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浅学的芸術論

芸術。多岐に渡り、それは良くも悪くも、時代や風俗、思想の影響を受けながら、紆余曲折、曲折不沈、歪に、けれども精到にその外郭を変化させ続けている。しかし、芸術には、決して他者の干渉を許さぬ、否、何者にも触れることの出来ぬ、神域の、処女性の、絶対不可侵の本質が預けられているのです。それは、批評への無知。物質主義の社会の中で生きる事を強いられている我々には決して芸術を根本的に侮辱することも、揶揄することも、ましてや賛することさえ出来ないのです。とどのつまり、芸術の持つ尊厳を語り、敬い、尊むことは可能なのでありますが、組み伏せ、犯すことは、どう足掻こうと、叶うことはない夢想なのです。作者が芸術を凌ぐ。それは決して起こり得ぬ絵空事。常時、芸術家は芸術の呪縛の元で生き、書き、描かされ、創り、造らされ、創造主の威厳という甘美な立場を経験することなく、死んでゆくのです。つくられた、という立場。あくまでも副次的な、人間の副産物、身から出た錆、垢。それでも我々につけられた足枷の鎖を持つのは常に芸術。偶像。作品という幻影。質の問題ではないのです。喩えば、モネの睡蓮は、幼稚園児の落書きに勝ることもなければ劣ることもない。どちらも芸術という領域に足を踏み入れた瞬間、そこへ虚しい優劣が発生することは決してないのです。評価。批評。それらの概念が根本的に間違っているのです。芸術の世界ではまるでお門違い。相対的に接するものではなく、只、そこにある。ぽつんと佇む、なにか。若木。そう、若木でよい、誰に植えられたわけでもなく、春の陽光の元、空気を縫うように流れたぬるい風によって運ばれた、名もまだ知られぬ若木の種、幸運にも柔らかな土の上に落ち、梅雨を過ぎて、よく栄養を蓄え、漸く土から顔を出し始めた若木、芸術とはそれと何等変わらぬ物なのです、想ってはいけない。野暮野暮。我々にはそう、高嶺の花なのではないでしょうか。そっと、遠くから微笑みかける程が丁度よい。著者の名声や目眩む程の金がその価値を決めようとしてくるでしょう。でも下賤な概念の言葉はどうか聞かないで頂きたい。どうか、切実に。
芸術、彼女等は、強かで美しく、か弱いのです。救いようのない程に不憫なもので、この薄汚れた、森羅万象さえ金に使役された地獄の世で、人々の主観から生まれた、糞ほどにも効力果たさない"評価"たるものを受け、またそこには慈悲や気遣いなどは凡そなく、直接的な好意や批判を逃げ場のない狭い箱の隅でひたすらに受け止めているのです。彼女等は気丈に振る舞います。そしてそこに悲しい虚栄心などは全くございません。でも何故か、あぁ、歯痒い。それでも悲しんでいるのではないでしょうか。人間の評価という次元とは別の何処かに居るとは分かってはいるのですが、どうして思慮深くなってしまうのです。私はこんなにも無力なものかと落胆してしまうのです。芸術家と作品はまるで恋仲のようではないかしら。私は芸術家ではありません故、心中察することなど到底出来ませんが、それは優美かつ残酷な恋。画家も作家も彫刻家も書道家もこの世の全ての芸術家は、恋をする為にものをつくるのではないのでしょうか。決して実らぬ悲恋。残酷で美しい。私にも、どうか恋を。恐怖すら覚える恋をどうか。

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