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渚で本が読みたい 2話

 一年生の頃に比べると、登校する日が明らかに増えた。
 毎晩遅くまでバイトをして疲れているのに、近頃は翌朝になるとなぜか登校時間に合せて目が覚めてしまう。
 わざわざ制服に着替えて大して面白くもない授業を受けに行くなんて、相変わらず面倒なことこの上なかったけれど。
  素直に高校に通っている理由と言えば――

(……あいつに会えるかもしれないから?)

 そう考えた瞬間、うげ、と自分の女々しさに胸やけのような感覚を覚える。
 だってそんなの、まるで片想いにふける女子高生みたいじゃないか。

「豊里くん」
「!」

 ちょうど頭に思い浮かべていた相手の声が背後から聞こえ、びくりと肩が揺れる。
 振り返ると、今通り過ぎたばかりの校門に穏やかな笑みを浮かべた天沢が立っていた。
 白い肌に、肘まで袖をまくった白いシャツ。いつも通りの出で立ちだけど、太陽の光に晒された天沢の姿は、より一層輝いて見えて。
 突然の遭遇に、「ども」と曖昧な挨拶しかできない。

「帰り? アルバイトは?」
「あー……今日はないです」

 どちらかが誘うでもなく、なんとなく同じ方向を歩き出す。

「僕も今日は少し早く図書室閉めちゃった。この時間はもう誰も来ないから」
「ただでさえ人少ないっすもんね、図書室」

 外の空気はじっとりと蒸し暑く、道端には赤いハイビスカスの花が咲いている。
 一般的な暦ではまだ爽やかな春に分類されるこの時期だが、この島では既に夏が近付いていることを予感させる気温だ。
 ふと隣に顔を向ければ、彼の白い首筋に流れる一筋の汗に思わず心臓が跳ねた。

「……先生、暑いんすか?」
「うん、ちょっとね。ごめん、僕結構汗かいてる? 見苦しいとこ見せちゃったかも」
「いや……」
(見苦しいどころか、エr――)

 なんて考えかけて、年相応の下心を自覚し顔をしかめる。

「朝から夏みたいな気温だし、今日は半袖でも良かったかも……」
「沖縄なんてそんなもんすよ。天気予報見てないんですか? 今日とか普通に25度超えてるし」
「ええ!? そんな気温なら、海開きしてもおかしくないじゃない」
「いや、海開きは三月からしてます。とっくに」
「嘘でしょ!?」

 信じられない、とでも言いたげに天沢は綺麗に整った眉をひそめる。内地の海開きのタイミングなんて気にしたことすらなかったけれど、そんなに驚くほどのものなのだろうか。

「そう言えば海、こっちに来てまだ一度も行ってなかったなぁ」
「へえ? まあ、大人が無意味にひとりで行く場所でもないと思いますけど」

 いくら海に囲まれた島だからって、住民全員が海に足しげく通う訳ではない。もちろん自分も。なんなら地元の海の方が綺麗だし。
 若干の皮肉を込めて言葉を返したものの、天沢は「そうなんだよね」と素直に頷いた。

「行きたいなぁとはずっと思ってるんだけど、機会がないとなかなかーー」
「じゃあ、今から行ってみます?」
「え?」
「海」
「うみ」

(…………)

 誘ってしまった。それは、本当に、何の躊躇いもなしに。
 きょとんとする天沢を前に、誤魔化すように慌ててべらべらと言葉を並べた。

「うちの高校の奴等なら放課後平気で制服のまま行きますよ。朝、海岸でランニングしてから来る奴もいるし」
「た、確かに! 別に海へ行ったからって、必ずしも水着で泳ぐ訳じゃないもんね」

 ちなみに今のはハッタリで、海で朝活する生徒の話なんてひとりも聞いたことがない。そもそもクラスの奴と世間話とかしねえし。
 けれど誘ってしまった以上、さもこれがうちなー流だと言わんばかりに涼しい顔をするしかない。

 断られたらダサすぎるだろ……なんて焦りは、心の奥に隠したまま。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 バス停を降りてしばらく歩くと、前触れもなく青い海が現れる。
 広い砂浜にぽつぽつと点在する人たちは、それぞれの時間を楽しんでいて。
 穏やかな潮騒が響く夕方の海を前にして、天沢は立ったままぼんやりと呟いた。

「本当に海だ……」
「当たり前じゃないすか。あー……来るならビーサン履き替えてくれば良かった」
「…………」
「何すか」
「綺麗だね。沖縄の海って、こんなに綺麗だったっけ」
「え? まぁ。どうぞ、自由に入ってもらって」
「うん、分かった」
「え、マジ?」

 やけに真剣な横顔で、こくりと頷く天沢。
 驚いて聞き返した瞬間、彼は高そうな革靴と靴下を脱ぎ捨てて一直線に海へ向かって駆け出した。

「おい……ちょっと、おい!」

 島に来たばかりのシティボーイが、着衣のまま海に突っ込んでいく。
 そんな危険なサマを、赤ん坊の頃から海と共に生きてきた自分がぼんやり眺めていられるはずがなくーー
 脱ぎ捨てられた靴の隣に通学鞄を放り捨て、俺も夢中で白いシャツの背中を追いかけた。

(……『ひとりで行く場所でもない』とか、偉そうに言ったけど)

