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渚で本が読みたい 5話

 泡盛で潰れたイケメンとバイトをバックレた高校生を乗せたタクシーが停まったのは、とても交通の便が良いとは言えない場所にある、古めいた平屋の戸建ての前だった。
 スマホで乗車料金を払い、俺は再び酔っぱらいを引きずってタクシーを降りる。

(表札、『天沢』になってる……)

 天沢が告げた住所が誤っていて不法侵入にならないよう、警戒しながら玄関口へ向かう。

「先生、鍵開けますけど。どこ?」
「んー」

 ナマケモノのように背後から両腕を回して自分にぶら下がる彼は、既に会話に反応する体力も残っていないようだ。
 なんとか鞄の中から鍵を探し当て、家主と共に家の中に入る。
 ドアを開けた瞬間、懐かしさを感じさせる古めいた匂いが鼻をかすめた。

(ここ……本当にないちゃーの家?)

 きしきしと音を立てる廊下を歩き、寝室らしき部屋に辿り着く。
 畳が敷かれた室内の隅には、ちょんと一組の布団が畳んで置かれていて。
 若い男が使うには明らかに渋いその布団を広げると、そっと天沢を寝かせた。

(……なんか、おばあんちみてえ)

 アポ無しで踏み込んだ他人の家にそわそわしつつ、ぐるりと室内を見回す。
 広さの割に家の中は質素で、すっきりと片付けられている印象だ。
 壁際に置かれた本棚に敷き詰められた文庫本と机の上に置かれたままの生徒指導だよりの紙が、唯一彼がここに住んでいることを示しているような気がした。

(そうだ。水置いとこ)

 酔っ払いにはとりあえずチェイサーだ。コップに水を注ぐため、俺はキッチンに移動する。
 そして流しのそばに置かれたものを見て、はたと動作を止めた。

「あ……」

 天沢がこの家に住んでいることを示す、もうひとつの物。
 醤油皿ほどに小さな、そして相変わらず渋い黄土色のやちむんの小皿に。
 あの時ふたりで拾った、色鮮やかなシーグラスが置かれていた。

(……なんだよ)

 水切りかごに置かれたままになっていたコップに水道水を注ぎながら、ぎゅっと唇を噛みしめる。

(大事そうに飾っちゃって、女々しいの……)

 車も通らない、静かな住宅街。
 まるで過去に迷い込んだような空間の中で、天沢の穏やかな寝息だけが静かに時を刻んでいる。

「ほら、水置いとくから」

 水を注いだコップをことりと机の上に置き、月の光に照らされる彼の顔をじっと見つめる。
 まさかこんな日に、彼の寝顔を見ることになろうとは。
 長い睫毛に縁取られた瞳は閉じられ、少しも目を覚ます気配がない。

「……っ、」

 薄く開かれた唇に吸い寄せられるように、無意識に顔を近付けて。

 ――けれど、寸手のところで理性が踏みとどまらせる。

 それでも、せめて。
 このくらいは酔っ払い救助の褒美にさせてくれと、そっと彼の赤らんだ頬に触れた。

「……ないちゃー、教えてよ」

 鴨居に規則正しく並べられ、じっとこちらを見下ろすモノクロの人々の写真。
 ガラス戸から見える、天沢がここへ来る前から育てられているとしか思えない紫陽花の花。
 棚に位牌と共に置かれた、優しげなおばあさんの写真。
 囁きにも似た小さな声が、ぽろりと口から零れた。

「ないちゃーの秘密って、何?」 

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 キッチンでじゅうじゅうと焼ける野菜を眺めていると、突然背後から声が聞こえた。

「ねえ」
「うおっ」

 驚いて振り返れば、明らかに不機嫌な表情の天沢が立っている。

「あ、起きたんですね。おはようございます」
「おはよう……じゃなくて!」

 両方のこめかみのあたりにぴょんと寝ぐせを跳ねさせたまま、眉間に皺を寄せるその姿がなんだか可笑しい。

「……なんとなく想像は付くけど、説明してもらっていいかな。どうしてこんなことになってるのか」
「ちょっと待ってください。もうすぐ朝飯できるんで」
「こっちの話の方が重要じゃない!? いや、大方僕の責任だと思うんだけど……」
「その寝起きの格好で話するんですか? 俺、多分笑っちゃうと思いますよ」
「う……」
「とりあえず顔洗ってきてください」

