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飯田和敏が語る 「オープンワールド」 という思想


【オープンワールドという思想】


飯田和敏  ゲーム・クリエイター/アート作家

代表作・『アクアノートの休日』『太陽のしっぽ』『巨人のドシン』

(Kazutoshi Iida, Game Creator (Doshin the Giant) - toco toco)

  僕が一つの文化の起点として重要視するのが1978年です。
 「新世代の圧倒的支持」から、三つのカルチャーが誕生しました。
「パンク・ロック」という若者の閉塞感への反逆心。
『スター・ウォーズ』(1977・ジョージ・ルーカス)という宇宙空間への羨望。
 そして、『スペースインベーダー』(1978・タイトー)です。

 今から僕は、1978年の大きなカルチャーの転換期と、日本のテレビゲーム産業の誕生から、現在の「オープンワールドという思想」までを考えていきたいと思います。

 まず、1978年の日本に『スペースインベーダー』が現れて、人々の心をわしづかみにしました。ここからビデオゲームの産業化が始まりました。
 しかし、すぐに確立化されたわけではないです。当時は玩具メーカーだった任天堂はこの模倣品を作っていました。
 しかし「ファミリーコンピュタ」(1983)という家庭用コンシューマーを開発し、いくつかの危機はありましたが一時的なブームで終わるわけではなく、今日までゲーム・メーカーとして続いてきました。
 その始まりが、『スペースインベーダー』なのです。

 その前にアメリカには、『PONG』(1972・アタリ)がありました。テニス・ゲームのようなものです。
 次に『ブレイクアウト』(1976・アタリ)も産まれました。これは最初の「ブロック崩し」ですね。脱獄という意味です。これが、当時のアメリカのゲーム産業になります。

 そこからの模倣で日本独自の『スペースインベーダー』というのは産まれました。ブロックが動いて宇宙人の形をしていたら面白いはずだ、というのが発想の原点だと言われています。

https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/07/space-invaders-nishikado_a_23405472/

 当時の社会状況はどういったものだったのかと言いますと、ドキュメンタリー映像を観ると一大ブームになり、『スペースインベーダー』が熱心にプレイされています。
 特に中心は若者やサラリーマンです。とにかくハードを置いておけば、お金が自動的に溜まっていくということだったのですね。あまりのブームに基盤をコピーしたものまで大量に現れます。
 そこで訴訟合戦まで始まります。「テレビゲームの訴訟」というものが当時は衝撃でした。権利を買い取りたい企業や、それを巡った攻防も繰り広げられます。

 ここでのポイントは日本にまだ存在しなかったビデオゲームが発売され、それがどこに置かれるかということです。これによってその後の歴史は大きく変わったと思います。
 『スペースインベーダー』の、テーブル型筐体というのは日本のオリジナルでした。当時はあらゆる店舗には風紀的な管理・監督がされていましたが、まだビデオゲームが存在しなかったので、これがどこの管轄になるのか定まっていませんでした。
 テーブル型筐体というのは「テーブルである」ということで喫茶店という、比較的に管理が緩い部分に納品されるという発明がありました。ゲーム空間は喫茶店やレストランにまで広がっていきます。同時に、現在まで続く青少年の非行が問題化もされ始めました。

 そんな中、一業界が危機感を感じていました。それが「室内娯楽の王者」のパチンコ企業です。
『スペースインベーダー』にはLSIという集積回路が使われていたわけですけれども、それまでのパチンコは球を弾くだけのものでしたが、この危機に対して同じような筐体を作り始めるわけです。
 実はここには双子の兄弟のような関係があったわけです。

 『スペースインベーダー』に熱中する人々はまるで「阿片窟」のような光景でしたが、それだけゲームが「新世代の若者」の心を掴んだのです。現代人は閉塞的な空間にいる、そこから宇宙空間に逃れたい、という感覚というものが共有されていたのです。

