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掌編小説 海の中の光るもの

 夜が垂れていた。月が滴っていた。海は口をつぐんでいた。

 ぼうぼうと繁る葦をかき分け浜へと降りれば、水面に月明かりが溶け込んでは揺らめいては。

「何だ。何のことはねえ。ただのお月さんじゃねえか」

 男は胸の内に渦巻く感情から顔を背けたく、そうわざと声に出したが、語尾はかすれてふるえて。

 ざぶうり。ざぶうり。

 こたえるよう、おもむろに海が泣く。水底から迫っては、腹の底へ雪崩れ込んでいく。潮の粘ついた香りが、そっと高まる。

 男は海辺を一人歩く。崩れる白波に目を流しつつ、ぼやりとした月明かりのもと、浜を横切っていく。しゃり、しゃり、しゃり、と砂があとを附いてくる。

 黒く茫洋とした海原をながめ、息を吐く。月が震えている。唸りは息を潜め、遠ざかっていた。足指を浸す砂が、冷やりと冴えている。

 ふと、目に明かりが浮かぶ。陸より迫り出した岩場のいびつな輪郭が、他よりもくっきりと。

 男はにわかに足を止める。海の中の光るもの、と訴えた村人たちの上擦った口振りが耳に甦る。引き攣った喉に、萎縮した黒い目が、眼前にちらつく。

 ざぶうり。ざぶうり。

 波が、耳を撫でていく。その目を、粟立った肌を。

 男は嘆息する。そして、深く呼吸を刻む。

 白く染まった岩場のふち。揺らめきもせず、近づきもせず、ただ佇んでいる。

 ざっ、と一歩踏み込む。また一歩と、爪先を浜へとうずめていく。

 光明は動じない。一時も変じない。

 そうして岩場の尖りに手を添え、ぬっと顔を覗かせる。光を、目の内に捉える。

 声もなかった。心の内でさえも、無音だった。

 髪は黒く濡れては、水面へと滴っていた。その合間よりわずかに覗く胴は、鱗のような輝きで覆われていた。顔はつるりと異様に白く、毛髪の隙間より、尖りつつも開かれた眼が、一つ、こちらを見つめていた。

 瞬きをすれば、どうしてか、目前だった。入り江に立ち、相対していた。

 その突き出た口が、動きを伴わずに開く。

 耳慣れない名の、海に潜むもの。

 当年より六ヶ年、豊穣が訪れる。

 語るのは正面のものだったが、声の色は果てまで男自身のものだった。

 併せて病も訪れる。
 さすれば我が身を写し、民に掲げよ。

 男は息もできず、ただ耳となるばかりだった。

 そうして対峙していたものは、ひゅっと細やかな風音を立て、たちどころに海面に沈み、光もろとも消え失せていた。残ったのは、凪の響き。

 男は目を閉じる。次いで開ける。映ったのは、月のしじま。

 頭を振る。砂へと両膝を落とす。袖を捲り、月明かりの下、浜に指を突き立てる。汗粒が、砂を打つ。

 眼は尖っていた。見開かれていた。次いで全身を纏う御髪。海面まで垂れるほどの流麗な黒を幾本も足していく。胴は眩く見極めることは敵わなかったが、こまごまと煌びやかで。口だけが線を結ばなかった。指が動かなかった。鳥のようでも、魚のようでも。男は小刻みに震える指先で、口を象る。左手で揺らめきを押さえ込み、目の奥の像がかすむよりも先に、浜へと刻んでいく。

                                 了




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