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さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

1995年、青島幸男と横山ノックが知事になり、地下鉄サリン事件や沖縄基地問題、フランス中国の核実験強行に阪神淡路大震災。激動の年の10月、新世紀エヴァンゲリオンがテレビ放送開始。

NIFTY-Serveを代表するパソコン通信。パソコンを持っている一部の人たちが電話料金を気にしにながら見知らぬ誰かと意見交換ができるようになった時代。インターネットという言葉がようやく産声を上げて、大学卒業を待たず新たなビジネスの世界に飛び込む第一陣が生まれた時代。

あれから26年、庵野秀明監督が生み出した物語は幕を閉じました。当時、必死にエヴァの世界観に食らい付いていた21歳の私は、50手前の中年に。とても素直に、穏やかに最後のシン・エヴァンゲリオン劇場版の映像を見送りました。

当時、エヴァは僕にとってまさしく現象でした。ファッションとはどこか違い、視聴者の心に住み着いた菌のような感覚です。善玉か悪玉かよくわからないけど、比較的人より妄想世界に生きることが多かった僕はすぐに受け入れてしまった感じです。とは言え、当時は物語の内容はほぼわかっていません。ロボットアニメ(乱暴な言い方ですが)なら、キャラがかっこいいとか、そういう見え方から入るのですが、なんというか感情が先に支配されてしまったような気がします。主人公の一人碇シンジの描写。迷い、弱音、いいわけ、自己承認、そして自暴自棄。結果として活躍するものの、勇気や責任感、勝利へのこだわりや仲間意識という、僕たちが小さな頃から絶対と刷り込まれたものではない主人公の心情に、心の中の僕がシンクロしてしまいました。

当時、バブル経済は崩壊し、まだ社会に出ていない僕ですらこれからの社会に期待はできませんでした。小さな頃から、誰でも自分の努力次第でなりたい自分になれる。そのためには人よりもよい成績、よい学校、よい企業に。という風潮が真っ只中の時代です。その幻想が経済から崩れ出した時代。しかも大きな地震で友達を失い、テレビでは海外のようなテロのニュースが流れる。
僕より数年前に卒業した人たちは内定前の海外旅行接待があるかどうかで就職先を選んでいて、自分が卒業するには就職先が全くないという、なんとも皮肉な環境に大人や社会に対する期待感を全く持つことができませんでした。だからこそ、弱いまま、運命に抗いたいのに何もできない主人公に自己投影した気がします。弱いままの主人公な彼に羨ましさもあったような。

テレビ版の最終話がおそらく皆の期待と違ったのか、評判はよくなかったように思います。僕はそんなことよりも終わったことにホッとしました。今思えば弱い自分と向き合わなくて良いという安堵感だったのでしょう。その後の映画版は敢えて遠ざけました。もう僕は社会人。競合他社と、競合商品と、同僚と競争しないといけない。エヴァなんて見たら、隠している自分が姿を表すかもしれない。

コロナ渦での最終章映画公開が噂される中、テレビ番組で庵野秀明監督とエヴァ最終章の密着取材が放送されました。これは見た人も多いはず。監督の変人、狂人ぶりと、エヴァに込められた関係者の葛藤を惜しげもなく強調した、一般的には上出来の番組でした。少し穿ってみるくらいには自分も歳をとっていたわけですが、今度は主人公ではなく作者と自分を重ねてしまったんです。まったく手の届かないほどの人なのに。

これを見る少し前、僕は自分史上最大の取り組みから手を引きました。プロスポーツエンタメの世界に身を置いた中で出来上がった僕的にこれだという設計図を、生身の僕は描ききれず、期待に答えられず多くを無くしました。自己防衛本能が働き鬱に。一時期は復活するも、折れたものにごまかしは効かないようで、その後も浮き沈みを繰り返す状況が続きます。

この番組を見ていたら監督にもそんな時期があったと触れていました。この世界に表明したいことがある。それを描き切る。そして伝え切る。これほど一流の人であっても、最後に伝えきれずもがき、苦しみ、誰かを傷つけるのか。。自分の弱さ、身勝手さを呪うも何も変えられない状況で見たこのシーンは、本質的ではないにしても自分の救いになりました。と同時に、こんな状態の僕を見捨てず見守ってくれる存在がいることの幸せを噛み締めながら、監督も安野モヨコさんがいなかったらやばかっただろうなーと、同志のような気持ちで見ている自分の何様感ったら。

序・破・Q。 この番組を見た後、映画版を視聴。今まで全く見えなかった世界が見える。その先にあるものも想像できる。ついでにふしぎの海のナディア(初総監督作品だったと記憶)も見たりしたらもうすでにエヴァがそこに見え隠れしたりとか。純粋に、アニメ作品として楽しめている自分。ほんとに当時見なくてよかった。準備万端で最終章へ。

内容は書かないけど、皆さんはどうでしたか?
60を過ぎても大人になれない監督が26年かけて描き切った世界は、僕にとってはとても静かで美しく映りました。すべての登場人物や出来事を許せる、素敵な卒業式に参列できた気持ちです。

あれから26年。時代は変わり、新しい様々な表現が生まれ、それぞれの届く範囲の人の心にシンクロしています。もう、マスで捉える大きな現象は必要ではないのかも知れません。そんな中、エヴァンゲリオンという表現は役目を終えたような気がします。だからこそ、現象と呼ばれるほど取り沙汰されないことは、この時代にとってとても正常なことかもしれません。

僕個人もいろいろと悩みましたが、やっぱり描いた世界を作りたいという気持ちは簡単には消せませんでした。描き切ることは2度とできなくてもやっぱりそこにいたい。総監督役はできないので、制作メンバーとして入れてもらって来ます。スポーツエンタテインメントの世界に戻ります。

話は変わりますが1995年と言えば、岡田斗司夫氏の《ぼくたちの洗脳社会》が発刊された年なのですが、今読むと驚くほど、当時からこの世の中が来るだろうという記述がなされています。ちなみに、この本は当時から無料で全文公開されており今でもブログで全て読めるので、紹介しておきます。





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