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日常

ある冬の日の暮。私は夕食の買い物を手伝いに、隣町、といっても最寄駅からたった二駅離れたばかりの所にある街なのであるが、そこへ母と共に訪れた。駅前には幾つもの商店が並んでいる。モクモクと油の籠った重い煙をあげている串焼き屋やら、古風な木造りの店構えをした豆腐屋やら、凡そ4、5畳程しかないと思われる、小さい婦人服店やら、初見では入り辛いようなやけに暗い酒屋やら、全く纏まりのないごちゃごちゃした商店街である。私は、それらの商店や、往来の人々をチラチラと観察しながら、母と並んでその商店街を歩いていた。取り留めもない平凡な日常であった。ただその日のいつもと異なる点は、一度も通ったことのない道を歩いて買い物をした、それだけであった。それは私の何気ない思い付きであった。母に提案し、母も別段断る理由もない、といった様子で、承諾し、私達二人は、街灯やスーパーのガラスドアから漏れ、キリキリ差し込む様な光がうるさい商店街をふと右に逸れて、暗い道路を歩き始めた。私は何だか唐突に、吹き抜ける風が一層冷たくなった様な気がして、プラプラと持て余していた手をズボンのポケットへと収めた。こうも暗い場所だと、寒さもひどく敏感に感じてしまうのか。などと思ったりしていた。遠くに背の高い痩せた街灯が、まるで寒さに縮こまる様にして立っている。遠くにとはいっても、50歩ほど進めば、すぐに手が届くほどに近づくのではあろうが、私の下半身全ての関節は、吹雪でも間近にくらったが如くカチコチに固まってしまっており、その街灯までの道のりが気が遠くなる程に見えたのだった。その時私は、今自身が歩いているこの通りが、かなり長い一本道であることに気がついた。先を眺めると、遠くにぼやと、t字路の突き当たりが見える。あと少しでもこの道が長ければ、その突き当たりが点になってしまいそうな程に長いのだ。加えてその通りには、なんとも言えぬ風情を感じた。少しばかり古臭いのである。幼年、祖母のアルバムの中で見た、大正か昭和の大通りを思わせる謂わば古風で、味のある雰囲気を、その通り全体が微かに発しているのである。その所為か、私はなんだか神隠しにあったか、又は、狐や狸に化かされたような気持ちになって、自身の心が少し揺れ動くのを感じた。たった今、後ろを振り向けば、もう母の姿どころか、通ってきた商店街を照らす光すらも消えて、どこか私の知らぬ土地の怪異の住む街の通りに迷い込んでしまうのではないか。そんな少し恐怖の混じり込むような空想が浮かびあがり、私は多少恐怖に狼狽えながらも、好奇心からそんな想像を育て、膨らませていた。現実の中にある非現実性。私はこれに目がないのである。夜の神社へ、十円持ってふらふら散歩へ行くこともしばしば、怪奇な夢を求めて、惰眠を貪ることもひひとしてある。現実はつまらない。現実は、私にはなんだかすべてわかりきっているような物事の羅列のように思われてしまってならない。退屈という観念が形を持ったなら、必ず我々が日々生きる世界の形に、人が人の子を産む様に、鶏が必ず楕円の卵を産む様に、裏切る事はなく、奇想天外な変化もまるでみせず、淡々とその形貌を呈するのではなかろうか。Tシャツを見れば、あぁこの襟ぐりというとこへ首を通して、次に大きい穴二つに両手を通すのだろう。と予想がついてしまうように、決して予想外の動きをみせず、不吉な事象はいつも予想通りに我々の願いを裏切り、絶望の匂いが充満する道へと引き摺り込んで、幸福も又、予想がつくような幸福ばかりで、たとい裏切られても、あぁ確かにそうか。と全ては紐解けてしまうようなもので、それは果たして幸福と呼べるのかと、疑問に思う日々。私にとって現実とは、平々凡々な形で、素面では吐き気を催す程に下らない、つまらない、愛想笑いもする気も起こらないような、高い授業料を払って、『さて、林檎というものは往々にして赤いものです。』みたいなことを言う教授の講義を1週間続けて聞かされているような、勿体無さやら、倦怠が立ち込める、無価値なものなのだ。
あぁ夢、夢の中こそ私の現実なのだ。このまま、異界に引き摺られてもなんの後悔の念も湧いてはこないだろう。そんなことを考えている頃

