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私の「安全基地」の話。

愛着障害の治療には、「安全基地」が必要とされる。
一言で言えば心の拠り所のことだが、私にはここ4年ほど、この「安全基地」を務めてくれている人がいる。

彼について書くのは、正直に言うと物凄く恐ろしい。これまで他人には迂闊に話せないようなことを散々書いてきたけれど、私はずっと彼の話題は避けるか、ぼかす形にしてきた。
読む方を不快にさせ、嫌悪感を持たせてしまうかもしれない、というのも理由の一つだが、恐らくこれは言い訳だ。私は、私の大切な人について他者に語ることそのものが、この上なく怖い。

だが合理的に考えて、私がたとえnoteで彼について書いたとしても、私が彼を失うことには直接は結び付かない、はずである。
読んで下さる方々を不快にさせたら申し訳ないが、トラウマ克服の訓練も兼ねて、取り繕わずに書かせてもらう。

端的に言えば、不倫。飾った表現をするならば、婚外恋愛。いずれにせよ、私と彼はそういう関係だ。


今から7年ほど前――息子が2歳だった頃。私はメンタル的にどん底の状態にあった。
四六時中、「一日でも早く死にたい、でも息子がいるから今すぐには死ねない」と考え続けていて、少しでも「生きている」時間を減らすために、半ば意図的に多くの時間を眠って過ごそうとした。
実際、いくらでも眠れていて、とにかく常時眠かった。診断は受けていないが、恐らくうつ状態から来る過眠だったのではと思う。今思えば明らかに、精神科か心療内科にかかるべきだった。

そんな状態の私に、母と夫は「そろそろ第二子を」と主張した。反論するという行動を思いつくことも出来なかった私はそれに従い、妊娠して、初期流産した。
そのぐらいよくあることだ、また挑戦すればいい――と母は言い、「夫君も残念がってるだろう。それ以上男の人に言っても変なプレッシャーをかけるだけで、伝わるわけがないから、夫君の前でメソメソするんじゃないよ」と私に言い渡した。

当時まだ、母の発言を世界の真理だと信じていた私は、母の言葉に従った。喪失感や悲しみや膨大な罪悪感を、一言も夫に漏らさなかった。
夫から見えない場所や時間ではひたすらメソメソ泣いていたのだが、アスペルガー的傾向が強い夫は、無表情なだけで家事や会話は普通にこなす私を「異常なし」と判断したのだと思う。完全にノーリアクション・ノーコメントを貫いた。
流産の処置の当日も、その後に私が発熱して通院が必要になったときも、夫は私の「送り迎えを頼みたい」という要請を拒否し、やがて私の通院が終わった旨の報告をすると「じゃあ、次はいつから作れる?」と聞いてきた。

流石の私も、ここで気付いた。
私が流産で負った心身の傷を、夫は全く認識していなかったのだ、と。

だが、私がいくら弱音を吐かなかったからと言って「流産し、その後高熱で何度も点滴を受けるため通院していた妻」に、一切何の配慮も思いやりも、「体は大丈夫?」という種類の心配もしない、ということがあり得るのか。
あり得るとして――それは、愛情以前の問題として、夫にとって私は人間ですらない、ということではないか?

なお、後に夫にこの件を問いただしたとき、夫はこの「次はいつから作れる?」発言について、全く記憶にないと述べた。恐らく事実だろう。
この時、夫は素で、何の悪意も攻撃的な意図もなく、純粋に「この間売り切れだった袋ラーメン、今日は売ってたから買ってきたよ」「じゃあ次はいつ食える?」と同じノリで発言したのだと思う。
夫には、他人を心配するという機能がそもそも搭載されていなかった。現在はどうか分からないが、少なくともこの時点で、その機能は完全に未実装だったのである。

どうあれ当時の私にとって、この夫の発言はとんでもなくショックだった。
元々のうつ状態に加え、流産という事態、胎児とはいえ自分の子を失った事実、更に夫のこの反応で、私は完全に思考能力を失った。そして数週間かけて少しずつ思考が回り始めた時、私は静かに、しかし断固として「怒って」いた。

――夫が私を大事にしてくれないなら、私だって、もう金輪際夫を大事になどしてやるものか。

そう決意した私は、「第二子は作らない」と宣言した。この宣言の時は気付いていなかったが、既に私はまた妊娠していて、その後もう一度流産してしまうことになった。だがとにかくこの時点から「作る」ことは辞めると夫にも母にも通達した。
意外にも、夫も母も何の反論もせず、それを決定事項としてすんなり受け止めた。正直拍子抜けしたが、ここで「何故か」と聞かれなかったことに、私は不満を持った。この時の私は理由を、自分の精神面の状況や夫への不信について、語りたかった。だが一方的に彼らに聞かせるほどの事でもない、と自分に言い聞かせ、私は理由を語らないまま、結果だけを手に入れて満足しようとした。

