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<ジャポニスム 幻想の日本> 馬渕明子 ㈱ブリュッケ(新版2015)その1.

はじめに

 カルチャー教室の「線スケッチ」の講座を始めるときには、生徒さんを募集するために体験会を通常開催します。

 「線スケッチ」は一言でいうと、「実物をよく見て、(鉛筆の)下書きなしに、サインペンでモノの形を描き、描いた線を活かすように透明水彩絵具で彩色するスケッチ」になります。

 体験会では限られた時間の中で、できるだけ魅力的に感じてもらおうとデモンストレーションと体験を通じて奮闘するのですが、ある質問を必ずもらうことになります。それは次の問いです:

 「なぜ下書きなしに描くのでしょうか? 鉛筆で下書きをしてはなぜいけないのですか?

 自然に口について出たのだと思いますが、実は本質的な問題を含んでいる問いです。

 いろんな答え方があるのですが、一から説明すると長くなるので、次の説明で何とか理解してもらっています。

あなたは小学生の時に書道をならったことがあるでしょう。その時、お手本を書く(臨書)ときに、はじめに鉛筆の下書きをして、その上から筆で書きますか? 
 そうではないでしょう? 必ずお手本を右に置いて、筆を動かす前に、必ずお手本の字をよく見て覚えてから、一気に白い紙の上に筆を走らせるのではないですか?
 もし下書きして上から筆を走らせると、いかにもなぞった文字の線となり、生き生きとした字(書)を書くことが出来ないからです。

 下書きしないのは「線スケッチ」では線の表情が命で、書道と同じ精神で描いていることを分かってもらいたいのです。

 横道にそれますが、私は以前絵とはまったく関係のない、企業の研究職でした。その活動は欧米で培われた自然科学のphilosophy が基礎となっており、普段は気づかなくても、物事の進め方の考え方に対して自分が東洋(日本)人であることをふと意識させられることがあります。
 ですから昔から西欧と日本の考え方についてその差異、相互の影響について大いに関心を持っていました。

 「線スケッチ」の冒頭に述べた特徴は、画材は現代的でも日本の絵画と同じ精神で描かれていると感じています。

 後年線スケッチを始めて、東洋(日本)と西欧美術の差や相互影響についてもますます関心が高まりました。ですから和の影響、「ジャポニスム」についての本や記事も目を通すことにしています。

 さて今回取り上げるこの本ですが、最近図書館で見つけたものです。

 読んでみると学者にありがちな専門用語を多用した固い文体ではなく大変読みやすい平易な文章で書かれていること、そして今まで、あまり深く掘り下げられていなかったモネのジャポニスムについて、3章にわたって論じられていることに注意を惹きました(もちろん、定番のゴッホ、クリムト、葛飾北斎とジャポニスムの章もあります)。

 この記事では、「線スケッチ」に関連する部分に焦点を絞ります。

素早さ、偶然性、簡素さ

 この言葉は、本書では第2章、「ジャポニスムと自然主義」の小見出しとして取られているものです。

 日本の絵画において、花鳥画における動植物のモティーフに関する考えかたが西洋を驚かせ、絵画、素描、版画、彫刻、工芸品に応用されていった事例を紹介した後、上記小見出しに移ります。

 著者はこの小見出しを立てた意味を次のように述べています。

(前略)やはり日本人の自然観と深い関わりのある三つの概念、素描の素早さと線そのものの自己表現、制作過程で偶然に生じる効果を取り入れること、そしてデザインやとりわけ建築に関する簡素さについて考えて見たい。(中略)
 ヨーロッパの素描は一本の線の面白味などより、それが形態の肉づけをいかに表し、正しく陰影をとらえ、構図を見事に整えているかを競うものであったから、必ずしも写実的な再現を目的としない線や面の戯れにはなんの関心もなかった。しかし、デッサンという語の意味するものが線による輪郭と肉づけを目的とするものだという古典主義的発想から、色彩をも含めた筆による素描というロマン主義的な新しい価値観へと変化してゆくにつれ、素描は大いなる自由を獲得し、十九世紀後半においてはその多様化が飛躍的に進んだ。

