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「彼氏じゃなかった彼」と行った、新日本三大夜景・笛吹川フルーツ公園の話。

方向音痴で、さらに固有名詞を覚えるのが苦手な私は、あの日「彼氏じゃなかった彼」のリオンに連れて行ってもらったのが何という場所だったか、ずっと思い出せないでいた。
確か、山梨だった……と思う。とにかく夜景の綺麗な場所で、割と山っぽかったような。そんなあやふやな記憶を頼りにググったことはこれまで何度もあったのだが、あの日の事を書こうと細かく思い返す内に、ようやく十年来の謎が解けた。あの日二人で探していた場所の名前が「フルーツ公園」だったことを思い出せたのだ。
山梨、夜景、フルーツ公園――新日本三大夜景、「笛吹川フルーツ公園」。そんな大層な所に連れて行ってもらっていたのか、という小さな驚きと、あの夜景ならなるほど確かに、という納得が湧く。

その日の私は、当時の恋人に3度目の別れ話を叩きつけている真っ最中だった。どういう約束をしていたのか思い出せないが、車で迎えに来てくれたリオンを待たせたまま、夜の土砂降りの駐車場で「とにかく別れる!」と電話に向かって怒鳴っていた。
ぐっちゃぐちゃな泣き顔のままリオンの車に戻り、合鍵を持ったままの彼氏が待ち構えている部屋に帰りたくないのだ、と事情を説明すると、彼はふーん分かった、とあっさり頷き、「どこか行きたい所ある?」と聞いてきた。私がしゃくり上げながら「どこでも良い、どっか遠く」と投げやりに呻くと、「よし、じゃあ遠くに行くか!」と明るく言ってくれて、その声に、酷く救われたのを覚えている。

リオンは、システムエンジニア時代の同僚で、三歳年下で、小柄で華奢で色白で、青年より少年という単語の方が似合うような、中性的な見た目をしていた。
「リオン」という名は勿論、本名ではない。同僚数人でスキーに行くことになった時に「しおり担当」にさせられていた彼が、表紙にデカデカと『人類補完計画』と記した超力作を配布したことから、彼の姓にくっつけて「○○リオン」と呼ぶのが職場で流行り、私はそれ以降ずっと、彼をリオンと呼んでいた。「同僚」や「友人」と呼ぶには親密過ぎ、かといって互いに恋愛感情があるとも言い切れない、彼との微妙な距離感に、「リオン」というあだ名はちょうど良かった。

当時、リオンは交際中の彼女と同棲を解消した直後で、私の方は泥沼の恋愛に終止符を打とうと足掻いていた。気軽に他人には話せないけれど抱え込んでもいられない、腐ったトマトのような葛藤を、私はリオンにぶちまけることで、なんとかメンタルの均衡を保っていた。私の思い違いでなければ、恐らく彼もそうだったと思う。良く言えば支え合い、悪く言えば傷を舐めあいながら、私と彼はかなりの密度で一緒に過ごしていたが、互いに相手をどう思っているかは、一度も話したことがなかった。

リオンがその日、わざわざ実家から取って来てくれていた車は黒い軽で、意外なほど乗り心地が良かった。散々泣き喚いた後で放心していた私に、リオンは余計な話をせず、黙って夜道を走ってくれた。ハンドルを握る手は私よりも細く綺麗で、すらりと白い人差し指の付け根に一つほくろがあるのを、私はぼんやり眺めていた。
恐らく私は、途中で眠ってしまったのだろう。ふと気づいた時には周囲は真っ暗で、随分遠くに来たんだな、ということだけが分かった。

「多分この道で良い、と思うんだけど……」

リオンにしては珍しく本気で迷っていそうな声に、一緒にナビを覗き込む。目的地は?とそこでようやく聞いた私に、「ここの、フルーツ公園ってとこ」と回答があって、私は窓の外に目を凝らした。

