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早稲田卒ニート119日目〜久しぶりの中学生〜
凡そ1年ぶりになるだろうか、中学生の授業をした。1年生と2年生だが、どちらもよく笑ってくれて有り難い。
2年生の授業では、内山節の『自由論—自然と人間のゆらぎの中で』が出典だった。
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単純に述べれば、山村とは山間地帯の村ということであろう。そのような地域をさす言葉にすぎない。ところが実際に用いられるときには、ひとつの時代がつくりだしたイメージが、山村という言葉にも付着してしまう。
確かに山村というと、「僻地」や「遅れている」といったイメージがつきまとうこともあれば、都会の慌ただしさから逃れた「のんびりさ」や「自然豊か」といったイメージが付くこともある。
または「古い」という言葉も、「君の考えは古い」と言われれば直ちにアップデートをしなければならない「間違い」と思ってしまうかも知れない。しかし、アンティークの家具が高価で取引されるように、古いものの方が「希少」という見方もある。
(※言葉の意味と価値について、上記)
(前略)私たちは、意味の世界につつまれながら暮らしているといってもよい。ところがこの意味の世界は、そのなかで暮らしている人間にとっては、ごく日常の世界であり、当たり前の世界であるために、そこに独特の意味世界があるのだ、ということに気づかない。
かつてらドイツの社会学者マックス・ウェーバーは『古代ユダヤ教』のなかで、ひとつの文明の内部で暮らしている人間からは、新しい文明は生まれてこなかった、というように述べていた。複数の文明の境界線上で暮らした人間こそが、新しい文明の創造者であった、と。なぜそうだったのかといえば、ひとつの文明の内部で暮らしている人間は、その文明が日常的であり、当たり前であるために、その文明に疑問をいだかず、新しい文明を想像する精神を失うからである。
ひとつの文明を相対化できぬ人間は、新たな文明の創造へ向かう精神を持てぬ。これは事を同じくして、私たちの自己形成にも言えるのではないか。即ち、自分を相対化できぬ者は、新たな自己の創造へ向かう精神を獲得できぬ、と。だから小さい頃から、「人の話を聞きなさい」と五月蝿く言われるのには相応の意味があるはずだ。自分が自分であることは、余りにも当たり前で疑えない。が、人の話をよく聞いて自分を疑い見直すことができるようになった人が成長する。その自分を疑う力のことを精神年齢とでも言うのかも知れない。そんなことを、この文章から僕たちは学び取れるんじゃないか。
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久しぶりにこんなことを真剣に話したが、教室の中の数名が関心してくれた。有り難い。
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