見出し画像

【アンチからのひとこと】 「犬はダメだけど、牛は食べていいんだよ。だって家畜だから」。を考える

こんにちは。

昔ながらの菜食ごはんで食肉の需要を減らしたい、「和ビーガンLOVER」と申します。

ビーガンというと、否定的、
もしくは好戦的な態度で挑んでくる人が多い日本…。

ここでは、そんなアンチ発言にまっこうから反論してやろう!ではなく、「脱搾取=思いやり」を掲げるビーガンらしく、さまざまな意見を受け入れ、さらにそれに対して私はどう思うのか?

学びや考えを深めるきっかけとして利用してやろう!(笑)という企画です。

本日のお相手は、かわいらしいお子様。小学2年生、生意気盛りの姪っ子ちゃんです。しかし、ちびっこと侮るなかれ! 3人兄弟の末っ子、そしてじぃじとばぁば、さらに同じ敷地内には従兄弟たち家族も同居するという今どきめずらしい大家族の彼女。常日頃からさまざまな世代と会話をしているためか、語彙も達者なら、考え方も大人なんです。

さて、皆でお鍋をした日のこと。食後のリラックスタイムにリビングでTVショー『クレイジージャーニー」(TBS系)』をみていました。その日のテーマは、アマゾンの料理人。ちょうど南米アンデス地方の現住民が、日本から訪れた彼らに料理を振る舞っているところでした。客人をもてなすための神聖な食材だというそれは、なんとモルモット! 家畜として飼育しているという生きたモルモットは、殺され、皮を剥がれ…。

そのとき、「モモンを食べるなんて信じられない! アヤのペットなのにー!」
という姪っ子ちゃんの悲鳴が…。そうなんです、姪っ子アヤちゃんには溺愛しているペット、モルモットのモモンちゃんがいたのです。

私はちょっと意地悪をして、「アヤちゃんも牛は食べるじゃん。なのにモルモットは食べちゃだめなの?」と聞いてみたところ、出ました! 本日のお題、

「モルモットや犬はペットだからダメだけど、牛は食べていいんだよ。だって家畜だもん!」という答えが…。

小学2年生にしてすぐにこのセリフが出てくるなんて、おばさんは驚愕しましたよ。さすが、姪っ子ちゃん!

それでは早速、 「犬はダメだけど、牛は食べていいんだよ。だって家畜だから」。について、考えていきましょう。

実はこの手のやりとり、ビーガンや動物福祉界隈ではよくある話しだったります。

有名なところでは、2018年平昌オリンピックのこと。ある選手の「韓国は犬を大切にしてください」という発言が物議を醸しました。ご存知のように、韓国や中国の一部地域では犬肉を食べる文化があります。平昌の競技会場近くには犬農場もあったといいますから、思わず出た言葉なのでしょう。

しかし当然のことながら、この発言はSNSを中心に燃え上がります。

名指しで批判された韓国人はもちろん、さまざまな人が賛否両論のバトルを繰り広げました。

選手を擁護する声の一例を紹介すると、「話すことができない犬たちのために発言してくれて、心の底からありがとうと言いたい。たくさんの人があなたを応援しています」

逆に反対派は、「レイシスト(人種差別主義的)で、異文化に無知!」

「偏見と誤解に基づいた行動。フランスに行って、フランス人にフォアグラを食べるな、とは言わないだろう」などなど…。

さて、あなたはこれらの意見についてどう思いますか? 賛成派ですか? それとも反対派の意見に同意しますか?

私はというと、選手の意見に賛成です。

つまり、現代において犬肉は食べるべきではない、という立場です。

確かに、これは我が国の文化だから、という考え方もあるでしょう。ですが、文化というのは永遠に変わらないものではありません。時代の流れによって変化する、社会通念や倫理観によって変わるものだと思うのです。

そうやって変わっていった文化や風習はたくさんあります。

例えば、日本にはびこる女人禁制という考え方。女性は修行の妨げになる、出産や月経などの生理現象は血の穢れである、という理由から、昔は女性が立ち入ってはいけない場所がありました。

山ガールなんて言葉ができるほど女性にも人気の登山ですが、昔は女性が入れない山がいくつも存在していたなんて信じられますか? 今や世界中から登山客が訪れる富士山も、女性が登れるのは2合目まで。日本百名山として有名な、立山、白山、比叡山、高野山なども、1872(明治5)年まで女人禁制となっていて、女性は登ることが出来なかったそうです。(ちなみに、奈良県の大峯山は今でも女人禁制を貫いています。世界遺産なのに女性は立ち入れないなんて!!!!)

他にも女人禁制といえば、悪名高き相撲界がありますね。ですがこちらも、「女性を土俵に上げないという伝統について再検討する」、という考えが発表がされるなど、変化しつつあります。

伝統も確かに大切ですが、ジェンダー平等、という現代の倫理観にそぐわないものには、時代にあった変化が必要だと思うのです。何でもかんでも、伝統は守るべきという考えは疑問です。それは、伝統という誇りに酔っているだけだと思います。その伝統の影に不平等を被っている人はいないか、差別されている人はいないか、常に考えて時代に即した変化を受け入れてこそ、伝統文化として続いていくのではないでしょうか。

話しは戻りますが、そういった理由から、アニマルウェルフェア(動物福祉)という考えが広まる現代において、ペットとして人気の犬肉は食べるべきではない、そう思うのです。

それでは、牛はどうでしょうか? 牛は家畜だから食べてもよいのでしょうか?

そもそも、犬はペット、牛は家畜だなんて誰が決めたのでしょうか?  彼らは自らペットです、家畜です、なんて名乗ったりはしていません。すべて、私たち人間が都合のよいように決めただけです。事実、くだんのモルモットも、姪っ子ちゃんの家ではペットでしたが、南米アンデス地方では家畜として飼われていました。

こんな曖昧な線引きで、人間が勝手に食べていい、食べじゃダメとか。犬はペット、牛は家畜と決めつけるのは、とても傲慢だと思いませんか? 

もしかして、人間は万物の霊長である、だから何をしてもいい、動物を支配する権利がある、だなんて思っていませんか?

実はこれ、れっきとした差別にあたります。ヒトのみを特権づけ他の生物をないがしろにする差別を、種差別(スピーシーシズム)というそうです。

人間を差別するわけじゃなから、別にいいいじゃん。
そう思うのは大きな間違いです。

なぜなら、このような種差別をする人の意識には、差別意識が根付いているからです。人を特性や能力で見下し、差別する意識が…。それは動物だけでなく人間にも向けられ、人種差別、性差別など、あらゆる差別につながっているというのです。

この事実を知ったのは、『ビーガンという生き方/緑風出版』という書籍でした。気になる方はぜひ読んでみてくださいね。ちょっと翻訳が難解なのが玉にキズですが…(苦笑)

種差別という動物への偏見が、人種差別や男女差別につながるという事実。確かにいわれてみれば思い当たる節もあり、衝撃をうけました。

以上のことから、牛は家畜だから食べてもよいのか?というお題については、種差別をしていることになるので、私は反対です。

ただし、あくまで他にも食の選択肢がある場合に限ります。動物以外に、穀物や野菜、豆など食べ物が豊富にある土地では、動物の権利を尊重し、食べるべきではないと思います。ただし、前述の南米アンデス地方のように、高地で他に食べるものに乏しいというのであれば仕方ない、というのが私の考えです。

皆さんはどう思われましたか?  私もまだ学びの途中なので、ここから考えが変わることもあるかと思います。いろんな人と話し、書物を読むなかで理想だけではなく実現可能なビーガン(脱搾取)=思いやり、な生き方をしていけたらと思っております。

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?