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渚で本が読みたい 4話

 幼少期からたったひとりの『おにい』に抱いてきた想いが『恋』であることに気付いたのは、中学一年生の時だった。
 近所に住んでいた、自分より六つほど年上の『大樹(ひろき)おにい』。

 空手が強くて、小さい子供のあしらいも上手。
 いつも朗らかで面倒見の良い性格から、島中の人々から好かれていて。
 まだ幼かった自分にとっても、紛れもなく『おにい』は憧れの存在だった。

 ――目を閉じれば、生まれ育った島の風景が頭の中に蘇る。

 今暮らしている島よりもさらに美しい海がある、あの島での日々が。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 浜辺の砂を透かす海。
 サンダルを履いた足が濡れるのも構わず引いては寄せる波を眺めていれば、背後から自分の名前を呼ぶ声がした。

「おー、隼太、ここにいたかぁ」

 振り返り、その姿を自らの目で確認する。
 鍛え上げられた腕を大きく振りながら、大樹おにいは朗らかな表情でこちらへ近付いてきた。

 人気者のおにいが、まさか自分のために。
 そう考えただけで、鬱屈としていた気持ちが晴れて行くのを感じる。

「おにい! 今日休み?」
「ああ。それより海斗(かいと)と碧(みどり)が探してたぞ。お前とかくれんぼしたいから、庭で待ってるって」
「……いい。あいつら、俺がいなきゃ何にもできんもん。つまらんさ」

 おにいがここへ来た理由が、単に弟が呼んでいただけだったことを知り、再び落胆が心の中に広がる。

(……こんなんじゃ、長男失格だ)

 相変わらず子供っぽいと思われてしまっただろうか。

 自分よりも年上のおにいはいつだって大人びていて、決してわがままなんて言わない。
 彼が今の自分と同じくらいの年齢だった頃だって、小学生だった自分の遊び相手を嫌な顔ひとつせず引き受けてくれた。

(……なのに)

 いつまで経っても彼のように振る舞えない自分に、もやもやばかりが募る。
 けれどおにいは、そんな自分に呆れるでも、怒るでもなく。
 ビーチサンダルを履いた足で砂浜を踏みしめると、隣にすっと腰を下ろした。

「なあ。それ、シーグラスか?」
「え?」

 おにいがこちらへ手を伸ばし、夕陽の色の中でふたりの影が繋がる。
 手のひらにいくつか収まっていたシーグラスのうちのひとつを、おにいの太い指が拾い上げた。

「へー! シーグラスってオレンジ色もあるのか。いいもの拾ったなぁ」

 小さな島の、大家族の長男に産まれた自分。
 物心つく頃には双子の弟ができ、その下にさらに妹がひとり、ふたりとできて。
 周りからかけられる言葉は『あんたは豊里家の大黒柱さぁ』とか『早く兄弟を支えられるおにいにならんといかんねー』とか。

 なんとなく小さい時から、早く一人前にならなくちゃ、なんて思っていたけれど。

「……隼太、お前は好きに生きていい」

 ふと発された声に、驚いて振り返る。
 手のひらの中でシーグラスを転がしながら、おにいはなぜか優しい声で語り掛けた。

「おばさんから聞いた。中学卒業したら俺みたいに早く働きたいって、担任の先生に言ったんだって?」
「え、うん。だって俺の家、人多いし金持ちじゃないし。俺も早く漁師とか船乗りとかになって、おにいの手伝いした――」
「駄目だ、隼太」
「え?」

 早くおにいみたいに一人前の男になりたい。
 願わくば自分もおにいと同じ仕事に就いて、これから先もおにいのそばにいたい。
 そんな自分のわがままじみた願望も、優しいおにいのことだから、きっと喜んでくれるはず。そんな気持ちが心の中にあった。
 なのに真剣な表情で首を振るおにいに、きょとんと瞳を瞬かせる。
 おにいに否定されることなんて、これまで一度もなかったのに。

「それはお前のためじゃなくて家族のためだろ。早く自立しろって、周りからも言われたことあるんじゃないか?」
「で、でも! おばあだって、俺が一番年上だからって……」
「そんなの関係ないさ」
「え――」

 いつも素直なおにいらしくもない、周囲の人々と真っ向から対立するような言葉に困惑を隠せない。

「……だって、おにいだって、島の高校出たらすぐ働いて……」
「俺とお前は違うよ、隼太」
「!」

 おにいから発された言葉が、ずきんと胸の奥に深く突き刺さる。
 彼は諭すような表情で、まっすぐにこちらを見つめて言った。

「お前はどこに行っても、何してもいいさ。豊里家の長男とか一家の大黒柱とか、そんなの隼太が望んでなったわけじゃない。噂じゃお前、全国統一テストでも成績優秀者に名前が載るくらいだったそうじゃないか」
「べ、別に……ちょっと県内で上位だっただけさ」
「隼太。お前は俺と違って頭もいいし、沢山の可能性を持ってると思う。島の中だけじゃなくて、もっと外の世界を見て欲しい」
「お、にい……」

 おにいの言葉になんて返事をしたら良いのか分からず、視線を砂浜に落とす。

(……『外の世界』なんて)

