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渚で本が読みたい 1話

■あらすじ(※結末のネタバレを含みます)

豊里 隼太は失恋をきっかけに、離島から沖縄本島へ進学した高校二年生。いまいちクラスにも馴染めず、退屈な高校生活を送っていた。
そんな新学期、天沢 春琉が司書教諭として赴任する。高校をサボっている所に遭遇したことをきっかけに天沢と親しくなった隼太は、くすぶる自分を案じる天沢の優しさに気付く。
天沢との日々を通し、隼太は次第に天沢への恋心を自覚するが、過去の失恋が足枷となって前に踏み出せずにいた。
そんなある日、天沢がゲイであること、そして追われるようにこの島へやって来たことを知る。
暗い過去を前向きに乗り越えていく天沢の姿を通し、隼太も次第に何気ない日々の尊さや、自らの幸せに気付くのだった。

■1話

 都会から遠く離れたこの島が、もし何か『一番』を取れるとするならば。
 ひとつ挙げるとするならば、桜の開花の速さだろう。
 新年の訪れと共に咲いた寒緋桜はあっという間に花を落とし、校庭にはでいごの紅い花が咲き乱れていた。

「ふあ……」

 先刻から長いばかりの校長の話に、俺――豊里 隼太(とよさと はやた)は思わず大きなあくびをこぼす。

(今週のバイト、フルで入れるんじゃなかったな……)

 翌日が新学期であることに気付いたのは、バイト先で別の高校の友人に指摘されてから。
 そのくらい、自分にとって高校生活とは関心の薄いものだった。
 本来、高校生活で最も楽しいと言われる二学年を共に過ごす同級生のことも、クラスを受け持つ新しい担任のことも。

(やべ。おじいに頼まれてた郵便、投函すんの忘れた……)

 うららかさを通り越し、既に蒸し暑さすら感じる春の空気に、思わず舟をこぎ出した矢先。
 ふと、ぼんやりしかけた意識は前に座る女子生徒の会話で引き戻された。

「ね、見て見て」
「あそこの人……新人の先生かな?」
「かっこいい」

 彼女達の会話に促されるように、ちらりと壁際へ視線を送る。
 ――見れば、確かに。
 横一列に立ち並ぶ教師陣に混ざり、ひとりの見知らぬ青年が立っていた。

「芸能人みたいねー?」
「肌白すぎさ〜」

 長たらしい校長の話をよそに彼を眺めていたふたりは、うっとりと小さくため息を漏らす。

(……確かに)

 彼女たちの言う通り、遠目から分かるほど、壁際に佇む男は整った顔立ちをしていた。
 この島で暮らす人間にしてはあまりにも似つかわしくない、白い肌と華奢な身体。
 体育館の大きな窓から差し込む光に晒された栗色の前髪は、やや緊張気味の表情に影を落としていた。

(ふん……『ないちゃー』か)

 『ないちゃー』とは、沖縄県外の人のこと。生まれてこのかた一度も県外へ出たことのない自分にとって、『ないちゃー』は未確認生命体。ある意味宇宙人のような存在でもあった。

「それでは今日からこの学校に配属されることになった、新しい先生を紹介しましょう」

 いつの間にか長い話が終わっていたらしい。
 舞台を降りた校長に代わり、教頭が先刻のイケメンを連れて壇上へ上がる。

「先日退職された比嘉先生に代わり、新しく司書教諭として着任した天沢先生です」

 マイクを渡されたイケメンは遠慮がちに体育館を見渡し、にこりと柔らかい笑顔を浮かべた。

「初めまして。このたび東京の高校から来ました、天沢 春琉(あまさわ はる)と言います」

(あまさわ はる……)

 女みてえな名前だな。
 心の中で野次る自分をよそに、彼は浜風のように穏やかな声で続ける。

「僕の役目は、皆さんが素敵な本と出会うためのお手伝いをすることです。普段は図書室にいますので、昼休みや放課後にぜひ遊びに来てくださいね」

 先刻までひそひそ話に興じていた前の女子も、ダルそうに枝毛を探していた隣の女子も、気付けばすっかり突然やってきたないちゃーに釘付けになっている。

(司書……って、高校にもいんのか)

 そもそもこの高校に図書室があることすら知らなかった。
 机に向かって大人しく本を読むなんて、ここ何年していないだろう?

