文化と観光とデザインと。(前)
本業に近いところのお話しを書いておこうかと。
そもそも「文化」ってなんなのさ?
まずは辞書にどのように書いてあるのか。コトバンクに「日本大百科全書(ニッポニカ)「文化」の解説」が掲載されていたので、一部抜粋引用。
動物の行動はもっぱら遺伝と本能によって支えられているが、人間は、遺伝と本能に加えて、経験と模倣、および言語を通して、集団の一員としての思考、感情、行動を仲間から学習(習得)し、獲得したものを同世代、後世代の人々に伝達する。こうして集団の一員として学習、伝達されるものが、一つのセットとして統合性をもつ総体を文化と定義できる。たとえば国家、民族、部族、地域、宗教、言語などのレベルで、アメリカ文化、漢族文化、エスキモー文化、オセアニア文化、イスラム文化、ラテン文化などがあげられる。これらの一部分を構成して相対的な独自性をもつものをサブカルチャー(下位文化)という。たとえば、個別文化における農民文化と商人文化、東日本文化と西日本文化、貴族文化と庶民文化などが下位文化の例としてあげられる。
[鈴木二郎](コトバンク「文化」より)
コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「文化」の解説」はもっと深くたくさんのことが書かれているので、できればそちらを一読してもらうのが良いと思う。
ともあれ最初に大事なんは、“獲得したものを同世代、後世代の人々に伝達する。”である。伝達だよ。伝言じゃないんだよ。
観光の謳い文句で使われる「日本文化」ってなんなんさ?
文化が伝達されることで、今を生きる僕らも日本語を話すことができるし、コミュニケーションを取ることができる。でもこれって日本に限った話じゃない。アメリカなら大航海時代まで遡れば、いわゆる西洋からの文化が伝達されて、今現在英語を話している。その原点でもあるイギリスだって同じだし、アジアの国々も変わらない。
その中で日本文化は日本語を話すだけが「違い」なのか?
おそらく多くの人はそんなことを考えることもなく、またはっきりした理由はわからないけれども、妙な特殊性があるもんだと感じているのでは?
何枕獏さんの影響はそれなりにでかいと思う。
このあたり、リンク先のコトバンクを読んでいると日本文化についての項目が掲載されているので、少し考え方が変わるかも。
日本文化論
はたして特殊であるかどうかさえ危ぶまれる。かりに特殊性のみを追求するとしても、その方法論には多くの疑問が提出されている。日本文化論のキーワードとしてあげられるのは、タテ社会、甘え、コンセンサスないし調和、集団志向などであるが、どの概念も不正確であって、現象を描写する叙述概念として使われていると同時に、異文化と比較するための変数としての分析概念としても使用されている。また、適切なサンプル抽出の手続を経ないで、恣意的・断片的な実例や体験だけから一般化が試みられている。さらに、「西洋」や「欧米」を十把ひとからげにしたステレオタイプ的なイメージに基づいて、日本の特殊性が説かれている。また、歴史的に考察しないで、不変の「日本的なもの」があるかのように主張されてもいる。こうした根本的な欠陥をもつ日本文化論、ひいては日本人論、日本社会論が、しばしば政界・財界のイデオロギーとしても国内で喧伝(けんでん)されるばかりでなく、国際社会にも輸出されている。これらの批判を踏まえた新しい日本文化論が、主として外国人の日本研究者を中心として展開され始めている。
[鈴木二郎](コトバンク「文化」より)
ここ読んで思ったこととして、売りやすそうな(都合の良い)部分を抽出し「日本文化」という商標をつけ、商品化しているのが現状やなぁ。
ああ、なんかこれ、ブランディングとか言うてるなぁ。
上記本「博物館と文化財の危機」の中心となっているのは「観光立国日本」戦略中の学芸員に対する風当たりの強さに対する反論と言っても良い内容。
どうでもいいけど、人寄せパンダって言葉はもう通用しないよなぁ…。
パンダ来てもそこまで人は集まらないやろう。
同時に強制リセットされたインバウンドが無くならなければ、未来に期待できる文化財保護・活用へ踏み出せなかったかもしれない。いやいや、今でもまだ踏み出してはいないのだけど。まだちょっとは可能性がある…はず。
「商い」だけで考えれば「資源」はいずれゼロになる。
当たり前なんだけど、地球規模で足りなくなったら輸入しちゃっている日本に住んでりゃ、こんなこと意識できない。無理だって。石油がなくなるとか言われても、ガソリンはまだあるし、火力発電も動いてる。
つまり日常生活の無思考ルーチンには変化がない。
身の回りの不便を感じなければ、特に深く考えること無く生きていけるのが今の日本社会。その中で資源が無くなることの意味を知るのは無理かも。
でも「資源」なんで何もしなければ減る一方なんすよ。
だからなにかすれば良いわけで。
資源が無くなる意味を知るのが無理でも、資源価格が変動することを体感できる世の中。
いや〜、ガソリン価格上がったよね。100均も100円以上になったしね。
資源価格が変動するのをなんとかしようっていう考え方には、なぜか実感が伴うんです。まぁあたりまえか。
では文化財を資源化したときの資源価値ってなんぞ?
