化生、人心を知らざれば
ぬるい雨が降っている。
全身ずぶ濡れになってすら、俺の肉体を、魂を焦がす炎は消えはしない。憎悪と憤激。哀切な痛み。痛覚のひとつひとつが内部から焙られる、そんな錯覚。俺は馬鹿馬鹿しいことを考える。もし俺が業火の中に潜むサラマンダーなら、炎の苦痛を感じずにすむだろうことを。爬虫類じみた怪物ならば、人間のように痛みに苛まれもしないだろうことを。
でも俺は人間だ。人間だから、常に過去に纏わりつかれる。タールのようにねっとりと重い過去は俺にへばりついて離れない。
その最奥には、いまや薄汚れた総天然色の思い出もある。ともにさんざん馬鹿をやった。未来を語り合った。ふたりは分かち難く結ばれていたはずだった。
だから、なぜとは問うまい。俺はただ執行するだけだ。
水飛沫。思考が現実に戻る。黒塗りのセダンが駐車場に止まる。エンジンが切られ、車体が急速に冷え、断頭台の金切り音めいた金属音が鳴る。足音を雨に溶かし近付く。右手には消音器付きの拳銃。
俺はこれから親友を殺す。
これは報復だ。鮮やかなまでに親密な裏切りの。
ドアが開く。傘が突き出される。あいつが現れる。友情の年月とともに刻まれた皺。血色の良い肌は今も変わらない。
追い抜きざまに引き金を押し込む。雨音よりも小さな銃声。亜音速弾があいつの胸を貫く。死は裏切りほどに鮮やかでなく単色の原理にすぎない。劇的なものは一切ない。あいつはくずおれる。
俺は俺の半身を殺したのだ。
俺は涙を流さない。ただ、ぬるい雨が頬を伝い落ちるだけだ。
これで仕事は終わりだ。憤怒が鎮火していく。激情が去っていく。
燃え滓は、まだそこに残っていた。
友情の始まり。すべての起点。
俺は懐古する。
それは、長い昔語りになる。
戦争が始まる前、俺たちは学生で、世界には真の正義が存在すると無邪気に信じていた。
思い出を葬送の手向けにするぐらい、許されるにちがいない。
【続く】
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