『ちょっと』

母の声で後ろから呼ばれた。振り返ると、酒場の前で手招きをする母が居り、母の後ろには当然、遠くに見える商店街の明かりがピシャピシャとコップの水をかけたように、喧々と光り、往来の人はその光を浴びて、皆その半身を墨で塗られたように真っ黒にし、まるで影の幽霊のようにその中を歩いていた。光が人々の影を半分食い尽くしている。

『瓶ビールでも買って帰る?重いかしら。でも日本酒やらも置いてあるみたいよ。』

母が続け様にそう言った。

『ええね。こんな酒場があったんじゃね。入ってみようや』

私は母がそこに居る事に安堵しながらも、そのくらい通りをとぼとぼ歩く人影や、どう考えても現実に存在するであろう酒場を見て、白昼夢からひょいと摘み出されたような気持ちになり、更には振り返った私の後ろを、5、6人の自転車に乗った小学生達がわいわいと耳鳴りがする程の高い声で話し合いながら通り抜けてゆく様には、徹底的に現実を全身体に抑えつけられて、ついには圧死してしまう様な絶望を感じ、先程までのあの掴みかけた非現実感はスルスルと手の中の鰻のように何処かへ逃げていった。不吉な裏切り。十分理解してはいるのだが、些かの希望が故か、とても悲しい。期待はやはりよすべきか。

その酒場は、確実に現実に存在するものではあったが、私の空想の世界の末席に招待しても良いと思えるくらいに、落ち着いた空気を含んでおり、現実の中で、その空気に自身の肩を預けることにあまり躊躇は無かった。

『クラフトビールがあるね。蜜柑の酒もあるよ。』

私はそう言い、それらのお酒が置いてある所へ指を刺した。ガラス戸の奥に、大きな瓶が数本並んで有り、その中でコッテリした濃いオレンジ色が沈殿している。

『これは蜜柑ジュースでしょ。お酒じゃないよ。』

確かにお酒ではなかった。見ると値札には、2600円。また裏切られた、これは予想だにしない裏切りだった。お酒でもなければただの、殆ど3千円の蜜柑ジュース。やけに紛らわしい瓶に入っていた。祖母の作る蜜柑ジュースの方が幾分美味しそうに見える上に、その方が安い。というより無料だ。
続けて隣のクラフトビールが置かれた棚に目をやっても、これは大半が売り切れてしまった後のようで、英字が書かれたラベルが貼ってある小さい外国のビールが二、三本有ったが、産地やら味やらを調べるのも億劫で、私はさっとそこを通り過ぎた。全く買うものが無かった。私たちのお目当ての瓶ビールは姿形もなく、他の、日本酒が接着されたように隙間なく並べられた棚の方に行って、色々拝見してはみるのだが、これといって目ぼしいものは何もないのである。店には、店主は一人の様で、ぼんやりと店内を眺めている様子であった。ただ何も買わずに出て行くのは癪だ、母もそれについては少し躊躇っている様子であった。興味ありげな体で"質頓裏(しっとり)"というふざけたラベルの貼られた日本酒を二人して見ている時に、その店に来客が有った。バイクのヘルメットを被った若い男性で、どうやら店主とも顔馴染みなのか、世間話に花を咲かしている様子だった。思いがけぬ幸運。私と母は、そそくさと裏口のドアの方から店を出た。母は店を出てからも、自身が何も買わず、空の手で店から逃げ出してきたことに気兼ねしている様子だったが、私の方は、店の店主の顔を一度も見なかった事もあり、あまり引け目を感じずにその店からの脱出を成功させたのだった。賑わいのなさそうなあの店に突然の来客とは、これまた裏切られた、好機という名の裏切りだった。今日は変な裏切りがよく起こるな。そんな事を思いながら、私は母と商店街の通りへ少し遠回りをして戻り、馴染みのスーパーへ入って行った。店先で、薄黄色の珍しい色をしたトマトが特売価格で売られていたので、先ずそれを買い物かごへ入れから、本格的に買い物が始まった。私は、次々と詰められてゆく食材の入ったカゴを持ちながら、店内をのろのろ歩く主婦達を最小限の所作で躱し、想像の弓や、火縄銃の弾を避け、茫然と母の姿を追っていった。『正に合戦だな、どの婦人が、刺股で仕掛けて来るかわかったものじゃない。スーパーはいつ来ても殷賑としている。』そんな滑稽な諧謔を頭の中でくるくると弄していると、母の足が止まった。赤と白が混ざった様々な形をした物体が、ラップに包まれて、陳列されている。肉。豚肉。牛肉。ペラペラの薄いものから、分厚いものまで、甲から乙まで選り取りみどりだ。たが、私は此処暫く、肉というものに魅了されなくなってしまって、脂の多い霜降り肉なんかが目に入ると、それだけでも胃がムカムカしてまうのだった。