そして、それまで毎日必ず夫と一緒に取っていた夕食の時間を別にして、夫の仕事の愚痴を聞いていた時間をなるべくゼロに近づけた。当時起きている時間の大半を「母の話を聞く」に費やしていた私にとって、夫の帰宅後に更に「夫の話を聞く」を行わずに済むようになったことは、かなりの負担軽減になった。

そうして出来た時間を、私は「自分の好きなことをやる」と決めた。
学生時代にハマりすぎて留年して以降、足を洗っていたネットゲームをもう一度遊ぶことにしたのだ。
夫とのコミュニケーションのために確保していた時間を丸ごと突っ込み、私はヘッドフォンで夫の存在そのものを遮断したまま、連日、息子を寝かせるや否やPCにかじりついた。

「息子を育てる」と「家事をする」以外は、どうなろうと知ったことではない。私のケアをしてくれない相手のケアなどしてやるものか。文句があるなら離婚でも何でも応じてやる、出ていきたければ勝手に出ていけ――と、そんな破れかぶれの吹っ切り方だったが、これが私のメンタルを持ち上げるのには有効だった。

ゲームは、FF14は、面白かった。
元からネットゲームにはハマりやすい私である。過眠と眠気は嘘のように消え失せ、私はそれ以前の反動のように、極限まで睡眠時間を削るようになった。
ゲームの中でだけは喜怒哀楽をストレートに感じることが出来たし、ゲーム内コミュニティで出来た仲間とチャットで会話する機会も持てた。
「ゲームをしたい」という欲求は、私の死にたかった気分を一掃し、私は次のアップデートを何より楽しみにするようになった。ゲームの時間をなるべく長く取るために生活パターンや家事の時短の工夫をし始めると、日常生活の方にも張り合いが出て、モノクロだった世界が徐々に色を取り戻していった。

そして、「風邪を引いたみたいで」と言えば「大丈夫?」「お大事にー!」と言ってくれ、「あの敵が上手く倒せない」と言えば「お、進んでるw早いじゃん!」「練習行くなら手伝うよー^^」と誉めたり気にかけてくれたりするゲーム仲間たちの存在は、私の傷ついていた自尊心を急速に回復させてくれた。

当時の私は恐らく、「他人に気にかけてもらう」ことに凄まじく飢えていた。そして、顔も年齢も性別も分からないゲーム仲間たちは、私の夫や母が一切配慮しなかった「私の状態」を知りたがり、私に必要な情報や支援を熱心に与えてくれようとした。
無論、ゲームの中での話だ。始めたばかりの初心者に、レベル上げの方法や効率的な戦い方を教え、またアイテムを渡したりすることは、上級者にとってはそれ自体が「ゲーム」の楽しみの内にすぎない。
だがそれでも、当時の私は彼らのお陰で、自分が期待されるに足る人間だと、誰かに気にかけてもらえるだけの価値のある人間なのだと、そう感じることが出来るようになった。

そのようにして、数か月が過ぎた頃。
職場環境が変わり、体調が悪いと言い始めるようになった夫は、円形脱毛症を発症した。
流石に気の毒になった私は、夫の愚痴を聞く時間を再び取るように心がけたが、夫の愚痴は日に日に長くなる一方だった。「自律神経失調症」という診断名を盾に、私に配慮を要求し続けるようになった夫に、私は再びストレスを溜め込んだ。
だがネットゲームのお陰で自尊心をかなり回復できていた私は、ストレスをきちんと感じることも出来ていて、怒りも感じられていた。
そしてある日、私は過去数年分の恨みの全てを爆発させる勢いでブチギレた。正面からブチギレることが出来るだけのエネルギーもまた、私は取り戻せていた。
先日書いた『夫に「死ね」と叫んだ』事件の勃発である。

この事件を境に、私は再び夫との交流を極限まで遮断した。
一応、夫婦生活だけは応じ続けようと思っていたのだが、それも数か月後、2回目あたりで夫が避妊を怠ろうとしたために、もう一度私はキレた。
「この先一生、夫婦生活には応じない。ヤリたければ他に女を作るなり風俗に行くなりしろ、ただし家計には影響を出すな、小遣いの範囲でやれ。私もそうする」と宣言し、以後は今に至るまで、ずっとレスを貫いている。
これについても、夫は一切の反論も謝罪も、具体的な理由の確認もせず、話し合いを再び持とうともしてこないまま、現在に至る。
この件については、いずれまた別の記事に書こうと思う。