 つまり1978年の「パンク・ロック」の若者の反逆も『スター・ウォーズ』の宇宙空間への羨望も、同じような土壌で産まれてきたのです。映画、音楽、ゲームといった異なる分野から同じ現象が起きてきた。このことは様々に推測できるのですが、ある種の閉塞感からの解放の気持ちはあり、それは今も続いていると言えるのかもしれません。

 しかしながら、ある都道府県では「ゲームは1日1時間」と言われることもありますが、同時にIR法は推進されているという矛盾もあるわけです。
 「閉塞感」というのは、ずっと言われ続けています。常にそれはある。
 それを突破する力とは何なのでしょうか。

 映像作品、音楽作品、様々な表現の中から、どういった風にビデオゲームが立ち上がったのかという話をしました。
 では、現在の「閉塞感の突破」とは何なのか考えていきたいと思います。
 まず、1978年からどのようなプラットフォームによって、ゲームが進歩したのかを簡単に説明します。

【ゲーム・プラットフォームの変遷のまとめ】

「アーケードゲーム」 ゲームセンター→対戦ゲーム、プリクラなど
「PCゲーム」 TRPGをひとりで遊ぶ→オンライン対戦シューター 『DOOM』『Quake』→Gaming PC→STEAM
「家庭用ゲーム機」 任天堂、セガ、NECなどの競争を経て→PS4、PS5、Nintendo Switch
「携帯ゲーム機」 ゲームボーイ、その他→i-modeなどを経て→スマートフォン

 このような四つのハードによって分かれてきた歴史があります。
 興味深いのは、どれか一つが生き残ったわけではなく、この全てが今もコンテンツとして存在していることです。遊びの領域をどんどん拡大していく。それは現在進行形です。
 それでは、現在の最新のゲームの中でも、特筆すべき点を例に挙げてみます。

【現代のゲーム・ソフトの特筆事項】

 ●Unityなどのゲームエンジンの普及による、インディー・ゲームシーンの隆盛
 ●「オープンワールド」の定着
 ●スマートフォンの普及によるゲームの拡大

 このような中でも大きいのが「オープンワールドの定着」と、スマートフォンでゲームを遊ぶことができるようになったことです。
 これにより様々な変革が起こったことです。

 その一番が「位置情報ゲーム」で、先駆けとなったのが『INGRESS』です。

●『INGRESS』(2013〜・Niantic, Inc.)Android・iOS

筆者・スクリーンショット

「Google社内ベンチャーグループによって開発された、大規模なオンライン位置情報ゲーム。スマートフォン向けの拡張現実技術を利用したオンラインゲーム・位置情報ゲーム。(Wikipedia・参照)」
「ゲームのコンセプトはオンライン、リアルタイムに継続する陣取りゲームである。(Wikipedia・参照)」
このゲームをひな形にして、『Pokémon GO』のサービスも始まる。『テクテクライフ』、『ハリー・ポッター魔法同盟』、『ドラクエウォーク』と、続々な作品がサービスインしている。

 まず『INGRESS』の紹介をしたいと思います。
 このゲームは『Pokémon GO』に比べると抽象的な表現が多いので、説明が難しい側面があります。この作品を作ったのがジョン・ハンケさんです。       
 もともとはGoogleの社内のベンチャー企業の中で作られました。ジョン・ハンケさんは「Google Earth」の開発にも関わった方です。

 『ジョン・ハンケ 世界をめぐる冒険』(星海社)の自伝のインタビューの聞き手として、僕が参加しています。そういった意味でも思い入れの深い作品です。
 お話を伺った時は、『INGRESS』の世界大会で来日していた時で、『Pokémon GO』の国内リリース寸前で緊張感がありましたが、作品は国内でも大歓迎されました。