 自分だって、久しぶりの海だ。
 ありったけの声を張り上げて駆けだしたくなるような広い海。水平線に沿ってどこまでも続く真っ白な砂浜。
 裸足で駆ける浜辺は、容赦なく貝やら石ころやらが足の裏に刺さって、ちょっと痛い。
 そのまま思い切り海に足を突っ込めば、冷たい感触と共に水飛沫が跳ねた。

「おい、ないちゃ――」

 彼がこれ以上、自分から離れてしまわないように。
 咄嗟に手を伸ばしたのと、彼がくるりと振り返ったタイミングが重なる。
 傾きかけた太陽を背後に、天沢の柔らかな毛先に付いた水滴がきらめいて――

「豊里くん――」

 自分の名前を呼ぶ小さな声が、潮騒と共に耳奥で柔らかく響いたかと思えば。
 こちらの声を待っていたかのように、天沢は少年のように無邪気な笑顔を浮かべた。

「引っかかった」
「え……」

 瞬間、スローモーションのように、ぐらりと視界が傾く。
 打ち寄せた波の勢いにうっかりバランスを崩した自分は、背中から思い切り水面へ倒れ込んだのだった。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

「…………」

 夕陽が沈む水平線を天沢と共に眺めながら、体育座りをした膝をぎゅっと縮こまらせる。
 偶然体操服を持ち帰っていたから助かったもののーー
 ジャージでイケメンの隣に座る男子高校生の姿は、まさしく間抜けそのものだ。

「……先生のせいですからね」

 不貞腐れながらそう言えば。
 「ごめん」と謝りつつも、天沢は笑いが堪えきれないと言った様子で口元を押さえる。

「だって、あんなに必死に追いかけてきてくれるとは思わなくて」
「素人に着衣の遊泳は危険なんすよ! 先生どうせろくに海行ったことないでしょ!?」
「うん」
「ほら!」

 とは言え、自分も同じ穴の狢だ。びしょ濡れになって投げやりになった俺は、結局心ゆくまで天沢と波打ち際ではしゃいでしまったのだ。

 騙したお詫びにと奢ってもらったジュースの缶を開け、喉の奥へ流し込む。
 甘ったるい味を感じながら水平線に目を向けていれば、ふと天沢が小さく呟いた。

「豊里くんには、またひとつ『叶えて』もらっちゃったね」
「え?」

 思わず問い返して、頭の中に先月の出来事が蘇る。
 初めて言葉を交わした日、ふたりきりで食べたゆし豆腐そば。あの時も、天沢は『望みを叶えてくれた』なんて言ってたっけ。

 視線を向ければ、隣には夕陽に照らされる天沢の横顔がある。
 困惑するこちらの心のうちを汲むように頷き、天沢は普段より少しだけ低い声で続けた。

「海、実は子供の頃ぶりでね。正直……ひとりで行く勇気がまだなくて」
「先生、沖縄の海に来たことあるんですか?」
「…………」

 少しだけ迷うように海を眺める天沢の亜麻色の髪を、海風がゆるりと揺らす。
 やがて振り返った時には、彼はいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。

「この話はまた今度ね」
「え――」
「あ、見て。これ石? 綺麗な色」

 ふと、天沢は足元に落ちていた小さな石を拾い上げる。手のひらに乗せられたそれは、鮮やかな青色をしていた。

「それ、シーグラスって言うんですよ」
「シーグラス?」
「海に流されたガラスが長い時間かけて波にもまれて傷がついて角が取れて、こんな形になるみたい」
「へぇ、物知りだね。あ、こっちにもある」

 視線を砂浜に落としたせいで、天沢のこめかみあたりの髪がするりと目元に流れる。
 少しだけ長い前髪を耳にかける動作が妙に艶っぽく見えて、慌てて目をそらした。

「豊里くん」
「…………」
「ねえ、豊里くんったら」
「なんっすか」

 渋々視線を戻すと、目の前には天沢の右手が差し出されている。彼の手のひらには、最初に見つけたものよりも一回りほど大きなシーグラスがあった。

「はい。この大きいのは豊里くんの分」
「は? こんなんどこにでも落ちてますって」
「いいの。僕は初めて見つけたんだよ」

 だから何なんだ、とツッコミを入れる前に、シーグラスを無理やり握らされてしまう。

「これがあれば、いつになっても今日海に来れたことを思い出すと思うんだ。豊里くんと一緒にね」

(……思い出したら)

 思い出したら、何なのか。
 当時自分が働いていた高校に通っていた、ごく平凡な地元の生徒と海に来たことを思い出して、彼は何を思うのだろう。
 どうせ自分なんて、彼がこれまで、そしてこれから関わっていく無数の生徒たちのひとりに過ぎない。
 卒業してしばらく経てば、じきに名前も思い出せなくなるんじゃねえの?

 ――そんな自分の皮肉めいた考えをよそに、能天気に微笑む隣の大人に少しだけ呆れてしまう。

(……大人って、ずるいよな)
 
 それだけじゃない。

(……このままじゃ、まずい)

 いつもより明らかに速く鼓動を刻む体操服の胸元を、ぎゅっと握りしめる。
 腰を下ろした砂浜から、まるで身体がふわりと空中へ浮かび上がっていくような感覚。
 自分がいつもの自分じゃないみたいに浮わつくこの気持ちの名前を、俺は確かに知っている。

 そしてそれは、忌むべき感情であることを。

(だって――)

 知らずのうちに心の中に生まれてしまったこの願望は、どうせ『叶わない』のだから。


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