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【5,000文字の自己紹介】リユース業界にいた私が医療介護 x 人材のスタートアップを立ち上げたワケ

こんにちは、株式会社エニケアCEOの坂田航です。
持続可能な医療介護を世界で実現するために、看護師さん向けのアプリ開発をしています。

このnoteでは私のこれまでの生い立ちから、事業領域の選定までのお話を書いていこうと思います。

医療介護スタートアップに興味を持っていただいた方、そしてこれから転職・起業をするにあたって事業領域の選定に悩んでいる方に届けばと思っております。

私は元々、あの「ソーシャルビジネスしかやらない会社」の株式会社ボーダレス・ジャパンの事業会社である「ポストアンドポスト」という会社におりました。

社会課題に対してビジネスの手法で取り組むボーダレスは非常に刺激的な日々でしたが、なぜそんな私が介護業界でスタートアップの創業を決意したのでしょうか。


友達の少ない中高時代 (~2012)

私立の中高一貫校に通うという家庭的には比較的恵まれた教育環境におりました。
中学生に入ると「全員がゼロからのスタートだから」という理由で弓道部に入部、3年生になる直前にそれまでの「先輩が次期部長を指名する」という慣行を知らずに堂々と破り、「部長選挙」を敢行しました。

ちなみにその後の世代の部長も自分たちで決めるようになっていたので、この決まりは僕が作ったことになるのかもしれません。
ちょっとした自慢。自慢のレベルが低すぎる。

高校生になっても、話の合う友人は多くはできず。いや、友達はいたんですよ。ほとんどいなかっただけです。

高校3年になると受験前ということで、勉強に集中。
「受験勉強があるから」という、友達がいないことを隠す絶好の言い訳ができました。バンザイ。
そして受験勉強にますます熱が入りました。
何かに夢中になれるのって、いいですよね(真顔)

大学生、社会課題や海外への興味 (2012~)

2012年、上智大学に入学。
ますますボッチに熱が入ります。
と思いきや、私に大学デビューという最大の「キャラ変」の好機が到来します。

ようやく高校時代までの陰キャを封印し、「それまで陽キャラでした」と涼しい顔をして振る舞える絶好の機会が到来したのです。(やった!)
この好機を僕は決して見逃しませんでした。
それまでやりたかったこと、イベント、コミュニティに次々と顔を出すようになったのです。

当時の私の関心事は世界の人権問題、貧困問題、東北の震災復興など。「マジョリティにいないマイノリティ」の権利や生き様について考えていました。
とにかく誰もが平等に生きられる社会というものを思い描いて、そこにあたって自分がどのようにアプローチできるのかをずっと考えていました。ひとりぼっちで周りから取り残されていた高校時代の自分を重ねていたのかもしれませんね。

今の株式会社エニケアでは、お年寄りや社会保障を受ける人々の生活が安定するように医療介護の持続可能性を支えるためのサービスを今も作っていることを考えると、大学時代からの根幹の思いは変わっていないのかも知れません。

大学に入学してからマイノリティに興味を持ってからは、NPOでボランティアや大学を1年間休学して海外インターンをしたり、自分で震災ボランティアの団体を立ち上げたりと色々しました。

そうこうしていくうちに、自分の手で何か世界の人の生活を良くしたい、強いインパクトを与えるものをものを作りたいという思いが沸々と出てくるようになってきました。それがビジネスなのかNPOなのかどういった形なのかは私の中では明確な答えは大学1、2年生のうちにはまだ出ていなかったわけですが、とにかく世界にインパクトを与える事業をしたいという夢はありました。とにかく当時は営利/非営利問わずなんらかの形でということで、具体的な自分の身の落ち着け方を模索していた時期でしたね。

それだけではなく世界にも興味を持ち、世界10カ国を旅しました。

バックパックを背負って、拙い英語でなんとか現地の人々と会話をする。日本人との違いを感じる。
そうしたことを通じて、その国にはその国なりの幸せの追求方法や実現の仕方はあるし、幸せの感じ方も文化圏によって全く異なることを感じました。そうした中で同じ日本という国に住んでいても、価値観が全く異なったり夢の実現の仕方が異なるということを学んでいきました。
それまで自分の中で画一的に考えていた身の回りの世界が色鮮やかに見えるようになりました。