 国語の授業以外で活字を読むのとかダルいし、他人の人生の話を読んだところで、自分になんの役に立つんだって感じだし。
 読書に一切興味のない自分にとっては、新たな図書室の主に関わることなんてないだろう。

(ふぁ……早く帰りて)

 手短に話を終えたないちゃーは、壇上でぺこりとお辞儀をする。
 そんな彼に向かって、俺はあくび交じりに拍手を送ったのだった。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 自分が16歳になるまでの時間を過ごしたのは、この島から飛行機でさらに一時間ほどかかる、小さな小さな島だった。
 小さな小さな島には高校がない。だから島で育った子供達は、中学卒業と共に親元を離れることがほとんどだ。
 訳あって自分は本島の高校に進学し、現在は親戚のおじいの家に間借りさせてもらっているのだが。

「ふぁ……」

 春眠暁を覚えず。気を抜けば連発してしまうあくびを噛み殺し、昼前の国際通りを歩く。
 新学期も始まったし、少しは真面目に授業に出るかと制服に着替えたものの――家を出て少し歩いた頃には、なけなしの意欲はすっかり萎えてしまった。
 だからと言って行く当てもなく、ぶらぶらと街を歩いていれば。
 こちらに気付いた知り合いの男子大学生が、土産物屋からにゅっと顔を出した。

「なんだハヤ、またサボりねー?」
「うっせ。勉強ならちゃんとやってる」

 普段なら観光客で賑わっている国際通りも、今日は平日だからか人通りが少ない。
 店番の彼も暇を持て余しているようで、「ふーん」と退屈そうに伸びをした。

「暇ならまた釣り行こうぜ。お前んとこのおじいにもよろしく言っといて」
「おー」

 ひらひらと適当な挨拶を交わし、店を後にする。
 そのままぶらぶらと歩いていれば、前を通りがかったステーキ店の香ばしい匂いが鼻をかすめた。

(腹減ったな。ついでにどっかで飯でも――)

 けれど、当てもなく動かしていた足が、不意にぴたりと止まる。

「あ……」

 同じく目の前で足を止める、今話題の『ないちゃー』。

「君は……」
(やべ……)

 驚いた表情を浮かべるイケメンを前に、思わずごくりと喉が鳴る。
 このまま素通りして逃げるべきか。適当に言い訳をして誤魔化すべきか。

(いや、制服着てるし)

 ここで逃げたところで、後でサボり犯として特定されてしまうだろう。
 突然遭遇した非常事態を乗り切るべく、頭をフル回転させていれば――

「……バレちゃった」
「え?」

 この時間に教室で授業を受けていないことを、なじられると思いきや。
 きょとんと瞳を瞬かせていた男は、やがてふにゃりと相好を崩した。

「実は『あんまー亭』のゆし豆腐そば、どうしても食べたかったんだよ」
「は?」
「お願い! お昼ごちそうするから、このことは秘密にしてくれないかな」
「え、ちょっと、なに……?」
「あのメニュー、数量限定なんだよね。昨日も昼休みと同時に行ったんだけど、目の前で売り切れちゃって……」
「…………」

 困惑するこちらをよそに、司書教諭は子犬のようにつぶらな瞳でこちらの顔を覗き込んでくる。
 ――近い。近過ぎる。
 ないちゃーの距離感とは、果たしてこんなものなのだろうか。

「……ゆし豆腐なんて、別にどこでも食べられると思いますけど」

 戸惑いの果てに辛うじて絞り出された言葉は間抜けなもので、自分でも呆れてしまう。
 それでも彼は白い頬を紅潮させ、さらに距離を詰めてきた。

「それ、すごい沖縄の人っぽい! 僕も早く島のことたくさん知りたいなぁ」
(知らんし……)

 制服を着ているとは言え、どうして彼は当たり前のように話しかけてくるのか。
 本来なら授業が行われているはずの時間に街をぶらついている生徒に対し、どうして無反応でいられるのか。
 謎は深まるばかりだったけれど、今さら逃げることなんてできなくて。
 無邪気にはしゃぐ大人を前に、俺はため息をつくしかなかった。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 いつものように当てもなく街をぶらついていた、とある平日。
 なんてことない一日は、天沢春琉とかいう男のせいで、急な変更を強いられた。
 もやもやとするこちらをよそに、最後の一滴までどんぶりの中身を飲み干した隣の男は幸せそうに両手を合わせる。

「ごちそうさま。あー、美味しかったなぁ」
「…………」

 女子高生よろしくスマートフォンで撮影した料理の写真を見返しつつ、天沢は「次は何食べようかなぁ」なんて呟いている。
 そんな『ないちゃー』の能天気な様子にしびれを切らし、とうとうこちらから会話を切り出した。

