感染防止対策は行いながら、これまで同様に働く」というときに、ある種の「我慢」を強いられるのは、確かに辛いとは思う。

一方でさらに同時に、やはり利用者さん(やご家族)の目線に立てば、そう簡単に「通所の自粛」とはならないことも、強く実感する。ようやく通うことに慣れ、家族との良好な関係性を築いてきたのに、突然通えなくなるときに、ご本人の(このコロナ禍という状況に対する)理解度もままならないなかでは、ただ混乱を起こし、心身ともに荒れてしまう可能性は大いにある。またここで働くことにとても強いモチベーションと幸せを感じてくれている利用者さんから居場所を奪ってしまうことになる。例えば「5月6日までの辛抱」(もっと伸びる可能性は大いにありえるけど)だったとしても、そこを自粛するのは辛いだろう。また、そういった通うべき居場所があることによってこそ、家族という関係が成立している方々もいて、そこが崩れると虐待にまで発生するケースも容易に想像できる。

■「みんな」って?

政府が自粛要請をする相手は、「標準的な国民」であり、それを世間ではあまり疑うことなく「みんな」と呼ぶ。この「みんな」は実は極めて拘束力がある概念で、冒頭の「みんな我慢してるんだから」というように、「でもその“みんな”とされるうちにいると想定されているのかもしれない、この“私”においては、結構そのことは結構辛い(身体的に、精神的に)問題なんですけど・・・」ってことはすごく多くて、だからこそ世の中には様々な合理的配慮とか、ユニバーサルなんちゃらがあるわけだけど、「緊急事態」は緊急事態ゆえに、下手すれば「みんな頑張ってんだから」「みんな我慢してんだから」という形で、かえって「標準」へと世界が引き寄せられていく危うさを持っていることは忘れてはならないと思う。

「(行動の)自由を制限」された人たちのなかで、それ自体がほとんど「殺される」ことと同義になりえる人たちは確実に存在する。「家で過ごす」なんて絶対にできない行動障害を持った人たちがいるし、「他人と接触する」ことでその人の生命が支えられている医療的ケアが必要な方もいる。またわかりやすく知的や身体に障害がなくとも、家族を含めた人間関係のなかでそこにとどまれずに漂うしか生きる術がないような人たちも多くいる。「福祉」に関わっている人間であれば、これはおそろしく当たり前のことだと思うんだけど、報道を散見している限りでは、やっぱりこのあたりの話は経済崩壊に対する危機感や、学校や病院などもう少し「誰もに通じる話」(さっきから言っている例も実は誰もに通じると思うが)がクローズアップされ、埋もれていることがあまりにも多いように感じるのだけど。

そして、話はぐるぐる回るが、「そのこと」に気づいている人たちや、職業柄、「みんな」から外れてしまいがちな人たちの支援に関わっている人たちは、とてもとても判断に迷っている。事業を続けることで感染のリスクが高まるのはやはりそうで、それでも居場所を持続させるべきか、何かしらの方法で縮小させつつ、代替となるサービスやつながり方を模索するか、など。下手すれば、利用者さんスタッフ共倒れになる可能性があり、緊張感は高まる。

結論はすぐに出ないし、状況は刻一刻と変わる。
でも、僕はこのジレンマはせめて発信すべきだと思う。

■未整理な「言葉」がいま必要なの

今日、友人(と言っていいのか)であり、先達として尊敬するダルク女性ハウスの上岡陽江さんと二時間ほどスカイプで話をした。先々週くらいから、陽江さんの方から「話さない?」と言ってくれて、久しぶりにじっくり話したと思う。特段何を話すというのがなくても、なんとなく「このあたりのこと」というのは二人ともあったのではないか。

陽江さんが言っていたことで印象的なのは、「ちゃんとした言葉で話さないといけない状況に対するしんどさ」という問題。それは彼女が、薬物依存症やDVのサヴァイバーの方々とともに居場所を形成してきて、当事者研究を立ち上げていくなかで、それらの実践を整理し、社会化してゆく過程で、様々な研究者やメディアの人たちとも連携を深めながら活動をしていくなかで、「整理された言葉」の持つ力をわかりつつも、「そもそもそういう整理された世界からこぼれ落ちてしまう存在同士がつながりあって、別の言葉を生み出すための回路」を作る作業で、また整理された言葉に依存せざるをえないことに対する苦悩があるのではないか、と話を聞いていて思った。このあたり、読者のみなさんに伝わるかなぁ。

彼女はちょくちょく、「表現者として放つ言葉の担い手」としての僕を頼りにしてくれているんだなぁと思う。その場合の「言葉」は文字通りテキストや発言といったものだけでなく、音楽を介したワークショップという場だったり、障害のある人の表現について考えるラジオだったり、いろんなレベルの表現から汲み取れる「言葉」のことを言っているのだと思うのだけど。そこにはおそらく「余白」があるのだと思う。意味の余白が。きちっと整理されえないものがこの世に多くある限り、その状況自体に着目するための「言葉」はきっとある。その「表現としての言葉」の必要性を陽江さんは相当痛切に感じてきたのだと思う。そして、いまこのコロナ禍のなかで、自分たちの居場所を丁寧に守り続けるために必要なことを、必死に模索している。

自分でもこのあたりをどう考えればいいのか、まだわからずにこの原稿を書いている。世の中の秩序が乱れそうな状況の中で、人々の自粛が「=自制」にならないための態度の話、と言えばいいのかな。未整理な状態のままで生きていいということは、「みんな」という価値観の枠外で成立する世界を保証することでもある。しかし、それを保証する主体は、「みんな」ではないし、そうあってはならない。大切なことは、「自分も“みんな”ではないかもしれない」という面を自覚すること。「みんな」というボーダーに小さな穴を開け続け(あるいは経験によって、開けられ続けるという受動性を許容することによって)、浸透圧を低めること。

しかし、まぁこんな未整理な原稿をただ思いつくままに書いてるもんやわ。
まぁ、いいや、これは纏まりきらないことを我慢せずに言うための自己回路やし。

今日はここまで!


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