ミャンマーの遺跡都市 Baganにて。日本で知り合ったミャンマー人の友人に案内してもらいました。

その中でも半年間住んだフィリピンは全く異なる価値観を僕に与えてくれました。時間軸の考え方も幸せの捉え方も真逆な南国の国で、「自分なりの幸せのかたち」を追求する大切さを学んだ私は、ますます自分の力で物事を立ち上げることを鮮明に思い描くようになりました。

フィリピンの夏季の首都Baguioにて。この時にお世話になった家族とは今も第二の家族として親しくしています。

抽象的な話が続きましたね。
元々は「世界を良くしたい」「ジャーナリストになりたい」という思いで入った大学でしたが、世界を変えるには他の方法もあると考え、ペンの力で人々の価値観を変えるジャーナリストよりも、サービスやプロダクト後方で直接インパクトを世の中に与えられる起業家になりたいと思い始めたのもこの時期でした。

この時に「30歳までに独立して会社を建て、自分の旗印になるサービスをつくろう。まずビジネス経験のない自分は社会人として一般企業で働こう」
そう決めました。

30までに創業だ!で退職 (2017~)


前述の「ソーシャルビジネスしかやらない会社」のボーダレス・ジャパンに入社。事業会社のビジネスレザーファクトリーとポストアンドポストを経験しました。

後者のベビー用品のリユースショップのお店が長く、接客から在庫管理、戦略の組み方までさまざまなことを学ばせてもらいました。
お客様のフロントに立ってクレーム対応をさせてもらえることも多く、未熟ながらお店を任せてもらえるようにもなりました。

当時の店舗の運営メンバーと
改装後の店内

そして入社から3年が経った時に、年齢が27に。

「30歳までに起業をして社会にインパクトを出す」ということだけは絶対的に決めていたので、27歳になった私は焦り出すワケです。

やばい、あと3年しかない。
今を過ぎたら、この世にインパクトを起こす事業を30までに作るのは時間的に短過ぎる。

その思いで会社をやめました。

考えた事業は数百種類。迷走期。

起業という初めてのことにどこから取り組めばいいのか、なんの分野にするのかの思考にかなりの時間をかけました。

初めに考えたアイデアは、フィリピン向けに日本製の中古時計を越境D2Cしていくもの。時計含め偽物流通が多いフィリピンに対して、本物のCITIZEやSEIKOを販売したらさぞかし刺さるだろうと思ってました。Shopifyでサイトを作って仕入れをして、試してみました。

結局フィリピン人時計マニアにとっては本物の時計を手に入れるにあたってのペインが少ないこと、既に入手ルートが確立されていたことなどから断念しました。
今思えばもっとユーザーインサイト拾っておけば、既存の入手経路を調べてそこのオペレーション改善でスケールなどできたのかなぁなんて思いますが… 笑

しかし今になって振り返れば、何より最も大きかったのはFounder Market Fitがほぼ皆無ということなのではと思います。つまり、私自身は腕時計について詳しくなければ特段興味もなく、ただ「そこに市場があるだろう」で踏み出したことが早期の撤退に導いたと今では考えています。

本当に自分が一生取り組めるような事業領域。そして全てを失ってでもまだ熱意を込めて打ち込めるようなビジネス。何よりも事業に取る組むメンバーが夢中になれる事業領域で勝負をしなければいけないことを深く学びました。

その後も複数フィリピン向け事業を考えましたが、結局ユーザーヒアリングや市場調査がフィリピンに比べて圧倒的にハードルの低い日本を事業拠点として選ぶことになります。そのあとは日本で何をやるのかという話になるわけです。

事業アイデアノートに自分の人生の軸を書き出したり、人から聞いた課題をiPhoneのnote.appに書いてそこからアイデアを派生させたり.....

考えた事業は医療介護系だけでも100種類近く、それ以外の領域での事業であれば数百種類は考えていたと思います。いやぁー、迷走してました。

そうなると最終的に自分が何をやりたいのかが文字通りわからなくなるわけで、何度もアイデアを書いては決して、消しては書いてを繰り返していました。

流石にこれでは収拾がつかなくなってきたので、自分なりの軸を探すことにしました。当時は起業アイデアのフレームワーク的なものも知らずに、とにかく目の前に見えたものが全て事業アイデアに見える日々を過ごしていました

ようやく見つけた事業領域「医療介護」

そうこうするうちに自分なりの起業の軸を見つけ、そこからアイデアを固めることができるようになりました。それが医療介護だったわけです。

なぜ医療介護領域に興味を持ったかというと、私の尊敬する起業家・三橋克仁さんのお言葉が大きいです。

三橋さんはmanaboというオンライン教育のスタートアップを駿台グループに売却、現在はファミトラという会社を経営されています。三橋さんの言葉に「事業を立てるときに考えた軸は3つ。自慢、ロマン、算盤だ」というのがありました。