「あの……聞かないんすか?」
「え?」
「どうして俺が学校サボってんのか」
「…………」

 今しがた気付いたと言わんばかりのきょとん顔に、嘘だろとツッコミを入れたくなる。少しだけ考えるように視線を宙に漂わせた彼は、やがて再び優しく微笑んだ。

「サボってるのは僕も同じだよ」
「は……?」
「だから共犯。『豊里隼太くん』」

 上向きに綺麗な弧を描く唇から発された、自分の名前。
 得意げに目を細めた天沢を前に、心臓がどきりと跳ねる。

「どうして俺の名前……」
「新垣先生に言われたんだ。君の担任。会ったら本のひとつでも読み聞かせてやってくださいって」
「なんだよあいつとグルかよ」
「別にグルじゃないよ。ああ君が噂の、って思っただけ」

 ランチの時間を目前に控えているものの、店内の客はまだまばらだ。
 厨房で皿を洗う音が小さく響く中、店の端に置かれた小さなテレビには地元のバラエティ番組が映っている。

「この後はどうする?」
「……午後の授業は出ます。センセーにも見つかっちゃったし」
「そっか。じゃあ放課後、図書室においで」

 「図書室?」と思わず聞き返せば、天沢はこくりと頷く。
 入学して早二年、高校生活にはすっかり慣れたはずだったけれど――
 彼が言葉を発したその場所は、未知の世界への誘(いざな)いだった。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

『ここに来るまでは東京の高校で働いてたんだ。でも色々あってね、思い切って沖縄に引っ越すことにして』
『変なの。東京の方が便利じゃないすか』
『うーん……でも、こっちの方が海も綺麗だし、街の人だって優しいよ』
『やっぱりないちゃー……』
『え?』
『……いや、何でもない』

「はぁぁぁ……」

 昼食を終えて高校に戻るまでの会話を思い出し、本日何度目か分からないため息をつく。
 渋々受けた五限の授業。一番後ろの席から窓の外を眺めれば、着陸直前の飛行機が真っ白な雲を引いていった。

 高校生活には興味がない。
 余計な時間を費やすくらいなら、将来のためのバイト代を稼いでいた方が遥かにマシだ。
 だから学校にいる間は可能な限り誰とも関わらず、省エネであろうと思ってたのに。

(思ってたのに……)

 脳裏に思い浮かぶ『ないちゃー』の締まりのない笑顔をかき消すように、緩んでいた意識を教室の中へと戻したのだった。

𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 放課後、楽しげに帰宅する生徒達の流れに逆らうように廊下を歩く。

(どこだ、図書室……)

 図書室なんて、高校で一二を争うほどに縁のない場所だ。
 小さい頃から外で遊んでばかりで、親から本を読めと諭されたこともない。そもそも長時間椅子に座ることも苦手で、勉強だっていつも必要最低限で済ませたいと思っているほどだ。

(あ……ここか)

 うろうろと校内を彷徨い、やっとのことで東の果てにある目的地へと辿り着く。
 うっかり引き戸を大きな音を開ければ、中にいたクラスメイトがまじむん(妖怪)と遭遇した時のような表情でこちらを振り向いた。

「な……豊里!?」
「うお、人いたのか」
「不良が何の用だ。ここは暇つぶしをする場所じゃないぞ」
「失礼な奴だな、真栄田」
「なっ……!?」

 ぶっきらぼうに返せば、ガリ勉メガネは切れ長の瞳を見開いた。

「お前、どうして俺の名前……」
「当たり前だろ。県内で一番でけえ総合病院の息子なんだからよ。おじいも去年ぎっくり腰で搬送された時は世話んなったわ」

 真栄田智晶(まえだ ちあき)。彼は市内の総合病院の院長の息子として有名だ。
 成績も優秀で、噂じゃ跡継ぎとして医者になる道が約束されているとか、なんとか。

 よほど不良が図書室へやって来たことが心外だったのか、それともこちらの『用事』を察したのか。
 やがて真栄田はため息交じりにカウンターの椅子から立ち上がった。

「……くれぐれも天沢先生に迷惑をかけるなよ」
「え、ないちゃーどこにいんの」
「おい! 何だその呼び方!」

 人気のない室内を挙動不審に見渡せば。
 「いいよいいよ」と、本棚の陰からのんびりと天沢が姿を現した。

「真栄田くん、予備校あるのにありがとう」
「いえ。返却処理は図書委員の仕事ですし」
「まだ棚の場所を覚えきれていないから助かるよ。ありがとね」

 きっちりと通学鞄を左肩から下げ、真栄田が図書室を後にする。
 今度こそ、室内にふたりきりの静寂が訪れた。

「……来ましたけど。約束通り」

 慣れない場所で、どこに身を置くべきかもわからない。
 そわそわとしながら視線を送れば、彼は「来てくれてありがとう」と持っていた数冊の本をそっと机の上に置く。
 一番上に積まれているのは『高校生のための倫理入門』。誰も読みたがらなさそうな本だ。

