最果タヒ『14才の化学進化説』座談会議事録

11月26日(土)、他大学からの見学者3名、早稲田大学からの見学者1名を交えた計6名で最果タヒ『空が分裂する』より「14才の化学進化説」の座談会が行われた。4名もの見学者の方に参加していただいて嬉しい限りである。詩人会は常に他大学・早稲田大学を問わず部員・見学者を受け付けています。

思うに最果タヒとは不思議な詩人である。いわゆる「エモさ」——ナイーブな感受性とその表現——を第一のイメージとして持ちながら、その正体に迫ろうとすると、するりと私たちの手からすり抜けていくような感覚がある。読後感の独特さも書き漏らすことはできない。あの独特の読後感——解釈に凝り固まった私たちを嗤うかのように、読むそばからほどけていくような印象。この感覚は最果タヒを読んだことのある読者ならば一再ならず感じたことがあるのではないだろうか。読み終わるとどこかぽっかりとした穴が残されていることに気づく。喪失感とも異なる、小さな空白、それが最果タヒを読んだときの私の感傷である。

今回扱った「14才の化学進化説」は少女詩といっていいかもしれない作品である。14才の少女の視点で、化学進化説に奪われてしまった生命の神秘性への郷愁が語られる。「神話のままでいたい」という少女のナイーブな感傷性。そして、印象的な「感情は名をつけたら俗物になるんよ」というリフレイン。神話のままでいたい、少女のままでいたい、俗物にはなりたくないという思春期の痛ましいような感受性が鮮やかに描かれている。

ところで、中原中也の『芸術論覚え書』は、「『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」という一節で始まる。名辞以前のものを言葉で書いていくという矛盾に、常に詩人たちは突き当たる。最果タヒは名辞以前のものを言葉で書く詩人なのではないか、という意見が部員の間から出た。言葉を絵具のように使い、名前がつく前の感情について書いていく。果たしてそのようなことは可能なのだろうか? この問いに対する答えが「14才の化学進化説」のなかにある。

「世の中は完成されすぎている」という詩の始まり。ここに、名辞として切り取ることで抜け落ちてしまう一つの世界への絶望を感じ取れないだろうか。輪郭のない生命というものに輪郭をつけて世界から切り取る「化学進化説」という営みもまた、見えないものを見えないままで受け入れることへの離叛であると言える。そして「感情は名をつけたら俗物になるんよ」というリフレインへとつながっていく。

最果タヒは即興でしか詩を書かない。その中で「14才の化学進化説」だけは即興で書かれなかったという。その即興で書かれなかった部分というのが、「感情は名をつけたら俗物になるんよ」というリフレインなのではないかと感じたのは、別段根拠があってのことではない。ただ、そこに最果タヒの詩にはめったに表れない最果タヒ自身の思想のようなものを感じ取るのである。言葉にすることですり抜けていくものを丁寧に掬い上げていく、果てしのない営み。それが詩というものなのかもしれない。

(文章:手塚桃伊)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?