元カレK君と『家族』の定義

私には「心身の調子がイマイチな時に、元カレたちの近況を知ろうとする」癖がある。
何故なのかは自分でもよく分からない。未練があるという訳でもない(つもりだ)し、何か見たからと言ってイイネをしたり連絡を取ったりするわけでもない。ゲームをするには疲れすぎている時、面白そうな読み物を探す気力も沸かない時、そんな時に、どういうわけか、ふと見たくなるのだ。

そんなわけで、私のブラウザには、数人分の元カレのTwitterやらブログやらがブックマークされている。
その内の元カレK君のブログは、2つの記事が6年前に書かれたきり、更新されていない。
K君は大学時代のサークルの後輩で、デカい企業に就職し、私と付き合っている頃から仲の良かった(何度か喧嘩の原因にもなった)女の子と結婚している。多分子供もいるはずだ。
結婚したのを知った時は、なんだ結局あの子なのかよ、最初っから私とじゃなくてあの子と付き合っとけばよかったじゃねぇか、とチベットスナギツネのような顔になってしまったのは置いておいて。

で、そのK君の6年前の記事は「家族とは何か」というテーマだったのだが、K君自身が世帯主となっているだろう家庭の話ではなく、実家と自分の関係性について思い悩んでいる内容だった。
K君は、とある宗教の二世だ。思春期以降は本人が宗教を拒絶したために、行事などには参加しないというスタンスを取っていたようだが、外から見れば、K君の実家は丸ごと、その宗教の信者の家だ。

そして、K君の実家では6年前の時点で、何らかのトラブルがあり、その解決のために「家族が一致団結」する必要があり、一致団結するために、K君が宗教から離れているのが障害となっている、らしい。家族のためなら仕方がないので、一旦思想信条を曲げることにする。ブログにはそう書かれていた。

ほえー、である。
苦労してんなぁ、の一言で終わらせるには、ちょっとモヤモヤする。
それから6年、その問題はどうなったのだろうか。ブログの更新は止まっているが、Twitterでは元気そうだから、今も重大な問題が継続中、ということでもなさそうだけど。
K君の文章を読んでちょっと物申したい気分になったものの、今の私がK君に直接話す訳にもいかないので、このnoteを読んで下さった方には非常に申し訳ないのだが、以下、今の私がK君(6年前)に言いたいことを、書かせてもらうことにする。

私には、「家族」の定義がよく分からない。
私にとっての「家族」とは長年、毒母ただ一人のことを指していた。血の繋がった家族は母一人だし、母の再婚で父になった人は「母の夫」であって、私との関係は単なる同居人だ。戸籍上もそうなっているから、そうなのだ。
……と母に言われ続けてきたので、そうなのだろうと思ってきた。

自分が結婚して子供を産んで、夫=同僚と考えるしかないところまで行きついてしまって、結局「家族」が何を指すのか、余計に分からなくなった。
結果、私にとって「家族」という単語は、今もまだ、「同一世帯」という意味しか持っていない。
母であれ息子であれ、「血」の繋がりにそんなに特別なものがあるとは正直思えないし、「血が繋がっている」というのは、「自分または相手の幼少期から知っている」「身体的特徴が似ている」ということでしかない。
家族だからより相手を深く理解しているわけではないし、家族だから愛するとか愛されるということもない。家族だから、同じ家に住んでいるから、互いに相手を避けられない。強制的に入らされるコミュニティ、という意味でクラスメイトや職場の同僚に似ているが、もっと近い距離で生活しなくてはいけない。兄弟のいない私からすると、「家族」とはそういう距離感の「他人」だ。

だから、私はK君のブログを読んでも「家族が一致団結する必要がある」の時点で意味が分からないし、「宗教が違うから本当の意味での家族ではない」もさっぱり分からない。K君の考える「家族」と私の考える「家族」はおそらく初めから、定義が物凄く違うのだと思う。

ただ、「家族」の理想とか本質とかが分からない私にも、多分、分かることがある。
貴方が「無償の愛を注いでくれる両親」と呼ぶ、あなたのご両親は、多かれ少なかれ、たぶん毒っ気のある親ですよ、ということ。
「宗教が違うから、お前を『本当の意味での家族』とは思えない」と、そのご両親にもし言われたのなら、貴方のご両親が貴方に注いでくれていた愛情は、「無償」ではなかったということで。それは間違いないと思う。
自分と同じ宗教を信じるのを前提とした「条件付きの愛」しか、貴方は与えられないで育ったし、今(=6年前)も貴方のご実家はその考えを変える気は全くなさそうなので、早くちゃんとそれを認識した方が、きっとこの先を有意義に過ごせるんじゃないかな。と。

6年前の私は、自分の親が毒だと気付いていなかった。自分が見ている世界が、毒に染まった色眼鏡越しの風景だと知らなかった。生まれてからずっと見てきた景色は、あまりにも当然すぎたから。
K君もきっとそうだったのだろう。彼はこの6年の間に、そこに気付けただろうか。それともまだ、自分の見ている景色が歪んでいることに、気付いていないだろうか。

私の親は毒っ気が強く、だけど宗教の問題はなかった。
K君の親は、宗教の違いはありつつも「無償の愛を注いでくれた、心から尊敬すべき」親と書いてあるけれど、本当だろうか。もちろん、本当にそんな人格者な可能性もあるけれど。でもそうだとしたら、宗教の違いを理由にして、「お前は本当には家族ではない」と読み取れそうな台詞を、K君に言うだろうか?「尊敬すべき、子供たちに無償の愛を注ぐ人格者」が?

日本人の大多数は、クリスマスケーキを食べて、除夜の鐘をきいて、神社で初詣をして、お彼岸には牡丹餅を食べて、お盆には親戚が集まるのがスタンダードで。
海外のスタンダードは、もっと宗教の色が強くなるのは知っている。宗教のある家だから毒だなんて言いたいわけではない。
でも、もしも。自分の家庭を持って大分経つK君が、「家族とは」と悩まなくてはいけないほどの何かがあるなら。自分自身のアイデンティティが、実家の家族の言葉で揺らぐほどのダメージを受けてしまうなら。それは、「健全な」家庭ではないのではないかな。今のご実家の方々は、あまり健全な状態でなさそうだし、それは昔から、初めから、「そう」だったんじゃないのかな。

自分の親が毒だったと認めるのは、勇気がいる。それ自体にダメージが入る。
自分が長年信じてきた真実が変わるのは怖いし、「自分は本当には愛されていなかった」と認めることは、とても辛いし、痛い。
ただ、膿んで化膿した傷口からかさぶたを剥がし、膿を絞り出すように。
そうしなければ、綺麗には治せない傷もある。

K君は彼氏としてはなかなかメンヘラだったし、当時の私もなかなか最低な彼女だったし、たとえ直接話す機会があったとしても、何かを言うことはないだろうけれど。
K君が正しく「家族」を認識して、実家の「家族」や、今の妻子との関係を再定義できてるといいなぁ、と。心の中でこっそりと、応援している。


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