事象の因を考える 戦争、ウイルス

ちょうど去年の今頃、
友人と女二人旅で広島の平和記念資料館へ行ったことが日記に書いてあって、
何度も思い返したほうがよいことなので、ここにも記録を。

実際のモノ、場所に行くということにはとても意味があった。戦争の内実というものを、肌で感じるからだと思う。

なぜ核が生まれたか、落とされたのか、という原因を辿るとき
国どうしの利害、その争いの終止符を打つために必要悪として生み出された爆弾、巻き込まれた人々、という表面的なものだけではその因を本当の意味で捉えることができないと思う

破壊された街、人、地獄の様相としてのその結果を見て、
因となった核爆弾の模型を見て、
この核爆弾はただウランが濃縮された塊ではない
人類の背負った負の宿業を濃縮し具現化したものだと思えて仕方なかった。

人間が因となって引き起こされる事象は、個々の人間のいかんによって、相互に影響を与え合う中で、その総合の結果として顕われるものだ
群像劇の『戦争と平和』を思い返す。

全てが織り集まって歴史になっている。単純化することができない。
人の心がどう動くか、思考し行動するか。

核を作った側、落とされた側、という何か岸を隔った分断と対立の構図ではなく
何となくこちら側にいるのだわ、という空を見上げるようなぼんやりとしたものではなく
人間である、その1点の中に因果があり
人間一個一個に焦点が当てられる問題だと思わないか、、

今、ここにいる、わたしが、何を思考し行動し、生きることによって何に縁をし、影響し合うか

それは今も同じだ

異常気象や感染症に、人類が応戦しようとしているわけだけれども
地球というか、人類の宿命に連なっている自分が、紛れもなくここに居るわけであって。

だからと言って、そんな大きな問題に立ち向かえないわ、ということではなくて

今、あなたの抱えている負の宿業は何なんですか、という問題に至るべきなんだ

自分の持つ性(さが)、宿命に立ち向かおうということを一人ひとりがやることに、方途があるのではと
極論思う

ここまでウイルスに対抗されるのは
人間は地球にとって負の存在であると
思わずにはいられないのだけども、

美しいものを発見していこう。
人間としての生を全うするなら。

それでも世界は美しい、と誰かがいうけれど
その美しさを発見し定義することができるのは人間であると、その精神を持つことができるのが人間であると深く自覚しなくては
明日に希望を持つことは難しい。

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