 『INGRESS』はスマートフォンの位置情報を使い、その場所に行ってゲームを行うというアプリケーションです。
 現在のマップを表示する画面が現れますが、ここに「ポータル」という拠点を作り、3点で繋いで三角形を作ります。その中にある人の数、データ通信量、三角形の大きさを競い合います。
 PCモニターで確認すると、地図上に巨大な「ポータル」が作られていく過程を見ることができます。緑と青のカラーによって勢力があるので、三角形によって土地を奪い合うということです。
 この表示される多重コントロール・フィールドが見事なのです。

 「ポータル」は、もともとは白いのですが、例えば実際にあるシンボルを拠点に線で繋がれると、それが勢力の一部になります。この互いの領土を壊していくのがゲームの目標となります。
 さて、一体どこを壊せば一番ダメージが与えられるのか、というのをマップで確認して実際にその場所に赴き攻撃し、ポイントを得るという戦略性が求められます。

 さらに難しいのは「ポータル」を作ることです。リアルタイムで戦局が刻一刻と変化する中で、実際に地図上で見た距離を移動しなければなりません。せっかく作ったものが瞬時に破壊されるという悲劇もあります。
 例えば、未開拓の白い部分は山中にもあります。それですから実際にその場所に登山もしなければなりません。熱心なプレイヤーはそれも辞さないのです。
 そして『INGRESS』のプレイヤーたちは、この「地図」の自身の勢力構図を見てうっとりするのです。

 これが何を示唆するのか。
 つまり「そこに行かなければならない」ということです。
 行ってみて、自分で決めたミッションを達成した瞬間、「ここは良い景色だな」と思うこともあります。
 つまりゲームをしているのに、現実の世界にどんどん興味が湧いてくるのです。これまでのゲームというのは家の中で耽溺するものでしたが、「位置情報ゲーム」というのは、外へ外へ、違うところへ、と人を動かし旅を促すことが起こるのです。

 実際にこのアプリケーションを開いて外を歩くと、様々なことに気がつきます。実際に見えるものだけが真実ではない。だからといってスキャナーに表示されるものも真実ではない。その交錯点を味わえる不思議なものです。
 そして、『テクテクライフ』という、もっとシンプルにその交錯を味わえるゲームも誕生しました。

●『テクテクライフ』(2020〜・テクテクライフ株式会社)Android・iOS

https://www.famitsu.com/news/202101/28213511.html

「『テクテクライフ』は、実際に訪ねた場所を塗りつぶしていくゲームです。旅行はもちろん、毎日の散歩やとなり町の散策まで、様々な発見や思い出を残していけます。」
https://www.4gamer.net/games/517/G051727/

 次に『テクテクライフ』を考えてみたいと思います。
 このゲームは麻野一哉さん(『かまいたちの夜』、『弟切草』、『街』)という大変有名なクリエイターが作ったものです。
 一度は『テクテクテクテク』としてサービスインしていたのですが、諸事情によりクローズドされましたが、β版を経て正式リリースされました。
 一度クローズドされると復活は難しいのですが、麻野さんは「絶対に復活させたい」と仰っていて見事達成しました。

 その開発の原点にはどこにあるのか。
 麻野さんは『INGRESS』を不思議な遊び方をしていました。実際に地図を持って、それを色で塗っていたのです。
 この『テクテクライフ』は、まさに麻野さんのやっていたように、通った場所や道を塗っていくゲームです。 
 GPSを使った「位置情報ゲーム」であることは他のものとも似ているのですが、オンライン要素が全然ないのです。これは麻野さんの遊び方と同じなのです。ただ、「スタンプラリー」やソーシャル・ゲームらしい課金もありますね。

 β版以前はバトルの要素もあったのですが、後のリリースでは一切がなくなっています。すごくシンプルに「歩くこと」に特化した作品になっているのです。『INGRESS』にあったような競技性というものはない。
 『INGRESS』では「ポータル」という形で、その街に存在する人が集まってくる場所で、観光地やパブリック・アートを見て、ちょっとしたコメントが表示されるAR的な側面があったのですが『テクテクライフ』にはないのです。その代わり、ただただ地図を塗っていくというストックかつシンプルな作品です。