自慢とは、周りの人や社会に対して誇れる事業であるかどうか。ロマンは自身の人生をかけて取り組みたいビジョンとマッチしているか。算盤は将来の市場規模の拡大の波に乗れるタイミングであるか。

この三つの交差点を選んで事業選定をしているというお話を聞きました。私は「これだ!」とばかりに自分自身に当てはめて事業領域を考えて行ったわけです。

私なりに考えた「自慢、ロマン、算盤」は以下の通りです。

自慢:将来の自身の親や同世代の親世代にとって価値があるもの、必要とされるもの

ロマン:とにかく自分と近い存在の生活を幸せにできるビジネスであること

算盤:高齢化の進む日本で、課題が多くかつテクノロジーの導入が比較的遅れている=テクノロジーを導入することでインパクトを最大化できる領域

はい、ここまでくれば説明不要かと思いますが以上の3つの軸の交差点を考えたときに、私にとっては医療介護領域以外にあり得ませんでした。

きっかけは
私の祖父がある特養(特別養護老人ホーム)に入ったこと。

祖母が一昨年に他界したのですがその影響もあってなのか一人暮らしになった祖父が特別養護老人ホーム(特養)に入ることに。
元気だった90歳の祖父が見るたびに老いていく姿が衝撃で、施設の中に入るということがいかに人を変わらせてしまうのかを感じました。

コロナ禍ということもあり外出もままならず体不自由な中で施設の中で少しでも良い時間を過ごすことはできないものか。そのように医療介護分野の課題に興味を持つようになりました。

超高齢社会におとずれている医療介護の限界

日本の人口はすでに1/3が高齢者。この状態は超高齢社会と呼ばれています。

今話題の介護殺人を扱った映画「ロストケア」も話題になっていますが、もはや家族が在宅介護を行うことは当たり前の時代になっています。そしてそこに付随して、制度の恩恵に預かることのできなかった家庭では介護殺人や暴力をはじめとしたあってはならない悲劇が多く起きています。

こうした制度が間に合っていない現代の日本の状況をなんとか取り戻したい。この不安定な医療介護制度の現状を、持続可能な状態に持っていきたい。そうした思いでエニケアは、まず医療介護に従事する人材不足の課題をスタートアップの立場で解決していこうとしています。

弊社エニケアは何に取り組むのか

エニケアは、「持続可能な医療介護」を実現するために、医療従事者の半数を占める看護師の人材不足の課題に取り組んでいこうとしています。

看護師の人材不足の課題は大きくふたつあります。
ひとつ目は看護師の母数が少ない問題。こちらは数万人単位での課題です。
そもそも看護師の人数が少ないことから、増加し続ける高齢者からの医療介護需要に応えきれていない問題があります。

こちらは比較的厚生労働省をはじめとする国の役割と私は考えています。つまり看護師の成り手を増やすためにボトムアップの政策を投入することで、数万人単位で不足している人材課題を一気に解決するものです。
ふたつ目は潜在看護師率の高さです。
多くの看護師が出産や育児、親御さんの介護、そして他にも精神を病むなどして看護師免許を取得していながら臨床現場で働いていないことが発生しています。

潜在看護師が発生していること自体よりも、臨床現場で働きたいにもかかわらず、臨床復帰ができない医療介護業界の構造に課題があると私たちエニケアは見ており、そこの課題解決のために動いています。

潜在看護師はライフイベントともに発生

そして潜在看護師のみならず、潜在になりそうな看護師さんはもっと存在することは容易に想像でき、こうした「無理をしながら臨床で働く」ことが看護師さんを一層疲弊させることにつながっていると私たちは考えています。

そこでその端緒として、看護師さん向けの転職サイトを立ち上げ、1人でも多くの看護師さんが臨床現場で継続的に働くことができるような社会をつくっていけるように事業を進めています。そして1人でも多くの看護師さんが自身の理想の臨床現場で働くことのできる環境づくりをエニケアは実現していこうとしています。

エニケアは Visionを「Any care to anybiody / 誰もがケアを受けられる社会をつくる」とし、Missionを「To shape sustainable medical care and welfare / 持続可能な医療介護を世界でつくる」としています。

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