『あれは、よう食べんわ。凶暴じゃね。』
(お肉!お肉!お肉が食べたい♪)

母がそう言い指差す先には、殆ど油の塊と言っても過言ではないぐらいの霜降りの大きな一枚肉が陳列されており、私は思わずうわっと顔を背けた。

『もう最近は食べるなら赤身がいい。あんなん肉汁に殺されるわ。』(今日はお肉にしようよ♪お肉お肉お肉を食べると♪)

肉が陳列された棚の上に、小型のラジオが置かれており、延々と、キーキーとした子供の声で歌われた珍妙な歌が流れていた。短い無内容の詩が延々と、剽軽なメロディーと共に流れている。私が拷問官になる機会が万に一度でもあるならば、唯一この音楽を何週間にも渡って流し続ける拷問を試みよう。そんな考えが過るほどに鬱憤の溜まる音楽であった。

『これ毎日聴いとったら、頭おかしくなるわ』
(お肉♪お肉♪お肉♪お肉♪お肉食べよーう♪)

私がそう言うと、母は微笑して、鮮魚コーナーの方へ歩いて行った。私は湧き上がる苛立ちを抑えながら、母のほうへついて行った。突然、子積まれた砂肝に『私は如何か?』と言われた気がしたので、ひょいと一つ20%引きのものを取って、鮮度を確かめるべく見てみたのだが、膿のような黄色いのが所々についていたので、『ごめんなさい。』と心中で唱え、彼女とは別れた。そこからの買い物の内容をここに記すのは、別の機会にしておこう。母が生きた鮑を何度も突くので、『やめんさい。怒られるけん。』と言って二人して笑ったり、レジ担当の店員があまりにも無愛想で、つっけんどんにお釣りを投げるように渡されたのを苦笑したり、買った豚肉を袋に詰め忘れて、そのままにおさらばし、後日取りに行く羽目になったり、とそんな話を全てここに書いていては、堂々巡りの買い物戦記になってしまうので、ここらでお仕舞いにしておこう。

本来の目的であった買い物を済ませ、私と母は、最寄り駅へ向かうべく、駅へと歩いた。道中に、黒いコートに、半ズボンを履いて、えらく厳かな顔をして歩く青年や、駅前に、ぬいぐるみを抱き抱えた初老かと思われる女性と、その女性と難しそうな顔をして話す背の高い男性を、目にして、何やら近所の街が、いつの間にやら変人の巣窟になってきている気がしてならず、私はそれを隠れて指摘し、母とケラケラと笑った。私は、なんだか久しく私の元へ訪れなかった高揚感なるものを感じ、実に安楽な気持ちであった。加えて駅構内にも、