歴史? 美しさ? 古さ? 維持にかかってる金額?
それらって、つまるところ「情報」やん。
つまり、情報をなにかしないと始まらない。
難しいことを考えずに「興味」を持ってもらうことが最初
ジャマイカ? 残すだ、壊すだ議論に入る場合、興味が無けりゃどっちでも良いわー。巻き込まれるなんてないわー。面倒だわー。
「喝っ❗ そんな考え方はけしからんっ❗」
と言う人少なくなりましたねぇ。だって、無関心に何言ったって響かないっすからね。そらそーだ。ホジホジ(´σ_` ) ポイ( ´_ゝ`)σ ⌒゜
そんなことを思っていた時期が私にもありました。
いやさ、その結果が今なわけで、何が起こっちゃったかって言うと、日光東照宮の復元事件が起こっちゃったわけですよ。奥さん。
こりゃもう某掲示板でネタにされないわけがなく…。
なんでこんな事が起こっちゃったのか? って、復元に関してみんな興味がないから。現状を知らないから。
えっ? そんなに悪くないじゃん⁉ って思っちゃう人もいるでしょ?
元に某大手掲示板でもそういう言葉が散見するし。
それは「何が問題なのか把握できていないから」なんす。
これ、物見遊山の観光視点だけで見たら何が問題なのか? ってなるんだけど、復元ってどの時代のどの表現に戻すのか? って議論が必要で、その大きな理由は後世の人に考え方の原点を残すためでもあるんですよね。
ほら、文化って考え方でもあるから、“獲得したものを同世代、後世代の人々に伝達する。”って最初のほうに書いた。
伝言と違って、間違っちゃまずい。
変化していくことと間違うことは大きく違う。
そのために、原点はどこかを議論して、さらに復元をしようとしている時代の情報と考え方に沿って、過去の推論も出来得る限り記録しつつ、復元していく。
これだけですげぇ胸熱なドラマが展開するのだけど、今の所あんまりスポット当たらいんよね。この世界。
そこでデザインの登場⁉
ではなくてね。
某社販促系のお仕事を結構長い間やってきた身として、ちょっと感じることがあって。この記事を書いている年から遡ることおよそ7年。
デザイン思考とかデザイン経営とか、やたら「デザイン」という言葉が浮き彫りにされたことがあって、デザイン業界にとって、
俺らの時代キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
と浮足立っていたのを覚えてます。今でもちょっとその傾向があるけど。
そう、デザインに携わっている人たちは、浮かれ過ぎちゃったんですよ。
( 0w0)ノ ウェーイ
その流れは現在UXデザインっていうものに引き継がれちゃってて、浮足立ってた本人たちではなく、また別の領域へ動いてしまってるのが現状。
過度な期待しちゃ駄目ぞ。
デザインにはまだまだやれることがある。と当時業界内では言われてましたが、今も同じじゃないかなぁ。
論理的に物事を整理する考え方にプラスして、また別の視点から何かを融合させる考え方。
これがデザイン思考とかデザイン経営の基本的なことと考えちゃっててそんなに外れてない。(と思ふ)
じゃあこれ、やり方を覚えりゃ誰でもできるのか? っていえば、できるんすよ。実際。ただ、それを形に持っていけないだけで。だから本とかいっぱい出たんだけどね。
デザイナーに頼めば、自分らが考えもしなかったような提案が来るっ! とか期待していた時期もありましたね。
結果、そうんなに大した提案も来ず、がっかり度が大きかったために、次はアーティストだっ! とか勝手な注目をしちゃって現在に繋がり・・・
さらに、にわかデザイン思考が広まっちゃって、なんか今までと違うっぽいことができたから、成果があった…みたいな風潮が様々なところに広まっちゃった。
結果的に混乱してたこともあって、結局次を求めてしまったわけで。
なんか、どんどんミクロな問題に…。
なんか長くなっちゃった。
わかってたんだけどね。ポイント絞って書いてないから。
ただ持っていきたい方向としては、観光領域と文化領域はもっとお互いを知るべき。
デザインの話が絡んでくるのは、観光領域側(経営側と言っても良い)で間違ってる「オレオレデザイン思考」を振りかざしてくることと、文化財保護領域側ではそんなン知らねぇ。役に立たねぇって立場で構えちゃってる部分が見えちゃったから。
ってことで、次の記事ではそこらをまとめて〆ようかと。
まぁ、このまま放置してもいい記事っていやぁ良いけど。
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