第2章 ジャポニスムと自然主義・素早さ、偶然性、簡素さより

  その多様化が飛躍的に進んだとき日本美術が登場したために大きな反響を呼んだというわけです。

 注目したいのは、本書全体を通じて、同時代の西洋の批評家や日本に訪れた外国人の文献からの引用を頻繁にしかも長めに入れて、当時の西洋の時代感覚を直接読者にも感じてもらおうとしていることです。

 実は私の勝手な思い込みで、当時の西洋の人々には日本の美術を理解できなかっただろうと思っていたのですが、引用文を読むと、なかなかどうして日本美術の特徴をしっかりつかまえているではありませんか。

 本書からの孫引きにはなりますが、素描に関する当時の西洋の人の書いた部分を引用いたします。
 まずは、1876年にジャーヴズが日本の素描の特徴をとらえている文章です。

日本人の画家たちが彼らの作品の清明となる着想を生き生きと視覚化する技巧に満ちた手法―どういう技法をつかっているのかはいわば隠されているのだが―もまた素晴らしいものだ。それはわずかな線と点と光の斑点、影または色彩によってできているようだ。そして無駄な力を省いて常に簡潔であっさりとし、統一感を得、構図の意味を強調するために本当に必要なもの以外の細部は省略してしまって、その意が満たされたまさにその時点において確信に満ちて筆を止める。技術の上では過剰に陥るよりむしろ不足を好み、芸術上の目的に注意を集中させるが、ある個人の人生、ある動物の全習性や本能、植物の本性、大気の状態や季節の情緒といったものは、ほんのわずかほのめかす程度にとどめる[16]。

James Jackson Jarves, A Glimpse at the Art of Japan, New York, 1876, p112.

 ここに書かれた日本の絵(版画の浮世絵)の特徴を反対にすれば、そのまま西洋の絵の特徴になると思います。ジャーヴズは西洋人であるからこそ日本の絵の特徴に気づいたのかもしれません。

 私が線描するときに、どこまで描き込んだらよいのか悩むのも、我々が西洋の絵に親しんで知らず知らずのうちに影響を受けているためなのでしょう。

 著者はまた、シェノーの1878年の論文や1878年のオールコックの著書を引用して、日本人にとって描写がどのようであれ、自然そのものが手本であり、また即興性、簡潔性についても西洋美術に無い特徴として指摘しています。

 シェノーの引用文:

一般に日本の芸術家は、彼らのデッサンの一見気まぐれな様子からのみ判断してわれわれが信じがちであるほどには空想的ではないのである。あの線の爆発、あの長い曲線、あの迸ったと思うと思うと突然に後退する筆致、まったくの想像か、少なくとも感情に任せて描いたように見えるあの歪み、動植物のあれこれおの器官を肥大させたり矮小にしたりするあの誇張―だがこの農家に集められたいくつかの見本を見ると、彼らが手本としているのが現実の自然そのものであることももはや明らかである。

Ernest Chesneau, 'Le Japon a Paris' , Gazette des Beaux-Arts, Sep., p.390.

 オールコックの引用文:

日本人がごくわずかなタッチで、特別なある場の雰囲気のもとに日常生活の情景を描き上げるという芸術的能力を発揮することほど、驚くべき卓越をしめすものはない。
 同じ手で描かれたもので、鳥の、きわめて多様で見事な習作も存在するが、これらは対象の様子や特有の動きを日本人がいかに微細に注意深く観察しているかを示すものである。ヨーロッパの最良の動物画家たちも、これほどわずかな筆や鉛筆のタッチで、ここに掲げた(北斎の)作品ほど芸術的で真に迫ったものを描き上げられるとは、私には思えない。

Sir Rutherford Alcock, Art and Art Industries in japan, London, 1878.

 以上、見てきたように当時の西洋人がきちんと日本の美術(版画)の特徴を把握したことに驚きました。逆にこのような正確な受容があったからこそ普遍的なジャポニスムにつながったのだという実感を受けました。  
 なお、これらの影響例として、著者はロートレックの次の素描を挙げていますので、参考までに示します。

Henri de Toulouse-Lautrec, Public domain, via Wikimedia Commons

最後に

 今回は、線描について焦点を当てました。次回は、モネの構図に対する影響について書くことにします。


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