「あ。看板が見えたよ、あそこ。『フルーツ公園』って」

「お、ほんとだ」

「果物の絵が描いてある。フルーツって言うなら、フルーツで有名なのかな」

「んー、昼間だったら何か食べられたりするのかもね。暗過ぎて何も見えないけど」

「ここって何県?」

「確か、山梨……に入ったってしばらく前に見た気がする」

「山梨か、それなら果物色々ありそう。……ちなみに、何でここに来たの?」

「なんか、眺めが良いらしいよ」

「ふーん?山か何か、登ってく感じ?」

「そうなんじゃないかな、多分」

そんな中身のない会話をしながら進むことしばし。やがて駐車場で車を降りた私は、広々とした深夜の無人の公園に、その時点で無性にワクワクしていた。園内地図を見つけたものの、何もかも暗すぎてよく分からず、「とりあえず、それっぽい所に向かって登ればいいだろう」と雑な判断で、子供のように草の斜面を駆け上った。私の上がったテンションに釣られたらしいリオンもまた走り出し、あっという間に追い抜かれる。

「多分あっちだと思う、あそこ!」

「待って、待って!」

元から持久力などない私を軽々と置き去りにしたリオンが、「がんばれー!」とはるか遠くで笑う。ぜーはーと息を切らしながら何とか登りきった広場のような場所で、私はその夜景を見た。


――世界の全てを、手に入れたような気がした。


少し離れて立つリオンと私以外に誰もいない、夜の闇に染まった視界。その中で一面に広がる光は、地上の風景というよりは宇宙を眺めているかのような壮大さで、私はただただ圧倒された。
感嘆の言葉も声も、出てこなかった。体の奥底から湧き上がる興奮に震えながら、今ならどんなことも出来る、どこまででも行けると思った。

つい数時間前に、あれだけ泣きながら怒鳴っていた恋人のことも。
どうしようもない未来への閉塞感も。夜が明けたら立ち向かわねばならない、大量の仕事のプレッシャーも。
あらゆる重荷を脱ぎ捨てて、その瞬間の私は、一点の曇りもなく自由だった。
怖いものなど、畏れるべきものなど何もなかったのだと、全能感に満たされて、顔が勝手に笑うのが分かった。

「――リオン!」

興奮したまま、隣の彼へ呼びかけた。

「ありがとね!すっごいね、これ。ヤッバいの見た。これはちょっと、死んでも良いかも」

「いやいやいや。ヤバいのはまぁそうね、分かるけど。死なないでしょ」

「いや、これは死ぬよ。いや死なないけどさ、マジでこれは死んでも良いわ、死ぬ前に見られて良かった!」

「いや喜んでもらえたのは良いんだけど……まぁうん、分かった分かった。そうね、死ぬね。ははは」

「うん、これは死ぬ!マジですっごい、ヤッバい!!」

感動しすぎて「ヤバい」と「死ぬ」しか言えなくなった私の頭を、近くに来たリオンがわしわしと撫でる。一応年上なんだけどな、と若干の不満を感じつつも、私は長い間、その夜景から目を離せなかった。

そのあと私とリオンは、しばらく周囲を探検して歩いた。所々に灯りはあるものの、見通すことなどできない深夜の公園は、冒険の気配に満ちていた。用途不明な構造物を一つ一つ辿って歩き、昼間はどんな使われ方をするのか想像しながら、勝手なことを言い合った。人がいないのをいいことに、わけもなく大声で叫んだり笑ったりするのが、ひたすらに楽しかった。

帰り道は、行きとは裏腹に、はしゃいだテンションのまま、どうでもいい馬鹿な話ばかりしていたように思う。
また来たいとか、次はどこに行こうとか、そういう話は出来なかった。リオンは、叶えられない可能性のある口約束を平気でするタイプではなかったし、何よりも迂闊に未来の話をして、彼の口から否定されるのが怖かった。
――「次」はきっと、ない。
その予感は正しく、しばらくしてリオンは彼女とよりを戻した。私も再び泥沼の恋愛へと戻り、その恋人との4度目の別れと同時に、退職して東京を離れた。

それから十年あまりが過ぎた今、私は全く別の人と、リオンは当時の彼女と、それぞれ家庭を持っている。ごくたまに近況を知る機会はあるが、あの日のことは、互いに話題にしたことはない。

あの夜景の場所の名を知ることが出来た今の私は、あの日彼に言えなかった「また来たい」を、今度は自分の力で叶えられるだろう。
27歳の私が24歳の彼と走り回った、あの夜の景色は二度と見られないけれど、例えば昼の公園の姿を、夕暮れを、そして夜に『新日本三大夜景』を見ることは可能なはずだ。

あの日見た夜景を超える景色を、私はまだ知らない。
だからこそ、いつかもう一度、今度は一人で、あるいは息子を連れて、見に行こうと思う。
あの日と同じで違う景色を、今の私に刻むために。


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