 戸惑う天沢をなだめ、ひとまず洗面所へ向かわせる。

 食卓に朝食を並べ終えた頃、朝支度を済ませた天沢が私服姿で戻ってきて。向かい合わせでいただきますをしてから、ようやく昨晩の出来事を話し始めた。

「……って感じで、先生は朝までぐっすり」
「嘘でしょ……僕、店で既に潰れてたの!? 全く記憶にないんだけど……」
「そりゃあれだけ泡盛飲まされてれば。俺が連れて帰んなきゃ先生今頃あのハゲと同じ布団の中で寝てるか、国際通りのど真ん中で伸びてたかも」
「信じられない……というかハゲって誰!?」

 どうやら酒で失敗したことがよほどショックだったようだ。まぁ確かに仕事仲間の目の前で潰れるのは、割と恥ずかしいことかもしれない。未成年だからよくわかんないけど。
 天沢はがっくりと視線を落とし、減給レベルの痴態とか教職者としてあるまじきとかなんとか、ぶつぶつ呟いている。

「一応聞くけど、その……僕、豊里くんに変なことしたりしてないよね?」
「…………はい、まあ」
「え、なにその間」
「してませんよ。先生、だいぶ上機嫌でしたけど」
「うわ、これ以上聞きたくない……」

 箸を持ったまま、大げさに耳を覆って見せる天沢。
 朝食は冷凍してあった白米とありあわせの野菜で作ったちゃんぷるー、それからゆし豆腐の味噌汁。ゆし豆腐は冷蔵庫に入っていたものだ。
 お椀の中でほろほろと崩れる豆腐を眺めながら、初めて出会った時に食べたゆし豆腐そばの味を思い出したりする。

「ほんと迷惑かけてごめんね。まさかあの店で、豊里くんがアルバイトしてるなんて……」
「まぁ、それは俺も言ってなかったし」
「おまけに家まで送ってもらって、朝ごはんまで作ってもらっちゃって……本当にごめん。親御さん心配してるよね?」

 そう言ってから、「あ」と思い出したように彼は動作を止める。

「そっか。豊里くん、下宿中……」
「そう。一晩帰んないくらいで、別におじいもなんも思わないから」
「そんなことないでしょ。何かトラブルに巻き込まれてるんじゃないかって心配して――」
「連絡は昨日入れてるから平気。むしろ朝からひとりで過ごせてのびのびしてるかも」
「そう……」

 天沢の複雑な表情から、気遣われているような、過剰に心配されているような心情を推しはかる。
 子ども扱いされているような沈黙がちょっと気まずくて、無理矢理に話題を変えた。

「あの、良ければお礼に教えて欲しいんですけど」
「ん?」
「この家、昔誰か住んでたんですか? その……先生が住むには、ちょっと渋いっていうか……」
「ああ」

 不自然な気の遣い方に気付いたのか、天沢はくすくすと笑う。

「別に隠すことでもないよ。ここは僕の祖母の家。去年他界して、僕が住むことになったんだ」
「おばあの……」

 思わず、部屋の奥に置かれた写真立てに視線が向いてしまう。
 それを咎めるでもなく、天沢は「そう」と頷いた。

「優しいおばあちゃんだったんだ。僕の名付け親でもあって。小さい頃はたまにここへ遊びにきてね。海に行ったり縁側で花火したりして、楽しかったなぁ」

 懐かしそうに目を細め、彼はガラス戸の向こうに目を向ける。
 そろそろ梅雨明けの時期を迎え、外は晴れ間が見えている。庭には、青空の色をそのまま映したような紫陽花が咲き乱れていた。

「……じゃあ、おばあのことがあって、先生はこの島に来たんですね」
「うん――」

 天沢はこくりと頷きかけて、表情を翳らせる。

「そう言いたいところなんだけど。本当は、そんな綺麗な話じゃないんだ」
「え?」

 躊躇うように言った天沢は、小さく息を吸い込んで。
 そして、心のうちを吐き出すように打ち明けた。

「僕、元々国語の先生だったんだ。教職を取って大学を卒業して、都立高校で働いてた」
「え、そうなんですか」
「……でも、学校に居づらくなって辞めちゃった。ゲイであることが、同僚にバレたんだ」
「な――」