 『テクテクライフ』の目標というのは歩いた地区は黄色くなり100%になります。この黄色によって日本全土を塗りつぶしてしまおう、というものです。
 「絶対に無理だろ」と思う人もいるかもしれませんが、そうでもない。 
 なぜなら「現地ぬり」という実際にいる場所を塗るモードでプレイしていても、歩いた分だけパワーが溜まって「歩行石」というアイテムを集めると「となり塗り」といって、少し離れた場所でも隣り合っていれば塗ることができるのです。この機能を使えばもしかしたら日本全土を黄色にすることができるかもしれません。
 そういった意味では一生遊ぶことのできるゲームです。

 また、一度『テクテクライフ』を起動しておくと、自宅に帰って確認してみると自分の歩いたところが赤くなっています。電車や車に乗る時は、このアプリケーションを起動しておくと、自分が今日どこを移動したのかが分かるのです。

 ゲームの画面だけを見ると、地図を塗っているだけのように見えますが、実際にやっていることは街の景色を見ながら歩いている。街の形が分かるのです。
 スマートフォンの画面と現実を見ながら歩くと、京都などの小刻みに四角の区画で作られる街と、田舎の山の中では全然違います。地図では平坦にしか見えないところも、実際に行ってみると高低差があったりする。ここが面白いのです。

 目の前には景色がある。『テクテクライフ』をしていると、気がついたら知らない場所を歩いている。しかし、ゲームをしているのです。実際に歩いて、そこの雰囲気とか営みというのを感じながらプレイしていくこと、どこかに行くということそのものが面白くなるのですね。
 ゲームで街のナラティブを感じることができるのです。

 日本をいつか全国を黄色くできるかもしれないのが、『テクテクライフ』のロマンなのです。
 実はこれが、オープンワールドと交差していると考えられる、と僕は考察しています。
 そこで注目すべき作品が『GTAⅤ』です。

●『GTAⅤ』(2013〜・ロックスター・ゲームス)PS3・PS4・PC

https://hard-mode.net/archives/7909

『グランド・セフト・オートV :Grand Theft Auto V』
広大な架空の都市「ロスサントス」のマップ内を徒歩や車で自由に移動しながら、マイケル・タウンリー、ブラッドリー(ブラッド)・スナイダー、トレバー・フィリップスの三人を操作しながら、様々な犯罪のミッションをこなしていく。世界中で大ヒットを記録し、「オープンワールド」のゲームを定着させた記念碑的シリーズ。(Wikipedia・参照)

 ここから世界的なAAAタイトルである『GTAⅤ』を題材にして、「オープンワールドという思想」を考えてみたいと思います。
 「位置情報ゲーム」の存在と重ねた時に、ゲームの中で展開されるワールドとは一体何なのか、ということです。

 テーマとなるのは、「ビデオゲームと他の映像コンテンツとの違い」です。
 舞台となるのは「ロスサントス」です。
 そこに暮らす登場人物の一人、マイケル・タウンリー。この人は豪邸に住みながらも、何か虚しさを感じている。彼とブラッドリー・スナイダーが出会って、二人は異なった人生を送っていたのですけれどバディになって物語が始まっていきます。
 最初のミッションでは高速道路を車で暴走し、映画さながらにボートの奪還を試みます。
 そして「ゲーム史上最凶最悪のキャラクター」が登場します。登場から狂気的、それがトレバー・フィリップスです。

(GTAV Official Artwork Galleries)


 彼が突如として「ロスサントス」に第三の男として現れる。やっていること、言っていること、全てがむちゃくちゃです。まさに都市の混沌そのものです。
 その視点から見た都市とは何なのでしょうか。トレバーの登場で物語は、まさにカオスの状態に突っ走っていくことになります。その視点でも街を見ることが可能になる。