「豊里くんに、改めてお礼がしたいなと思って」
「は? 何のですか」
「もちろんお昼に付き合ってもらったお礼だよ」
「昼って……今日の?」
「そう。君は僕の望みを叶えてくれたんだから」
「いやいや、奢ってもらったのこっちなんですけど」

 やっぱりないちゃーの言うことはよくわからない。
 困惑するこちらをよそに、天沢は机の上に置いた本を手に取った。

「良かったらこれ、読んでみて」

 そうして渡されたのは、つまらなさそうな倫理入門……ではなく。
 固い肌触りの表紙に、筆文字で『きじむなーのぼうけん』と書かれた――

「絵本?」
「そう」

 絶句するこちらに反し、天沢はにっこりと頷く。

「先生、俺のこと馬鹿にしてる?」
「まさか! 今の君にぴったりだと思って選んだんだよ」
「その答えもだいぶ馬鹿にされてる気がするんですけど……」
「そんなこと言わないで。全国で人気がある本だから、騙されたと思って読んでみてよ」

 優しい瞳で微笑みかけられ、渋々差し出された絵本を受け取る。

「絵本なんて子供っぽいって思うかもしれないけれど、ここの図書室にあったものだよ。つまりこの本は、君や君と同じ高校生に読まれるためにここにある」
「はあ」
「そもそも図書室って、本を読むだけの場所じゃないんだよね。勉強してる子だっているし、居眠りしてる子だっている。騒いだらダメだけど、ルールさえ守れば誰が利用しても、何をしても咎められることはない。だから……」

 色素の薄い瞳が、まっすぐにこちらへ向く。
 そうして、穏やかながらも揺るぎない口調で、天沢は言ったのだ。

「実は図書室にも、君の居場所はあるんだよ」
「!」

 突然発された核心を突くような言葉に、思わず小さく息を呑む。
 それはまるで、自分の心の内を見透かしているようで。
 一方で、こんな自分を受け入れてくれるという意思表示をされているようでもあって。
 天沢の得体の知れなさを奇妙に思いつつも、自分だけに向けられた視線から目が離せない。

(……なんだよ)

 つい受け取ってしまった絵本の表紙を眺めれば、胸の奥がさざめく。

(ちょっとイケメンだからって、偉そうに言っちゃって……)

 表紙に描かれた真っ赤な髪のきじむなーは、こっちを見上げて満面の笑みを浮かべていた。なんだよ、コイツまで俺のことバカにしやがって。

 けれど、まるで春の訪れに足元が浮き立つような感覚は、確かに――
 淡々と過ごしてきた高校生活に、突如としてもたらされた変化を示していた。

𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 登校一番、窓際の席に座って黙々と絵本を読む不良の姿を視界に捉えたクラスの一同は、驚愕のあまり互いの目を疑った。

「え、不良が絵本読んでんだけど」
「つかあいつが始業時間に登校してるとこ初めて見た」
「雪だわ。絶対今日雪降る。外あっちいけど」

 そんな外野の声もよそに、俺は絵本のページをめくり続ける。

 『きじむなーのぼうけん』。

 天沢から突然渡された絵本の主人公は、子供の姿をした沖縄の妖怪・きじむなーだった。

 ――元気いっぱいのきじむなーは村の人たちと遊びたくて、いつもいたずらを仕掛けていました。でも、村の人たちはいつもきじむなーに困らされてばかり。自分たちとは違う種族のきじむなーからの好意に、人間たちは気付かなかったのです。
 ――やがて村の人たちに追い出されてしまったきじむなーは、仕方なく旅に出ることにしました。手作りの船で海を渡って、辿り着いたのは、小さな無人島。そこには自分と同じきじむなーが、みんなで仲良く暮らしていました。
 ――本当の居場所を見つけたきじむなーは、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。

(…………)