『一体どうなっているんだ!どうなっているんだ!』

と喚き散らすスーツを着たサラリーマンのような男性を見かけ、それには流石の私も、この街に住まう人々の急激な情緒の変貌に、不安を覚えた。けれども、その男性がなんだか、人知れず悪の組織と闘う正義の中年サラリーマンのように見えてきてならず、いやはやヒーローが所属する組織は我々の知らぬ所に、然れどもちゃんと存在しているのではないかという無稽の考えを及ばせている間に、ふいに可笑しく思えて、これまた母と二人してケラケラ笑ってしまった。

最寄駅に着き、私は母の持っていた買い物袋を全て受け持ち、一人で先に家へ帰る事にした。どうやら母には、買い忘れたものがあったらしいのだ。重い荷物に、人の気すら知らず吹き抜ける木枯らし、自然に私の歩幅も大きく、歩く速度も上がり、いそいそと家路に向かった。あたりはもう暗かった。歩いていると、澱んだ光を発する銀色が道路の白線の内側に、ぽつんと落ちている事に気がついた。どうやら他の人は気がついていないようだった。皆その銀色の光の上を、ぼんやりと跨越えて歩いてゆく。私には刹那ににその滲んだような銀色の光を放つ正体がなんであるかを理解した。寸分の狂いもない円。天上天下、その価値を知る者なら、誰もが所有の権利を得るべく、恥も外聞も捨てしまうあの円。争いを生むきっかけ。丸い、銀色。私の脳内に、『しめた、拾ってやろう』という悪魔の囁きが轟き、天使は半分寝ぼけて役に立たない様子だったので、悪魔がそう言うのならば、と拾う事にした。『しかし、急に立ち止まって、拾っては不自然だ。自然な所作で、貴婦人がそうする様に、そう、例えば、買い物袋の持ち手が切れたという様子を装いなさい。それがいい。』これまた悪魔の小賢しい妙案が、浮かんできた為、私は言われたままにそうして、その銀色の前に、ゆっくりと立ち止まり、『あらこの買い物袋、どうしたものか。』と言う様な素振りで、ポケットの中の鍵をの有無を意味無く確認したり、探すものなど無いのにも関わらず、空のポケットをわざと探ってみたりなどして、辺りを憚る体裁で、往来の人の数が減って来たのをいい事に、さっ、とその銀色を拾い上げた。人差し指をその小さな円の上辺に添えて、親指は底辺の辺りを支えるようにして、つまみ、夜空に掲げて、片目を閉じてから、観察した。平成22年と彫られてある。なんだか見窄らしい銀だった。あまりそそられるものがない。道端に人知れず随分長い間落ちていたようであったから、汚いのは当たり前なのであるが、たとえば自分の財布の中にある銀色と拾ったこの野生の銀色を比べてみたとしても、拾った銀色の方が価値が低い、と未練なく断定してしまいそうになるほどに、箔がない銀色だった。ただこれも、当時の私にとっては、予想を裏切る出来事に間違いはなかった。銀色の丸いのを拾った。下を向いて歩いていたらあの銀色を拾った。丸い銀色を右ポケットにそっと入れて、私はまた帰路を歩いた。今度は上を向いて歩いた。

家に帰り、換気扇の下でタバコを吸いながら、拾った銀色を蛍光灯の光に当てたりしてくるくると回しながら、その半影を見たりしていた。遅れて帰ってきた母が、買い物袋を手に下げて、台所へどろどろと疲れた様子で入ってきたので、私は、何の気なしにその銀色を母に渡した。あまり所有欲を湧かせない銀色だったのだ。

私と母は、夕食の前にあの黄色いトマトを食べてみることにした。黄色いトマト。フルーツトマトの様な酸味と甘さが渾然一体となった、至高の味をしているに違いない。そう思いながら、口へ運んだ。奇妙な味だった、酸味をあまり感じない、噛めば噛むほどに、味わった事のない苦味が口の中に広がり、微かな甘味を、その中に感じた、後味は最早無かった。簡潔に述べれば、不味かった。その日、日本一不味いトマトを私は食した。

完敗と言っても足りないほどの裏切りを私は受けた。だがそんな事も私は許せたのだ。

なぜなら私は、あれを拾ったのだから。

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