 そんなの、自分にはいらない。

「……自分には」
「ん?」

 ――自分には、おにいがいれば。

 おにいがいる世界だけがあれば、それで十分なのに。

 そんなことを、本人を前に言えるはずもなく。
 おにいとふたりきりで過ごすことができたのは、その日の出来事が最後だった。

 ――そして、一年後。

 おにいは同じ島の同級生と、あっけなく結婚した。
 忘れもしない、それは中学二年生の夏休み。
 伝統衣装に身を包み、島中の人々に祝福されるおにいはこれまで見たことがないほどに幸せそうで。どんな野次も反対も近付かせぬ、神々しいまでに美しい新郎新婦の姿がそこにあった。

『隼太、お前は好きに生きていい』

 その言葉は、自分の背中に羽を付けてくれたようで。
 一方で、「お前はこの島で生きられる人間じゃない」と突き放されたようでもあって。

 ――自分の居場所はもう、ここにはないのかもしれない。

 そう思った自分は、進路希望用紙に島外の高校の名前を書いたのだった。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 夕方頃から既に夜の賑わいを見せはじめる国際通り。高校入学時から続けているバイト先は、地元の郷土料理をウリにしたよくある居酒屋だ。
 びっしりと記入された予約のリストが視界に入り、今日が金曜日であることを思い出す。

「隼太、最近よくシフト入ってんじゃん」

 声をかけて来たのは、相変わらず金髪にピアスの出で立ちがチャラい、バイト仲間の金城由良(かねしろ ゆら)。
 同学年である彼は、市内にある高校にバイト代で購入した中古のバイクで通っている。

「隼太も金必要なの? あ、まさか彼女できたとか?」
「お前と一緒にすんな」

 馴れ馴れしく肩を回してくるチャラ男を押しのける。
 他の曜日も同じだが、金曜日は予約なしの来店客も多い。
 時間帯ごとの予約が可能かどうかだけでも、今のうちに把握しておかなければ。

「なーお前、真栄田智晶と同じクラスだったよな? 近所に住んでんのに全然見なくってよー。最近どうよ、智晶のやつ」
「…………」
「智晶だよ。あのガリ勉メガネの」
「……おー、よろしくやってんぞ」
「え!? 何それ。おいっ! 俺の話聞いてんの!?」

(やべえ……)

 リストに書かれた、自分が通う高校の名前。
 その文字を見つけてしまった瞬間、思わず冷や汗が流れる。

「やばいやばい。由良やばい」
「なんだよ」
「由良、俺今日厨房に籠るからお前ホールやって」
「は!? お前の分もとか無理に決まってんだろ!」
「高校の先生らが来るみてえなんだよ。『新任教員歓迎会』って心当たりあり過ぎる」

 慌てふためくこちらとは裏腹に、金城は訳が分からないといった様子で細い眉をひそめる。

「センコーって……お前、バイトの申請ちゃんと出してるって話してたじゃん」
「いや、最近また授業サボりがちで……」
「お前ほんと不良だな。進学校のくせに」

 天沢が、ゲイであることを知ってから。
 そんな天沢に、変な言葉をかけてしまってから。
 ――そしてこれが『きっと叶わない恋』であることに気付いてから。

 何となく天沢に会うのが気まずくなり、近頃は図書室からも足が遠のいていた。
 彼に会えないならと、毎日律儀に通学するモチベーションも低下して。
 学校をサボった日はバイトやらおじいの市場の手伝いやらをして、暇をつぶすばかりだった。

 だから、まさか自分のテリトリーに彼がやって来るとは思いもしなくて――

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

「それじゃあ天沢先生と知念先生、照屋先生を歓迎して……」
「かり〜(乾杯)!」

 賑やかな店内で、ジョッキがぶつかり合う音が響く。
 久しぶりに見た天沢は、座敷席の真ん中でかりゆし姿の先生たちに囲まれていた。

(……ないちゃー、酒飲めんのか?)

 厨房で作業をしつつ、物陰からそわそわとビールのジョッキを傾ける天沢を偵察する。
 今日の主役に選ばれ、彼はいつも通り控えめながらもとても楽しそうだ。
 どんな話をしているかまではさすがに聞き取れないけれど、大方昼休みの職員室で話してそうな話題で盛り上がっているのだろう。

 いくら押しに弱そうに見えるとは言え、さすがに天沢だってれっきとした大人だ。自分が飲める量くらい分かってるだろうし、周囲のおっさん連中が勧めてきたところでやんわり断れるだろう。

(――そうだ。告白だってちゃんと断るって言ってたし)

 なんて変な例えを引き合いに出しつつ、自分に言い聞かせていたものの。

「八番席、『あかばなー』一升な」
「おう」

 オーダーを取って、キッチンへ戻ってくる金城。慣れた動作で冷蔵庫から取り出した泡盛の酒瓶を彼に手渡してから数分後、ふと気付いて動作が止まる。

(『八番』……?)

 吸い込まれるように視線を向けた先。
 そこには差し出されたコップをはにかみながら受け取る天沢の姿があった。

(え……あれ、やべェんじゃねえの?)