 小さい頃、海へ出かけた先でうっかり履いていたサンダルをなくしてしまった時、きじむなーのいたずらだと地元のおばあに言われたことを思い出す。
 もしかしたらきじむなーも、自分と『同じ』だったのだろうか。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

「あ……なあ!」

 昼休み。東の果てにある図書室を訪れるやいなや、俺は天沢にずいっと絵本を差し出した。

「これ、返す」
「ああ、もう読んでくれたんだね。どうだった?」
「え? あー……」

 当たり前のように尋ねられ、返答に悩む。
 読書の感想を伝えるなんて、中学生の夏に嫌々書いた読書感想文以来だろうか。
 しばらく考えを巡らせたのちに口をついて出たのは、自分でも意外な言葉だった。

「その……生意気なこと言ってすいませんでした。絵本とか馬鹿にしてる、なんて言って」
「ということは、この本は少しでも君のためになったってことだ?」
「……まぁ」

 何が楽しいのか、天沢は小さく肩を揺らすと受け取った絵本の表紙を指先でそっと撫でる。
 白く細い指が辿る曲線に、なぜだか視線が離せない。離せないまま、俺は思ったままを口にしていた。

「俺、離島の出身なんです。すげえちっちゃい島で、一時間もあればチャリで一周回れるようなとこの」
「あれ? 豊里くんは本島出身じゃなかったんだ」
「はい。高校もない島だったんで、今は親戚のおじいの家に住まわせてもらってて」

 わざわざ船で通学するくらいならと、中卒で家業を継ぐ同級生も決して少なくはなかった。
 自分が島を出て進学したのだって――別に、地元が嫌いになった訳じゃない。
 今年の正月だってちゃんと帰ったし、ふとした瞬間に海に潜ってばかりだったガキの頃を思い出すこともある。

(それでも……)

 自分が今ここにいるのは、多少なりとも地元に居心地の悪さを感じてしまったからで。
 そう思うと、絵本の『きじむなー』に、妙な親近感が湧くのだった。

「その本に出てくるヤツ、自分で言うのもあれなんすけど……なんか、他人事に思えなくて。気持ちがわかるっつーか、なんつーか」

 そんなことを話したところで、目の前の赤の他人に伝わるはずもない。
 そう、思っていたけれど。
 話を聞いていた天沢は、あっさり「うん」と頷いた。

「そうだね。だって僕も、君に似てると思ったから」
「え……? あ、そうなんですか?」
「うん。だから君がこれを読めば、少しは本に興味を持ってくれるかなって思って」
「はあ……」
「で、ちょっとは高校に通うことが楽しいと思ってもらえたらいいなって」
「…………」

 予想外の言葉に、つい天沢をまじまじと見てしまう。
 彼は不登校気味の自分に、ちゃんと通学して欲しいのだろうか?
 そもそも出会ったばかりなのに、この男はどうして自分に構うのだろうか。

(って……それは自過剰だわ)

 彼は司書だけど、学校の先生でもあるのだから。
 街で偶然出くわした生徒に昼飯を奢ることだってあるし、悩める生徒におすすめの本を貸すことだってあるかもしれない。

(でも――)

 まるで超能力者のようなこの男の心は読めないけれど、ひとつだけ言えることがある。

「その……司書ってすごいんすね」
「ふふ。それが僕の仕事だからね」

 まるでこちらの反応を楽しむかのように、天沢くすくすと笑う。
 こちらへ向けられる、全てを包み込んでくれるかのような優しい視線。

 それが打算的なものであるのか、そうでないのか――
 出会ったばかりの自分には、まだ分からなかった。

𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 それから、数日後。

「…………」

 険しい表情で書架に並ぶ本と向き合う俺に、真栄田は気味が悪そうな視線を向ける。

「おい、豊里。ここは不良がサボる場所じゃないぞ」
「サボってねーよ。うるさくしなけりゃいてもいいって言ったのは、ないちゃーだからな」
「そうか、なら俺にとっても都合がいいな」

 何を言ったかと思えば、真栄田は手に持っていた箒をこちらへ手渡した。

「暇なら図書室の掃除でもしてくれ。僕はこれから部活があるんだ」
「は?」
「大丈夫だ。床掃除だけだから」
「お前、委員会と部活やってんのに予備校も通ってんの? 忙しいやつ……」
「不良と違ってな」
「っせ!」

