見出し画像

毒の反哺 【あとがき】 

 最後までお読みいただきありがとうございました。いつか書いてみたいと思っていた『児童虐待』をテーマにした小説。ミステリー仕立てで何とか書き終えることができました。

 翔太が父から受けた身体的・心理的虐待(日常的にDVを見る)、鈴木さやかが母から受けた心理的虐待(無視や暴言)、九条直哉が父から受けた性的虐待、凛や由奈が母から受けた育児放棄(ネグレクト)を作中に取り入れました。センシティブな内容ですので、リアリティーはありつつも、できるだけソフトな表現を心掛けました。しかし当事者や類似体験のある方は、不快に感じられたかもしれません。ここにお詫び申し上げます。

 そして、被虐待児とその家族に対する支援先として、児童相談所、要保護児童対策地域協議会や、何らかの事情で親と一緒に暮らすことができない子どもたちの受け入れ先として、乳児院、児童養護施設、里親、養子縁組というワードも取り入れました。

 作中に虐待する親を擁護するような表現もあったかと思いますが、私個人としては、ニュースに出るような卑劣な、子どもを死に至らしめる虐待親を、決して擁護する気持ちはありません
 
 虐待そのものは決して許されるものではなく、身体的にも精神的にも物理的にも、一人では生きていけない無抵抗で弱い『小さき人』を傷つけ、人権を侵害する行為が、あってはならないと思っています。

 しかし一方で、虐待するつもりなんてなかったのに、そこに至ってしまったという、親子関係も少なからず存在すると思うのです。

 子育てほど、自分の思い通りにいかなくて、肉体的にも精神的にも疲労困憊する業はないとさえ思っています。

 ついカッとなって叩いてしまった、感情的に怒鳴りつけてしまった等、子育ての経験がある者ならば、大なり小なり誰にでもあるのではないでしょうか。親も人間です。疲れていればイライラもします。

 でも、そんな自分をひどい親だと自認し、怖くて誰にも言えない。ましてや公的機関に相談なんてしたら、マークされたり通報されたりするのではないか、そんな恐怖すら抱くかもしれません。

 日々の積み重ねが「今」を作っています。最初はほんの些細なこと。でもそれがきっかけで、家庭という閉鎖空間で、一人で抱え込んで、行為がエスカレートし、何が普通かわからなくなり、しつけという大義名分たいぎめいぶんかかげて、いけない行為に及んでしまう。最初からこうではなかった——。そういうこともあるのではないでしょうか。

虐待は許されない行為です。

 それでも、そこに至るまでに何かできることはなかったのか?
 改心できるチャンスはなかったのか?

 やってしまったことは、取り返しはつかないけれど、「あなたが悪い! ひどい! 罰を受けろ!」と冷たい北風を吹き付けるだけではなく、

 「どうしたの? 何がそうさせるの? しんどいの? どんな気持ちなの? これからどうしたい? 何でも聞くよ? わかるよ、大丈夫だよ」と温かい太陽となって、周りの人が傾聴する心を持つことも大切なのではないでしょうか。

 もちろん、こどもの命にかかわる虐待に対しては、子どもの命を守ることが最優先です。親の言い分なんて聞いていられません。
 その場合は警察や専門家の即時介入が重要となります。

 虐待の疑いがある場合、私たちには『189』の通告義務があります。

 たとえ、その通告が間違いだったとしても(子どもが癇癪かんしゃくをおこしているだけ等)、通報者が責められたり、通報された方が間違って逮捕されたりすることはありません。むしろ、間違いであってほしいですよね。

 虐待と誤認されて通告された家庭は、確かにショックを受けるかもしれませんが、もしかしたら、今まさに子育てに困っている方かもしれません。

 何よりも、もしも命の危機にひんしている『小さき人』を救えるかもしれないのであれば、まわりの大人が躊躇ちゅうちょしている場合ではありません。
(※それでも通報は勇気がいる行為ですよね。私もいざその立場になって、できるかどうかなんて正直わかりません。)

 ご近所付き合いや、親族との付き合い、人との付き合いそのものが希薄きはくになっている昨今さっこん、子育ての悩みを気軽に相談できる人がおらず、何が普通なのかわからなくなり、身も心も疲弊ひへいしてしまう。また、周囲も家庭というプライベート空間に立ち入りづらく、おかしいと気付きつつも放置してしまう。

 相手の反応が怖い、隠したい、そっとしておいてほしい……。
 でも気付いてほしい、助けてほしい、この状況を抜け出したい……。
 そういう相反する思いを抱えている場合もあるかもしれません。

 この問題は、根が深く簡単に解決できるものではありません。
 支援の在り方に正解なんてない気がします。

 なぜなら、幸せの尺度は人それぞれで、幸せの量や質は計れないし、他人が計って勝手に解釈して、その人に与えるものではないからです。
 立派なご両親がいて、大きくて綺麗な家で育った子どもがみんな幸福で、貧しく劣悪な環境で育った子どもが必ずしも不幸とは言えない。
 幸せかどうかは本人が感じるもので、他人から一方的に与えられるものでも、ジャッジされるものでもないからです。

 でもただ一つ、言えることは、小さき人が大人が作った狭い世界に閉じこめられ、人権を侵害され、ましてや命を奪われることがあってはならないということです。

最後に……
正解は人の数だけあります。正義もまた然り。

自分が正しい、相手が悪だ間違っている。
私は傷ついている私って可哀想でしょ、相手がひどいでしょ?

 一方的に相手を悪と決めつけ、それを発信し、多くを味方につけ相手を貶める。

 悪気なくやっている、もしくは正義と疑わずやっている行為なのでしょう。辛い気持ちや悲しい気持ちをわかってもらいたくて、もしくは正義を掲げるためにやっているのでしょう。でも、そのやり方は『正しい』のでしょうか。

私たちには表現の自由があります。
自分の気持ちを自由に発信することができます。
ですが、
その発信は大丈夫でしょうか?
一方的な正義ではないでしょうか?

相手には相手の、自分が想像もつかない事情を抱えているのかもしれない。
自分とは生活環境・生活習慣が違うのかもしれない。
そもそもその問題の捉え方が違うのかもしれない。
全くの誤解なのかもしれない。
もしかすると自分が間違った考えなのかもしれない。

そのような当人の一呼吸考える姿勢や、
そしてその発信に同調しない周りの反応が大事かと思います。
多数が認める正義論が常に正しいとは限らないからです。

 SNSで自分の意見を簡単に発信できる昨今、何気ない気持ちの吐露が、たくさんの同調を産み、それが『正義』となり、その対象者に物を言わせない雰囲気を作ったり、深く傷つけたりしている場合がある。
そんなことにも気を付けたいなと思います。

ご立派なことをつらつらと書きましたが、私自身へたれ代表のような人間なので、理想はわかっていても、いざ現実に目の前で起こった事に、率先して正しい行動ができるかなんてわかりません。怖いです。でも、自分の勇気ある行動が何かを打開する一つになりうるかもしれない!と念頭において、自分にできる行動したいと思います。

そして、願わくば
一方的な思考や感情で責めたてる今の世の中が、もっと寛容であってほしい。

そんな思いを込めて、自戒を込めて、書きました。

 あなたの考えもいいし、私の考えもいいよね。
 そんな考えもあるよね。そんな見方もできるね。
 みんなちがってみんないい。

 最後まで読んで頂きありがとうございました。

いしもともり


★毒の反哺 全14話 マガジン 一気読みはこちらです♪ ☟☟☟


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?