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「君たちはどう生きるか」 宮崎駿監督 最終的には自分が決めていいんだよという話


 事前告知一切なしで今月14日に封切られたスタジオジブリ最新作、宮崎駿監督による「君たちはどう生きるか」。
1937年の吉野源三郎「君たちはどう生きるか」にインスパイアされた本作。
中身だけ見れば、本著をそのまま映像化したわけではないようだ。

オリジナルにこだわってきた宮崎監督としてはあくまで自身の創作意欲を掻き立てられた書籍という位置付けか。


 日本を代表するアニメスタジオであるジブリの新作ということで、普通であれば大々的に広告を打ち、大がかりな宣伝を行うのが常であったであろう。

しかし、今回は事前情報一切なし。公開直前に主要キャストと主題歌を米津玄師が担当していることが公開されたのみ。

こういうやり方って今後もしかしたら普通になっていくのかもしれない。

公開前に鈴木敏夫プロディーサーが「スラムダンク方式を採用した」と語っているように、この方法で成功している先例も存在する。

また、今月からスタートしたTBSドラマ「VIVANT」も主要キャストのみの発表で放送をスタートさせている。

今後こういった宣伝なし、事前情報なしの戦略は映画、ドラマだけでなく様々なメディアにおいて主流になっていく可能性はある。

確かに大衆の注目度を上げる意味においては一定の効果を発揮しそうな方法ではある。
しかし、この方式、やはりそれなりに実績があり、十分期待が持てる作品ないし監督、キャストでなければ十分な効用がないように思う。

今回のようにスタジオジブリ、そして宮崎駿がまたしても引退撤回しての「風立ちぬ」以来10年ぶりの新作という前提条件が揃わない限りはこの方式は意味を成さない。

そしていよいよ公開され、蓋を開けて見ればどうだったか。
答えとしては、この作品は事前情報など不要だなということだ。

いや、不要というか事前情報として何かを与えれたとしても理解できないだろうということだ。
むしろその情報を見たことで観客の足が遠のく可能性すらある。

そういう意味では今回の宣伝なし作戦は、ジブリや宮崎監督の意図したことではないのかもしれないが一応の成功を見ているのかもしれない。


物語全体を貫くジャンルとしては冒険ファンタジーと言えるだろう。
「千と千尋の神隠し」に通じるような、主人公が数奇な運命に巻き込まれていくストーリーと、奇怪な生き物たちや不思議な世界での冒険。母親を失った少年の心の葛藤や迷い、成長といった人間描写などは十分楽しめるし、何より先に述べたように過去のジブリ作品のエッセンスを確かに感じられる作品に仕上がっている。

しかし、ご覧になった方は感じたと思うのだが、このストーリーとタイトルである「君たちはどう生きるか」という文章がどうも噛み合わない。

筆者はこのタイトルから分かる通り、てっきりもっと人生訓のようなもの示してくれる作品なのかと勝手に想像していた。

だが、実際は、鑑賞したほとんどの人が感じたであろう「よくわからない」というのが本音であろう。

冒険活劇にしたところで、過去作を超えているとは到底言えないし、宮崎監督がまさか引退を撤回してまでそんな作品を作るとは思えない。

人物描写や登場人物の表現にしても、もっと魅力的なキャラクターは過去作品にもたくさん登場してきている。

一見するとストーリーは単純なので、物語自体を理解できないという人は少ないだろう。
普段映画をあまり見ない人がジブリの新作だからと観に行けば、単純な冒険活劇ファンタジーとして受容するだけで終わってしまうだろう。

しかし、筆者のような考察勢からすれば、「いやいや、だから何なの」っていう疑問符が当然浮かんでくるわけだ。

では、我々はこの作品から一体何を受け取ればいいのだろうか。

それは、結局「人生とは自分で切り開いていけよ」っていう宮崎監督からのメッセージなんじゃないかと思う。

我々の社会はすでに成熟しきっているため、思考停止していても何とか生きていけるのが現代社会である。

「親や先生が言っていたから」、「いい学校に入ればいい人生だ」、「いい会社に入ればいい人生だ」、「結婚して子供を作って家を買って定年まで勤めれば幸せな人生だ」。
こういう人生のロードマップみたいなものを我々は小さい時から家や学校で刷り込まれて生きてきた。
なのでこれが思考停止状態だと気づかずに生きている人が大半であろうと思う。

いや、何もこういう無思考的な生き方を否定するわけではない。これで幸せを十分感じれている人もたくさんいると思う。そういう人は是非とも幸せな人生を歩んでもらいたいと切に願っている。

しかし、こういう型にはまった生き方が誰しもに幸せを運んでくるわけではない。
ここでいう型とは、いわば誰かに与えられた幸せのかたちである。

何を幸せと捉えるかは元来極めて主観的なものである。

それを他人の尺度に委ねるというのは本来おかしなことであると思う。
とかく日本人はこう言った考えに陥りやすい。

ここ何十年かの日本経済の停滞を見れば、懸命な大人であれば終身雇用で守られた無思考的な生き方に限界がきていることに気づくだろう。
いや、むしろ停滞した社会しか知らないZ世代の若者たちの方がこういう生き方に疑問を抱き始めているのかもしれない。

我々の社会はおかしくなっているのだ。

SNSでの罵詈雑言のやり取りを見れば明らかだろう。

皆何を指針にして生きればいいのかがわからなくなっているのだ。その腹いせをインターネットという閉鎖空間に投げ込んでしまう。それが誰かを人知れず傷つけているということに気づきもせず。

「君たちはどう生きるか」は、そんな閉塞した日本社会に投げ込まれた宮崎監督からの一つのメッセージなのではないかと思う。

政治や社会に身を委ねているだけでは生きづらくなっていく。おそらく今後の日本経済の先行きを予想するにその傾向は高まっていくばかりだろう。

だからこそ、主人公である眞人のように勇気を出して自分で未来を切り開くべきなのだ。

眞人が迷い込んだ未知の世界は、もしかしたら病気も争いもないユートピアなのかも知れない。さらに眞人は、それまでその世界の主人だった大叔父から跡を継ぐように要請される。
何不自由のない暮らしを約束されたかも知れないのだが、眞人はその要請を断り、現実の世界に戻ることを決意する。それだけではなく、最後にはそのユートピアを崩壊させてしまう。

そこには眞人の並々ならぬ決意が感じられる。

誰かに与えられた幸せではなく、自分自身がしっかりと現実と向き合い、自分の力でどう生きていくかを決める。

我々はこの眞人の行動から学ばねばなるまい。幸せとは客観的なものではなく主観的なもので、自分で探さなくちゃならないんだよということを。


一見すると単純であり難解な作品である。しかし、この相反する気持ちを持つことがまずスタートラインだろう。

おそらくもっとこの作品をわかりやすく考察し解説している論説者もいると思う。気になればそちらもご覧になれば良いが、結局はそれもその人の考えであって正解などでは決してない。

そう、正解なんてこの世にないのだ。でもだからこそ自分で思考して生きてゆかねばならないよというのが、本作から筆者が受け取ったことである。

忘れてはならないのはこれも正解ではないということ。

鑑賞者自身が何を感じるかを言葉にすれば良いのだ。

それがすなわち幸せに生きることの入口となるだろう。

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