 さて、そこで『GTAⅤ』から見えてくる「ビデオゲームは他の映像作品と比べて何が違うのか」という問いです。
 ビデオゲームというのはフレーム内に生成されていく世界です。一般の映像というのは、現実にあるオブジェクトをカメラなどで写撮って表現していきます。ゲームにはその対象があるわけではありません。コンピュータが読み取るだけのデータが記録されています。それを基に様々なものを描画していくということです。

 ここにプレイヤーである「私」の身体というものが大きく関係しています。前に行けば前に動く。後ろ、右、左も同じです。つまり任意に世界が書き換えられていくのです。60fpsであれば非常に解像度の高いレベルで、映像そのものがプレイヤーの意思によって次から次へと生成されていく。
 このパワーに我々は巻き込まれていくのです。

 そして「私」は人から離れ、ワールドそのものに変容していく。
 そういった奇妙な感覚が生じてくる。「ロスサントス」という街そのものに自分自身がなってしまう。
 これは「位置情報ゲーム」と「オープンワールド」のゲームを対比することによって完結する、非常に対になった感覚なのかもしれません。
 足の裏から伝わってくる土地のナラティブと、自己意思によって生成される情報です。それらが渾然一体となって、自分というものは人ではない何か。つまり街になっているという意識変容を自然に促すようなものが、ビデオゲームから現れているということです。

 僕は家から少し外に出てみたいと思います。
『GTAⅤ』というテレビゲームのオープンワールドに続き、もう一つのオープンワールドをウォークスルーしていきます。この現実です。

 まず、僕の家の近所ですね。例えば路上に排水溝があります。ゲームをプレイした後だとコインがいっぱい埋まっているのかもしれません。
『GTAⅤ』はこれまでのシリーズを継承しながらも、オープンワールドという思想を結実化させたものです。現実の解像度とゲームの解像度は「ほぼ」人間の目には差異が分からないです。

 ただ、何が違うかというと、穴が空いた靴を履く。そうすると小石が入ってくる。痛いです。痛いから僕は人間らしい。痛いからここは「ロスサントス」ではない。そういった確認ができるわけです。草を触ってみると痛いし痒い。ポリゴンではないですね。
 しかし、普通の靴では痛くないですし、草を触らないとどうでしょう。インターフェイスとして混乱するのです。

 オープンワールドとリアルワールドの違いは何かというと、「しちゃいけないことがあるよね」ということです。
 例えば、街角にある一つの家。そこの塀を乗り越えてはいけません。防犯カメラもあります。『GTAⅤ』だったら大丈夫ですが、現実ではダメです。これはみんな知っていますね。
 では、なぜルールがあることを知っているのでしょうか。
 ここが大事なのです。

 つまり身体がリアルだと理解しているわけです。では、問題は暗黙の了解のような「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という街の秩序を守っているルールというのは誰が決めて、誰に教わって、誰にインストールされたのか、ということです。インストールされていないものもたくさんあります。

 赤信号は渡ってはいけない。青信号でも飛び出してはいけない。右左を確認してから渡る。これは、自分の安全を確保するための生きる知恵ですね。 
 だから、ルールというよりは、生き残るための知識として教わるわけです。それと道路交通規制法とは違います。ただ、その法律を読んだことがある人はどのくらいいるのか。読まなくても何となく大体知っている。

 だから、家だと住居侵入で法律違反ですけれど、そうでなくても、例えば公共空間の公園の塀を越えても問題ないですね。でも、わざわざ入口ではなく高い塀を登ろうとはしない人がほとんどです。そこに暗示されている様々なことがあるわけです。
 こういうものを読み込んでいきながら、この世界には暗黙の中に流れているルールらしきものがあるらしいことを感じて、自分の行動を抑制しているわけです。
 では、過剰にその抑制が働いた時にどうなるのかというと、極端に不自由になるわけです。