 相変わらず失礼な言葉を残し、真栄田は図書室から出ていく。
 押し付けられた箒を片手に、まさかの誰もいない図書室に置き去りだ。

「はぁ……」

 早くしろ、ないちゃー、と独りごちる。
 今日は図書室を訪れた時から、天沢の姿が見えなかった。
 誰もいない室内は居心地が悪いけど、かと言って任された仕事をほっぽり出して帰るわけにも行かず。古びた床を渋々ひとりで掃いていれば、それから十分ほどして再び部屋の扉が開いた。

「あれ、豊里くん?」
「!」

 きょとんと瞳を瞬かせる天沢に、救われたような気分になる。

「先生どこ行ってたんすか? 俺、あのメガネに掃除押し付けられたんすけど」
「ごめんごめん。図書委員の仕事を手伝ってくれてたんだね、ありがとう」

 素直に感謝され、どこかむず痒いような気分になる。
 図書室に戻ってきた彼は、小学生が図工の時間に使うような画材をいくつか手にしていた。

「ちょうど資材室にカラーペンを取りに行ってたんだ。ポップ作ってたんだけど、図書室には色鉛筆しかなくってね」
「ポップって、スーパーとかに置いてあるアレ?」
「そうそう。見てよ!」

 嬉々として見せられたのは、画用紙にサインペンで『夏休みの読書特集』と描かれたポップだ。

「……これ、もしかしてカニのつもりで描いてます?」
「え? もちろんだけど」

 何がおかしいのかとでも言いたげなきょとん顔に、思わず噴き出さずにはいられない。

「隣にビーチボールがなければ、絶対タコに見えてたと思う……」
「ひどい! ちゃんとカニなのに! しかもこれビーチボールじゃなくて貝殻ね」

 「上手く描けたと思ったんだけどなあ」などと首を傾げる天沢の姿が可笑しくて、つい頰が緩んでしまう。なんだ、都会のイケメンも、苦手なこともあるんだ、なんて思って。
 やがて持っていた画材をカウンターに置いた天沢は、積み上げられた本を見て目を丸くした。

「あ、返却溜まっちゃってる。こっちからやらなきゃ」
「ペン持ってきたならポップからやればいいのに」
「そうしたいところだけど、次に読みたい人がいるかもしれないからね」

 そんなものかと相槌を打ちつつ、部屋の隅に置かれた用具入れへちりとりを取りにいく。
 掃き集めたゴミを捨てていると、背後で本のページをぱらぱらとめくる音が静かに響いた。

「『押野家』……」
「!」

 聞き慣れた牛丼屋の名前に思わずびくりと反応し、弾かれるように天沢のそばへ駆け寄る。
 天沢が開いていた本は、先刻自分が返却した本だった。そして、彼の手には一枚のレシートが。

「すんません、それ俺が今朝返した本です。しおりとか持ってなくて」
「そっかぁ。ふふ、キムチつゆだく大盛りだって」
「読まないでください! 食べ盛りだから!」

 受け取ったレシートを、くしゃりと丸めてポケットへ入れる。
 こっそり返却したつもりだったのに、読んでいた本までバレてしまって恥ずかしいことこの上ない。
 しかし本には触れず、天沢は不思議そうな表情でこちらを見上げた。

「……豊里くん、もしかしてしおり持ってないの?」
「持ってないに決まってるじゃないですか。女じゃあるまいし」
「別に性別は関係ないと思うけど……なら、これあげるよ」
「え?」

 デスクの引き出しの中をごそごそと漁ったかと思えば、天沢は小さなしおりを差し出した。
 しおりには風車のような形の赤色の花が挟まれていて、ご丁寧に細いリボンまで通されている。

「この花、知ってる?」
「いや……この辺でもよく見るけど、名前までは」
「僕もこの前地学の先生に教えてもらったんだけど、サンタンカ、って言うんだって。校庭に咲いてて綺麗だったから、押し花にしたんだよね」
「自分で作ったんですか?」
「うん。簡単だよ? 画用紙の上にお花を置いて、こうやってラミネートで挟むだけ」
「女子力……絵は下手なのに」
「それは余計なお世話!」

 そっと扱わないとすぐに折れてしまいそうな薄いしおりを、じっと見下ろす。
 こんな可愛らしいもの、自分にはどう考えても似つかわしくないけれど――
 それでも世界でひとつしかない物だなんて考えたら、悪い気がしない。

「豊里くんも作ってみたくなったらいつでも言って! 材料貸すから」
「いや、それはいい……」

 半分だけ開かれた窓から風が吹き込み、にこにこと微笑む天沢の柔らかそうな髪を揺らす。
 外から差し込む太陽の光を受け、しおりは手のひらの中できらきらと輝いているようにも見えた。


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