 既に天沢の首筋には赤みが差している。頬もほんのり紅潮していてエr……ではなくて。
 泡盛の度数が高いことくらい、居酒屋でバイトしてれば高校生にだって分かることだ。

「隼太すまん! 五番にデザートのオーダー来てんの忘れてた」
「やべえよ、ないちゃー酒飲んでるよ」
「は? ここはそういう場所だろ……」

 『本日の主役』から視線を外せず呟けば、再び厨房に顔を覗かせた金城の表情に困惑の色が浮かぶ。
 そう言えばこの島は、国内でも統計的に酒豪が多いと聞いたことがあるようなないような。
 未成年ながらに抱いた嫌な予感は、やがて見事に的中することになる。

‪𓆝 ‪𓆝 ‪𓆝

 虚空を見つめたままぼんやりとする天沢を、隣に座っていた教頭が心配そうに覗きこむ。

「天沢先生、大丈夫ですか?」
「んー……」
「天沢先生、東京から来たんですよね。なんというか……洗礼になっちゃいましたかね」
「せんせー、天沢先生。帰りますよ~」

 散々新入りに飲ませたくせに他の教師陣はぴんぴんしていて、名残惜しげにおしゃべりをしつつ身支度を済ませて立ち上がる。
 教頭に支えられながら、辛うじて意識の残る天沢はふらふらと立ち上がった。

「天沢先生、おひとり暮らしなんでしたっけ」
「みたいですね。今日もご家族がいらっしゃるような話は出てなかったですし」
「じゃあ家に電話かけても誰もいないか。警備ならまだいますよね? ちょっと学校に電話かけて住所聞いてみますよ」
(は!?)

 まるで自分が家まで送るとでも言いたげなハゲた中年男の口ぶりに、脳内で警報が鳴り響く。

(酔わせた勢いとかあり得ん! エロ教師!!)

「あー疲れた。お前先賄い食う?」
「……なあ、俺今日もう上がるわ」
「は!?」
「悪い! 今度ラーメン奢るから」
「え? お前まじで言ってんの!? 店長に叱られても知らねーぞ!?」

 金城の驚く声にも構わず、身に着けていたエプロンを脱ぎ捨てる。
 ここ最近、連日至って真面目に働いてきたんだ。自分ひとりの人員くらい、金城が馬車馬のように働けば何とかなるだろう。後で反省文でもなんでも書いてやる。
 そして着の身着のまま、俺は退店した教師一行の後を追って店を飛び出した。

「すみません!」
「えっ?」
「ないち……いや、天沢先生、俺が連れて帰るんで!」

 肩を貸していた教頭から天沢をぐいと引っ張り、ふらついた彼の身体を支える。

「ちょっと、君誰!?」
「二年一組の豊里です!」

 驚いて瞳を丸くする教頭の横で、恰幅の良い女教師が「あっ」と声を上げる。

「この子、来南(くるな)島からひとりだけ本島に進学した生徒ですよ。あの島の子達、普通はみんなで仲良く隣の島の高校に通うのに」

 彼女の何気ない言葉に、ちくりと胸が痛む。それでも今は、天沢を救出するのが先だ。

「俺、先生の家と近いんです。タクシー代は後で先生から請求しときますんで!」
(嘘だけど……)

 自分でも気持ち悪いほどの作り笑顔を浮かべ、よっこらせ、と天沢の腕を引き上げる。
 そのまま大通りを走るタクシーを捕まえると、天沢を後部座席に押し込んだ。

「先生、帰るよ! 家どこ?」
「んー? 住所……?」

 幸せそうに瞳を閉じたまま、むにゃむにゃ、と自らの住所を口にする天沢。もし隣にいるのが自分じゃなかったらと思うと、その無防備さにぞっとする。
 荒々しい運転に揺れる車内で、やがて天沢はうっすらと瞳を開いた。

「……あれ、とよさとくん?」

 全身の重みをこちらへ預けたまま、上目遣いで見上げる天沢。
 こちらの存在を認識するなり、彼の表情はたちまち輝いた。 

「とよさとくんだー!」
「は?」
「ねえねえ聞いてよ! ぼく、今日かんげいかい開いてもらっちゃって!」
「ちょっと、やめてくださいよ……」

 子犬のようにじゃれつく天沢の破壊力に耐え切れなくなり、ぐいと華奢な身体を押し返す。彼がこれまでに参加した酒の席で一体何人の人間にこの姿を見せて来たのか、考えるだけで恐ろしい。

「とよさとくんもいたらよかったのに。どうして参加しなかったの?」
「いや、あれ先生だけの歓迎会でしょ。つか飲み会に未成年がいるのおかしいし」
「そっかぁ……でもまぁいいや! とよさとくんむかえに来てくれたし」
「…………」

 こちらの腕に全身をすり寄せながら、天沢は幸せそうに呟く。

(……何、この状況)

 思わぬ形で触れ合う天沢の肌の柔らかな感触に混乱しつつ、真面目に考える方がバカだ、と言い聞かせる。
 どうせ酒が抜けたら、彼も全てを忘れていることだろう。大人なんてのは、どうせそんなものだ。


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