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早稲田卒ニート69日目〜空・無・白〜

箱を開けると煙草が残り2本しかない。いや、まだ2本ある。しかしそれを吸い切った。いよいよタバコはゼロ本である。即ち箱の中にタバコはもう無いということだ。しかしでは、ゼロとは「無」であるのか。我々はひょっとして、ゼロという概念を直ちに量的思考に還元して顧みていないのかも知れない。



仏教には「空」という根本原理がある。これはサンスクリット語の「シューニャ(śūnya)」から来ているが、このシューニャという語は興味深いことに、インド数学では「ゼロ」を意味するという。そしてインド数学におけるゼロとは、あくまで「表現され得ない」ことをあらわしているのであって、「存在しない」ことを意味するのではない。「ゼロ」は「非存在」ではないということである。

このことを考えるために、かえってゼロの非存在を想定してみる。もしゼロが「何も無い」ことだとすると、まさにゼロを中心として拡張されている座標という概念は途端に成立しなくなってしまうだろう。座標の中心に鎮座するゼロを取り外した時、忽ちその座標全体に広がる無数の点は支えを失い、木っ端微塵に解体されてしまうに違いない。座標という分析的建築物は、その中心にあって微動だにせぬゼロによってこそ支えられているのである。翻って、それらの凝縮点としてあるゼロこそが、座標上にある全ての点に対して無限の拡張可能性を与えているのである。その意味で、ゼロは「無」ではなく、むしろ決定的な原点としての存在を有している。

主観と客観が一致すれば空になるという。ところが、二つのベクトルは互いに向きが反対で、しかも相等しく、一直線上にあるとき0になる。空はこの0である。

(森敦『意味の変容』)

一切の存在を肯定的に説明する「空」の構造として、「ゼロ」の存在はあるのである。



8歳にして母を失った道元は14歳にして比叡山に登る。が、尊敬すべき師との不邂逅により、わずか2年足らずで山を下りたのち、建仁寺、そして中国の景徳寺へ渡った。そして4年間の滞在を経て帰国の後、10年ほどしてからいよいよ越前に永平寺を開く。とにかく道元といえば「只管打坐」というキーワードが直ちに連想されるくらいには、高等学校の公民で擦り込まれるだろう。ただひたすらに坐るということを道元が大事にしたのは、それがブッダ、ダルマ以来の仏教的伝統だと確信したからに他ならない。

インド、ムーラガンダ・クティー寺院の壁画
尾形守房筆・達磨図

ブッダもダルマも坐っているし坐り続けてきた。ダルマに至っては9年間も壁に向かって坐り続けた。したがって、坐ることでブッダになる、坐ることでダルマになる。道元はそう信じ抜いたのである。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。

(道元『正法眼蔵』)

哲学が西洋という文化圏からしか生まれなかったのは、人間から自然を切り離して対象化するという西洋の特異な自然観にわけがある。つまり、自己と自然との間に、主客を分離するキッパリとした境界線を降ろすのである。そしてその境界は、他ならぬ「理性」によって引かれることは言うまでもない。その自然観に立つ時、自然を客体として人間は、主体という特別な地位に君臨することになる。

仏道を習うことは自己を習うことであり、自己を習うことは自己を忘れることである。そして、自己を忘れることで、万法(全世界、全宇宙)が真の姿をあらわす。道元はそう言うわけだが、ここで言う「自己をわするゝ」とは、自己の滅却、即ち「無」への接近であるはずだ。そしてその「無」への到達を果たすために「只管打坐」がある。

無とは、矮小な自己と無限の宇宙との境界が取り外されることに近かろう。宇宙は無限であるが自己は有限である。それも、ほんのこれっぽっちの限界でしかない。ではその境界が消滅したならば、有限な自己は、限り無き宇宙にまでさえ等しく一体化する存在となり得る。自然を前にして所詮人間など僅かな存在でしかないという、西洋哲学において目を背けられていた当然の事実は、ちっぽけな自己に固執して恥じない現代人の生活態度に対する反省として見る価値もあるだろう。くだらない自己を保存しようなどというエゴイズムだから、いつまで経っても自己の成長も拡張も無いのである。そんなものは捨て去って、他者をそのまま受容するがよい。事実、道元は西洋における影響も残している。