夫が完全に「同僚ポジションの同居人」になってから、私はより一層開き直ってゲームを遊び続けた。
そして、ゲーム開始初期から交流のある仲間の中で、いわゆるネット恋愛として仲良くなった相手ができた。今から4年ほど前の事だ。
この彼が、現在、私の「安全基地」を務めてくれている人である。

彼は毒親育ちではないが、HSP気質が強い人だ。びっくりするほど繊細で共感性が高く、かなりの内向型で、自己評価が非常に低い。
彼は既婚者で子供もいるが、彼の配偶者が私の母に非常によく似た、自己愛性パーソナリティ障害の傾向の強い人で、4年前時点での彼は配偶者との支配・被支配の関係にすっかり順応してしまっていた。程度に差はあれど、私が母との間の支配-被支配の関係に順応していたのと同じ形だ。

彼は私と同年代だが、結婚が早く、結婚生活がその時点で十数年と長かった。それに加え、恐らく彼の元々の素直さや自責思考も相まって、毒親育ちほどではないにせよ、洗脳を受けたような状態になってしまったのだと思う。
私達は共に、自分が毒に浸されていることに気付かないまま、抱え込んだ大量のストレスの発散場所を求めて、ゲームに逃げ込んでいた状態だった。

だが、自分の浸された毒には気付けずとも、他人が毒に浸されていることには気付けるものである。
日々の愚痴の中から、私は彼の環境の毒を、彼は私の環境の毒を発見し、「それ、おかしくない?」と指摘し合う形で、それぞれが自分の毒を――彼は配偶者にモラハラを受けつつ共依存のようになっている状態を、私は母との関係が同様の形になっていて、つまり毒親育ちであることを、認識出来るようになった。

そして互いに「あなたは悪くない」「自分を大切にしろ」と呪文のように唱え合いながら、私は母への下剋上を達成し、彼もまた配偶者とのパワーバランスを、支配を受けない状態へと変えることに成功した。
私が自分が毒親育ちであることに気付けたのは、前提条件としては育児をはじめとした様々な要因があるだろうけれど、直接的にはほぼ全てが彼の功績である。

少なくとも私よりは大分マシな愛着スタイルを持ち、自分の感情を大切にする能力が私よりも高い彼は、私の存在がなくとも、どこかのタイミングで夫婦の問題に気付けただろうと思う。
だが私が自分の生きづらさの根本原因に気付くことが出来たのは、明らかに彼のお陰だ。彼が私の安全基地となって私の自我の育て直しに付き合い、同時にカウンセラーのような役割を務めてくれていなかったら、私は自分の力だけでは、一生とまではいわなくても、この先何十年も母の毒に気付けていなかっただろう。
彼は私にとって恩人だ。

互いに配偶者と子供がいて、配偶者との間に問題があり、しかし子供がいることを理由に離婚という選択肢を封じたまま、別の相手と恋愛関係にある――という私と彼の状態は、倫理の問題は置いておいても、夫婦関係・家庭の機能の面で健全とは言い難い、という自覚はある。
だが、今の私がどうにか毒親にならないように育児を出来ているのは、間違いなく彼のお陰だ。
彼が指摘してくれなければ、私は間違いなく、母ほどではないにせよ、かなりの毒親のままでいただろう。夫にアスペルガー的傾向がある事にも気付かず、夫の「思いやる能力の低さ」を許容することも出来なかったと思う。

この先の彼との関係がどうなるかは分からない。
だが、例え彼との関係が息子の成育環境に良くない影響を与えるとしても、彼と出会わなかったよりはずっと良かったはずだ、と確信している。
何よりも、現在の私がささやかに日々の幸福を感じられているのは、彼のお陰だ。

彼との関係について、こうしてわざわざnoteに書く事で、読んで下さる方に不快な思いをさせたら申し訳ない、と心底思う。
が、私が毒親系の話を書くにあたり、「どういうきっかけで自分が毒親育ちだと気付いたか」を語ろうとすると、彼の話を避け続けるのは不可能だ。
また、現在進行形でも、私の認知の歪みを直すのに、彼は非常に大きな役割を果たしてくれている。
今後も私のnoteで彼は時々出てくるだろう。「ネットゲーム内の友人」の記載で足りる場合は、これまで通りその表記に留めておこうと思う。
だが、彼は私にとっては「友人」では表現しきれない、夫よりもずっと私の相棒として、現在の私を支えてくれている存在だ。

彼との関係を正当化するつもりはない。だが、今の私は彼と出会う前よりも、ずっとずっと楽に呼吸が出来ている。
適切でなくとも、正しくなくても。
今の私として、今の時間を生きている。生きていく。そのつもりだ。

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