 思わぬ告白に、無意識に「何それ」と声が大きくなる。

「仕事辞めなきゃいけなくなるほどのことなんですか!? 確かにバレたら気まずいかもしんないけど――」
「そうだね、バレても堂々としてれば良かったかもね。でも僕はそんなに強くなかったから。周りの視線に耐えられなかった」
「そんな……」

 この世には色んな性的指向の人がいるって、ネットで見たことがある。
 みんな言わないだけで、同じクラスやバイト先にだって、自分と同じ状況の人がいるのかもしれない。

(……なのに)

 当時の同僚たちは、彼が自分達と『違う』だけで、天沢を追い込んだのだろうか。

「ちょっと。豊里くん、大丈夫?」

 よほど憎しみに満ちた形相をしていたのかもしれない。「そんな顔しないで」と、天沢は困ったように眉を下げた。

「僕が油断してたのが悪いんだ。都内にはゲイバーとかがたくさん集まるエリアがあって……そこに入り浸ってるのがバレちゃって」
「ゲイバー? ゲイの人だけが来んの?」
「うん。初対面のお客さん同士で、お酒飲みながら世間話したりして」
「……確かに、それはなんかチャラい」
「違うよ! 本当にただの飲食店。日頃の悩みを分かち合ったり、好きな音楽の話で盛り上がったりしてただけ。でも……同じ境遇の人と過ごす時間って、なんだか僕も安心してね。つい毎日のように通ってしまって」

 自分の知らない世界で天沢が暮らしていた日々のことを聞かされて、少しだけざわざわした気持ちになる。
 けれどその話しぶりを見るに、そこはきっと楽しい場所だったに違いない。
 そんな居場所を奪われて、彼はどんな気持ちだったのだろうか。

「僕のことがバレたのと同じタイミングで祖母も亡くなって、当時はどん底だった。でも偶然ここで教職の募集が行われることを知って。僕のことを誰も知らない場所で、やり直そうって思ったんだけど……結局はバレちゃったね。豊里くんに」

 そう言って、天沢は苦笑した。

「……先生は、俺にバレたこと後悔してる?」
「後悔?」

 その問いかけに、少しだけ考える様子を見せる天沢。
 けれど、彼はゆるゆると首を振った。

「後悔はしてないよ。だって……僕、今、すごく幸せだから」
「は?」

 きょとんとするこちらに反して「ごちそうさま」と両手を合わせる天沢。
 天沢は空っぽになった食器を重ねながら、嬉しそうに表情を緩ませた。

「僕、ここに来て本当に良かったと思ってる。自然を身近に感じる機会が多いし、時間の流れ方も穏やかで。それだけじゃない。豊里くんにも……こんな僕のことを受け入れてもらえたから」
「…………それって」
 
 それって。
 はにかむ天沢から視線を逸らせないまま、どくん、と心臓が音を立てる。

「……じゃあ、俺のこと、変な目で見てくれるってことですよね?」
「え?」

 両手をついて身を乗り出した弾みで、机の上の皿が小さく音を立てる。
 まるで引力に吸い寄せられるように顔を近付ければ、驚いて見開かれた天沢の瞳が波のように揺れた。

「これで脈ナシとか思いたくないんですけど。あのシーグラスだって、捨てずに取っておいてくれたのに」
「な……!? いつ見てたの!?」
「さぁ? あんなに大事そうに飾られたら、期待しないはずないって」
「っ……」

 まるで女子高生みたいに頬を真っ赤にさせる天沢を見て、嘘だろ、と思わずツッコミを入れたくなる。

(――何だよ)
(大人のくせに、俺以上にウブじゃん)

 既に心臓がパンクしそうなことだって、この先の展開に期待してしまうことだって、本当はこっちも一緒なのに。

(……そんな顔されたら、)

 こっちが一歩踏み出すしかなくなってしまう。
 机の上でぎゅっと固く握られた白いこぶしを解くように、俺はそっと自らの手を重ねた。

 一夜越しに再び感じる、天沢の体温。
 熱を孕む空気の中で互いの息遣いが触れ合い、わずかに潤んだ亜麻色の瞳が自らを映す。

 重ねられた手を、天沢が拒むことはなかった。

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