「空白」という言葉がある。「白紙」という言葉も「余白」という言葉もある。いずれにせよこれらの「白」は、「何も無い」部分の存在を示しているだろう。では、「白」はただ「無」であるのか。

もちろん白紙には何も書かれていない。が、それはこれから何かが書かれるという可能性を持つ。しかし、ひとたび黒いインクで以て書く、或いは印刷しようものならもう2度と後戻りは出来ない。それは「白」ではなくなる。消しゴムで消せばいいなどという屁理屈は相手にしない。あの全く真っ白な「無」は、どうしたって回復できないに変わりはない。一度書いたものは、それがどれだけ未熟で稚拙なものであろうと、この世に出たら引き下がれないのである。無かったことにはできないというこの取り返しのつかなさ、「白」への不可逆性こそが、文字や作品への「完成度」や「美意識」を強化する源にあるのだと考えられる。漢文の有名な「推敲」にも、そんなことが書かれてあるのではないか。
(契約書にハンコを押す時、手元にいささかの震えが伴うのもまた、この取り返しのつかなさからだろう。)

私は小学生の頃に習字を習っていたが、硬筆でも毛筆でも、まずは白紙にお手本通りの忠実な再現を試みるのが基本である。が、なかなか上手くはいかない。書いては破棄、書いては破棄を繰り返す。この時苦しいのは、お手本通りにいかないことそれ自体というよりも、未熟な文字を「白」の上に実現してそれが消せぬこと、そして私の傍らにその拙い痕跡が破棄された紙として蓄積していくことである。尤もその呵責が、上達へのエネルギーを喚起するのでもある。

習字の場合は、何枚も書いてそのうち最も上出来な文字を作品として提出すればよかったから、2度目はないというヒリついた緊張はなかった。「一発勝負」ではないのである。ところが、例えば授業は、全くの一発勝負でしかない。「上手くいかなかったから来週やり直しね」という教師はいない。授業とは、教師にとっての「白」である。それゆえ、アスリートが徹底した練習をするのと同じ様に、ほとんど終わりなき必死な予習がその背景にある。

また、テレビの「生放送」は、収録以上に緊張感があるだろう。収録ならば撮り直し編集が可能であるから噛んでもスベっても救いの余地があるが、生放送ではそうは問屋が卸さない。M-1グランプリの決勝で漫才師がネタを飛ばしでもしたら、見ているこちらの方がヒヤヒヤするほどである。生放送も、芸人にとっての「白」である。

結局は授業も生放送も「一発勝負」なのである。それは後戻りできない、取り返しがつかないという点において「白」である。それゆえ、たった一回の本番における完成度の高さが重大に問われることになる。書き損じも読み間違いもネタを飛ばすことも許されない。「本番」とは、「タブラ・ラサ」なのである。

ある人、弓射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑の心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」といふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。このいましめ、万事にわたるべし。

(『徒然草』第九十二段)

二の矢に対する無意識の依存は、一の矢にこそ凝縮し尽くされるべき集中を分散してしまうというわけだ。たった1本の矢しか携えず的と対峙する極限の集中の中にこそ、射手にとっての「白」があるのである。





LINEのメッセージ削除機能などにはこの「白」が無い。それゆえそこでは完成度も美意識も育たない。あんな機能は無くしてしまうのがよろしい。尤も、話はその他のSNSでも大して変わりはしない。そういった理由で、拙noteは基本的に一発書きに努めている。



学生諸君。受験だって君らにとっての「白」としてあるのだよ。だから、どうか切実に。

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