墓場喫茶店3。
私は朝早く、山を登っていた。
雪で不安定な足元に、杖を刺しながら登る。
私は時計を見た。
針は、午前6時を指している。
時間はあまり、残されていないようだと笑う。
雪混じる空気が、肌を刺している。
私の周りに、登山者はあまりいないようだった。
当然だ、皆、もう山頂にたどり着いているだろうから。
だが、それでいいのである。
私はグサッと杖を刺し、一旦休息を取った。
タイムリミットギリギリで登り切った方が、ドラマチックである。
なにせ、今日は元旦……すなわち、初日の出がある日だ。
初日の出を見るのは、多分人生でこれが最初で最期になるだろう。
最期の初日の出なのだから、とびきり高い山で、とびきり美しい物を見たいと思った登山家の私は、こうして山を登っている。
私はまた歩き出した。
初日の出まで、残り1時間もない。
幸いなことに、雪はそこまで降っていないようだった。
これなら、もう少しスピードを上げてもよいだろう。
そう思い、脚を早めかけた、その時だった。
「あっ、いたいたー! いやぁよかったよかった、みんなもう、先に行っちゃったのかと……」
唐突に声をかけられ、私は後ろを振り返った。
私から20mほど離れたそこには、見知らぬ少年が一人、こちらに向かってきている。
「……あっ」
「えっと、どなたですか?」
「……ええと」
少年は明らかに私から目線を逸らした。
その時点で、私はははーんと察しが付く。
おそらく彼は、友達から置いて行かれ、一人で歩いていたところ、私を発見し、声をかけた……なんてクチだろう。
しかし実際、私はその友達などではなく、ただの一般登山客。
気まずい空気が漂うのは、避けがたかった。
私も少年も、じっと黙り、相手の様子を伺っている。
沈黙に耐え切れなくなったのは、私の方が先だった。
「……一緒に登ります?」
なぜこの言葉が出たのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、「さよなら」と一言で終わらせるには沈黙が長すぎたし、
「ありがとうございました」「頑張ってくださいね」なんてのはもってのほかだ。
その結果出たのが、「一緒に登ります?」という言葉だった。
困惑する少年と、今しがたの行動を後悔する私。
雪の勢いは段々と収まりつつある。
やがて、少年が答えた。
「……いいですよ」
こうして、謎の因果によって、私と少年はともに登山することになったのだった。
名前も知らない少年との登山は、結論から言ってとても楽しかった。
最初の方こそ互いに探り合い、会話は弾まなかったが、
登っていくうちに口が軽くなっていた。
「どうして、お姉さんは山を登ってるんですか?」
「今日は初日の出だから、見ておこうかなー……って」
「にしては、ちょっと時間がギリギリですね」
「寝坊したの~。そういう君こそ、遅いんじゃない?」
「これには、やむを得ない事情があって……寝坊して、同級生との約束をすっぽかしちゃったからです」
私はアハハと笑った。
少年も、「いやぁ面目ない」と顔を赤くして頭をかく。
ミシ、ミシと雪を噛み締め、溶かしていくうちに、
私たちの話もヒートアップする。
初日の出まで、およそ20分。
この山の頂上までの時間も、およそ20分くらい。
間に合うな、私はそう確信していた。
雪の勢いも、今の所登山に支障をきたすほどではない。
多少肌寒いくらいの、絶好の登山日和である。
……登山日和……
「……はぁ……」
「どうしたんですか?」
ふとため息をついた私に、少年が反応した。
「あっ、聞こえちゃった?」
私は笑顔で彼の顔を見る。
少年は、おどおどしてこういった。
「……もしかして、聞いちゃいけませんでしたか?」
「いや、別にいいよ~」
私は再び、視線を頂上に向ける。
この名前も知らぬ少年に、ため息の理由を教えてもよい物か、少しの迷いがあった。
しかし、なぜだろう。
この少年になら、言ってもいいような気がする。
雪はほとんど止んで、夜も開けつつあった。
初日の出が、頂上が、すぐそこまで迫ってきている。
「つい一か月前に死んじゃった、夫の事を思い出したんだ。あの人も、登山好きだったなーって」
「……あー……」
少年はどうこたえて良いのか分からなかったのか、ただ目を伏せた。
