ごった返す人々の放つ臭気。汗と熱気がいっしょくたになった猥雑さ。芋飴は公定価格の五〇倍の値段がついている。 闇市の飯屋で、一杯五円の肉入りうどんをその男はすすっていた。 「稼いでるんだろう? なんでこんな場末で食ってる」 「こういう場所のほうがその国の日々の暮らしがわかる」 流暢な日本語でダニエル・リーが答えた。そんなもんかね、と佐伯は言った。 妙なもんだ。佐伯の生きてきた世界では敵と味方が目まぐるしく入れ替わり、嘘と裏切りが横行していた。まさか敗戦しリーと轡を
「わたしが死んだ時、蠅の羽音がした」 ──エミリー・ディキンスン、465番の詩 乾いた風が吹くと、まず崩れるのは眼球だという。 私は目を細める。茫漠とした砂塵の彼方では、天衝く排気塔から煤煙が吐き出されている。 昼夜を問わず稼働し続ける火葬場。熱と灰が無尽蔵に供給され、大気をさらに脱水していく。 視線を移す。老人が死んだ幼子を抱いている。子の盲いた眼窩には黒い虚があるだけだ。 もう、死がなにかに還元されることはない。乾いた肉体はただこぼたれ、塵に砕けるだけ。
魂の重さは大銅貨三枚分。 落屑した皮膚や、抜け落ちた髪を掻き集めれば、達しえぬ数字ではない。 「『彼女』は真の強者だった」 おり敷いた騎士がいう。血に錆び、打擲され歪んだ板金鎧。兜には刺剣に突かれた孔が穿たれている。腰に下げた龕灯の青白い光に照らされ、面具に顔が浮かぶ。 鼻も頬肉も削げた髑髏があった。 「『彼女』は戦場に死に場所を求め、しかし強者だった故に渇望した死をついぞ手に入れられなかった」 黒衣の青年は黙りこくり騎士の声を聞く。 「『彼女』が剣を振る
東欧の酒はぬるくてまずい。 頬張った肉もゴムのようだ。噛んでも噛んでも硬いままで、無理やりに酒で流し込む。外国人向けのホテルといえど、この程度のクオリティとは。 私は不満とともに嘆息する。 視線で周囲を伺う。閑散としたレストラン。客も少ない。欠伸交じりで暇そうな給仕。これではろくに外貨も稼げまい。 共産圏のひなびた小国。防諜機関のレベルもさぞ低いだろう。 秘密情報部に依頼されセールスマンの偽装身分で入国したのはいいが、拍子抜けのまま任務は終わりそうだった。伝
ぬるい雨が降っている。 全身ずぶ濡れになってすら、俺の肉体を、魂を焦がす炎は消えはしない。憎悪と憤激。哀切な痛み。痛覚のひとつひとつが内部から焙られる、そんな錯覚。俺は馬鹿馬鹿しいことを考える。もし俺が業火の中に潜むサラマンダーなら、炎の苦痛を感じずにすむだろうことを。爬虫類じみた怪物ならば、人間のように痛みに苛まれもしないだろうことを。 でも俺は人間だ。人間だから、常に過去に纏わりつかれる。タールのようにねっとりと重い過去は俺にへばりついて離れない。 その最奥に
胸が重苦しくて目を覚ましてみれば、すねこすりと猫が乗っていた。 すねこすりなんだからすねを擦れ、最近同居している猫に挙動が似てきてやがる。俺がベッドから起きあがると、二匹は迷惑そうにどく。どこかで極楽鳥が鳴いている。喉の乾きを癒そうと冷蔵庫に向かい扉を開ける。ウィンティゴと雪女が密会していたので一言謝って見なかったことにする。 世界はいきものに溢れている。 好奇心に取り憑かれた何者かがプリニウス『博物誌』やリンネ『自然の体系』、果ては鳥山石燕『画図百鬼夜行』をバ