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早稲田卒ニート107日目〜夢・歴史・物語〜

見る夢にはそのときの精神状態が反映されているように思う。辛苦の時期には悪夢を毎晩見させられる。一方で、楽しく幸せな時期など無いので、良い夢は見たことがあまり無いのであるが。

昼下がりのうたた寝は、目が覚めて忽ち、時間を無駄にしたと悔い入ることはあれども、普段なら見ることのないような夢を見させてくれることがある。今日は、滅多に会えない人と遭遇した。夢にはよく出てくる人が何人かいて、しかも何度か出てくる。5分ごとにタイマーを設定すると、その度に別の夢を見ることもある。これが面白くて二度寝三度寝がやめられないのである。

ところで私は夢を見たと言ったが、私(たち)が夢を見たと言えるのはなぜか。「ある人が夢を見たということの規準は、覚醒時に彼が夢を語ること」とマルコムは指摘した。現実があって初めて夢はあり、それを「語る」ことでこそ、夢を見たことになる。

これはあたかも、歴史における「物語行為(narrative act)」のようである。人間は、決して直接には知覚できぬ過去の出来事を言葉によって語る。過去とは、現在という点からパースペクティヴに振り返りそれを「語る」ことによって、「歴史」となるのである。

夢も歴史も、客観的実在性の程度こそ異なれど、過去を物語ることによって「不在」を照射する。それもまた、「言葉」の働きである。

(ロマンス語系統の諸言語において「物語」と「歴史」は同根、あるいは同一の言葉で表されるらしい。)

僕らの人生も、自然科学の法則ではない以上、原因と結果の必然的関係による進行というわけにはいくまい。人生という「個」の歴史は、明晰な因果関係よって、死という完成まで合理的に進むのではない。それは、多様な可能性が絶えず生成変化を繰り返しつつ持続するリゾームのようなものである。

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