私は歩むスピードを上げ、「気にしなくていいよ」。
「勝手にため息ついて、勝手に自分語りしたのは、私の方だからさ」
「……もういない夫さんのために、登山しに来たんですか?」
彼は真剣な口調で尋ねた。
思ったよりも、踏み込んだことを訪ねてくる。
私は何も答えなかった。
折角盛り上がって楽しげだった雰囲気が、暗くなってしまった。
そのせいで、私の口からまたため息が出る。
「でも、ほら、もう少しで頂上ですよ」
少年は場の空気を和ませるためか、不自然なほど明るい声色だ。
そうだね、と、今度はちゃんと答える。
少し切れた息と、脚の痛み。
指先が冷たく、高度の影響で耳がキーンとしている。
しかし、それらの辛さも、もうじき報われるのだ。
そして、ようやく。
「「初日の出……」」
私と少年の唇が、同時に震えた。
少年が、声にならない声を発して、
熟したマンゴーみたいな太陽に魅入っている。
そして、私はというと。
少年から少し離れたところで、太陽を眺めていた。
一か月前、私の大好きな夫は、太陽が出る瞬間に魅入ってしまい、
足を滑らせて死んだ。
ちょうど、今日みたいに。
私は口角を上げた。
また雪が降り始めている。
私はそのまま、後ろ──これまで登ってきた登山道に、背中から身を投げた。
身を切る空気が、落下速度のせいでさらに冷たかった。
「らっしゃい。女のお客さんか」
……え?
聞き覚えのない声に、私は我が耳を疑った。
私は山から落ちて、死のうとしたはずだった。
なのになぜか、意識がある。
困惑したままあたりを見回すと、そこはおしゃれな喫茶店の様だった。
店内を満たすコーヒーの香りと、
さっきまでいた山とは違う、暖房の効いた人工的な温かさ。
店長らしき眼鏡をかけた初老の男性と、二人の客らしき人。
間違いない、ここは喫茶店だと私は感じ取った。
「……注文は?」
さっき私に「らっしゃい」と声をかけた男性──おそらくここの店長であろう男性でもある──が、私に尋ねた。
私は何と言えばいいのかわからず、
とりあえず「コーヒーを一杯」と答える。
男はかしこまりましたの一言もなく、私の前から去って行った。
私は困惑して、立ちすくむ。
なぜ、私は今、ここにいるのだろう。
走馬灯にしてはやけに鮮明なうえ、
見覚えのある場所というわけでもなかった。
窓には日の出が覗いている。
が、さっきまで見ていたソレと合致するわけでもない。
私が頭を悩ませているところに、さっきの男性が白いマグカップを持ってやってきた。
「はいよ」
わけもわからぬまま、私は礼を言ってマグカップを手に取った。
その瞬間、男が私の耳元に口を近づける。
「……なぁ、おまえさん。なんでここにきちまったんだい?」
えっと私が困惑の声を上げるより先に、彼は私から離れてしまった。
「なんで『ここ』にきちまったんだい?」?
そんなこと、私に尋ねられても困る。
そもそも、「ここ」がどこなのかさえわかっていないのだ。
私は少しムッとしたまま、コーヒーに口を近づけた。
途端に、コーヒーの香りが一層濃くなる。
ブラックなことは、匂いでわかった。
ブラックがあまり得意でない私は、目を瞑って黒い石油のような液体を喉に流し込んだ。
キツい苦み。
これを好んで飲む人の心情が、理解できない。
しかし、その代わりに涙が流れた。
もうじき私は、この苦みさえも感じれなくなるのだと、
考えてしまったからである。
死ぬとは、そういうことだ。
夫もきっと、こんな風に絶望しながら逝ったのだろう。
私は優しく笑った。
「でも、もう大丈夫。
私がそばにいるから──」
意識の揺らぐ感覚がして、グラりと視点が落下した。
その時、私の目に窓の外の日の出が映る。
不思議な事に、それは、山の上で見た物よりずっと醜く見えた。
なぜだろう、と考えた時、一つの答えが私の中に浮かぶ。
──山頂で見た時に初日の出と重なっていた、少年の頭がないからだ。
体が冷たい。
意識が遠い。
そんな中、私の心に今更、「後悔」という感情が浮かんだ。
……夫と一緒に居たいという私の我儘のせいで、あの少年や私の両親は、傷ついたのかな。
「ごめんなさい」
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