 受動喫煙防止のような歩き煙草の禁止は、各自治体の条例レベルの判断ですね。しかし、周りに人がいない。路上で煙草を吸っても良いのか。これはどうなのでしょうか。受動する者が誰もいません。条例違反でしょうか。それでも、煙草は吸わないほうが良いのでしょうか。

 選択肢は二つあります。「吸う」、「吸わない」です。
 「吸う」の理由は「吸いたいから」ですね。その気持ちがあるのですが、同時にそれはダメだという気持ちもあるわけですね。それはケースによって変わります。僕は大学の先生ですから、授業中には煙草は吸いませんね。お酒も飲みません。そして、もう一つは受動喫煙で健康被害を与えるかもしれません。これが一例です。

 それでは『GTAⅤ』のブラッドだったらどうするか。マイケルだったらどうするか。
 そしてあなただったらどうするか。
 生きていくのはこういったことの連続なのです。

 我々はオープンワールドという思想で、この世界を再認識することができます。例えば『GTAⅤ』だけではなく、『テクテクライフ』『Ingress』といった「位置情報ゲーム」でも同じです。
 その土地に流れたナラティブというのを体内に取り込むことができるようになった。
 重要なのはナラティブというのをどのように読み解けるのか、ということなのです。

 「オープンワールドという思想」や「位置情報ゲーム」を使った現実拡張といったものを使えば、その街のナラティブというものを足の裏から吸い取ることができます。自分の体の中に流れ込んでくるのです。
 それは地図で見る記号的な使い方ではない、街そのものの理解の仕方ができると考えることができるのです。そうなってこそ「地図」というものの持っている記号を体で読むことができて、街というものが理解できるのです。

 では、街のナラティブを発生させているのは何なのか。
 オープンワールドというのは、もちろんゲームだから仕掛けがあります。 
 「ロスサントス」だったら怪しい建物があって、そこに隠れて発砲されても大丈夫だったりします。警察署も遠いから指名手配されないだろうとプレイしながら考えます。
 ところが現実の世界では違う。見た目は変わらないが、何かが確実に違う。
 オープンワールドは自由です。でも、ゲームの中にも自明のルールはあります。それはゲーム・クリエイターたちが作ったもので、それを100%しっかり理解した上でこそ、みんながプレイすることができるのです。

 では、この世界をオープンワールドにすることはできるのか。
 そうしなくてもよいのかもしれない。
 しかし、ルールというものをめぐって様々なことを解釈していくというのはゲームと同じです。
 それが先程の法律、条例というものです。僕が大学の授業中に煙草を吸わないのは自分の意思です。これは強制ではない。しかし、この強制されていないルールが過剰に人々を抑圧する方向に働くと、遊びにならないですね。

 例えば新型コロナウィルスで様々な情報が開示されないで、政府やメディアから圧力的な抑圧が起こる。これは怖いことです。ウィルスのクラスターが起こり、そこからルール違反のイカれたメッセージを受信した人々が攻撃を始め、直接過激な差別行動を起こしました。

 では、ルールとは何でしょう。
 ルールは人々に良い生活を行わせるために存在する。そういった一面もある。ただ、間違ったメッセージを発して、間違った行動を促進するという一面もある。

 もう一度、オープンワールドに、「ロスサントス」に戻ってみましょう。そこでは大概のことをしても大丈夫です。
 本来はゲーム・クリエイターが提示した自明のルールを守っていれば生活できる。これが、世の中、社会の原型なのです。
 現実はオープンワールドに比べると、ちょっとだけ複雑だから、ちょっとだけカオスだから、ちょっとだけトレバーが入っているから、ルールの脱法的使用とか人々の抑圧に使われるわけです。

 では、ゲームとは一体何なのでしょうか。
 ゲーム・システムのあるものだ。シナリオがあるものだ。様々なことがあります。僕はシンプルにまとめたいと思います。

 映画は第七芸術といわれます。七つのメディアを駆使して作られるものである。あるいは七番目の芸術である。
 それなのだとしたら、ゲームとはどんな芸術なのか。映画とゲームは何が違うのか。
『GTAⅤ』は、現実と遜色のないクオリティの映像になっています。その世界に我々はプレイヤーとして巻き込まれているのですから、「そこが現実だ」とも言えるわけです。
 その上で、一体ゲームという芸術は他とは違うどんな特色があるのか。
 それは、たった一つです。

「ゲームとはルールメイキングの芸術である」

 そう、断言することができます。
 それですので、ゲームに触れた我々は現実に存在している様々なルールというのを知った上で、空気の澱みというのを知ったのだとしたら、ゲーム・オーバーさせなければなりません。
 様々に存在する明確な差別や間違った行為。そのルール違反を行なった者には反論しなければならない。
 我々がゲームから得るもの、プレイする意味というのはそこなのです。


 ビデオゲームの世界で色々なことを学びます。人の殺し方も銀行強盗の仕方も学びます。つまり、やってはいけないことを多く学び、体験するのです。
 それはもはや現実逃避の場所ではないのです。そんな文芸的・社会的メッセージを持った作品というのが、『GTAⅤ』以降にたくさん現れています。

 『レッド・デッド・リデンプション Ⅱ』(2018・ロックスター・ゲームス)では、アメリカという銃社会の成り立ちが自己の体験で分かってしまう。主人公が死の告知を受けます。マフィアだった人物が人生の総括期に内生的になる。今までに一体何人殺したのか。当然、良い人間であるわけがない。その葛藤をプレイしながら考えてしまえる。銃社会の意味、人生の終末期をゲームで先駆けて体験できるのです。

https://www.rockstargames.com/reddeadredemption2/

 『Detroit:Become Human』(2018・クアンティック・ドリーム)は、まさにアンドロイドというメタファーで差別を描きBLMを予見していました。SF的手法の定番的なシナリオ・ライティングですが、これらは全て我々には無関係ではない。その問題提起をゲームという体験は提供してくれるのです。

https://www.jp.playstation.com/games/detroit-become-human/

 『The Last of Us Ⅱ』(2020・ノーティー・ドッグ)はゾンビ・ゲームですが、性自認の揺らぎ、LGBTQという社会問題を正面からテーマに盛り込んでいます。

https://store.playstation.com/ja-jp/product/JP9000-CUSA13986_00-THELASTOFUS2DLUX

 ポップ・カルチャーというのは時々、フィクションという形ではあるのだけれど、未来を予言していくということがあるのです。
 どんどん、こういった作品は産まれていくでしょう。

 ウクライナで戦争が始まりました。戦争はゲームではない、と言いますが、「戦争こそがゲーム」なのです。しかしルールメイキングに則ったゲームではありません。
 『コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア3』(2011・インフィニティ・ウォード)には原爆を落とすミッションがあります。作品の舞台は近未来ですが、そこでは皆が命を落とします。ゲーマーは戦争の凄惨な現実をすでに知っているのです。そして、明確なルール違反です。
 だから絶対に戦争には反対しなければならない。
 それがゲームの価値なのです。

https://www.sqex-ee.jp/2012/04/playstation3-3-collection-1.html


 これからのゲームをプレイすれば、現代人の教養としての夏目漱石の『こころ』とかは読まなくても良いのかもしれない。
 今、テレビゲームでは古典で描かれていた重要なテーマというのが、現代の人々にアップデートされメッセージを発信しようとしています。

 「ゲームは1日1時間」とか言っているバカは放っておいて良いです。
 ゲームこそが、まさに『スペースインベーダー』から続く、今のこの先行きの見えない「閉塞感の突破」なのかもしれません。
 我々はゲームを通して前進し、未来を生きていきましょう。

飯田和敏


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