猫さま礼讃。

バステト、という神さまをご存じだろうか。
古代エジプト人が信仰した、猫の姿をした女神さまである。
エジプト神話では、太陽神ラーの妻だったり娘だったりする。
猫さまは、太陽の一族に名を連ねていらっしゃるのである。

おお、古代エジプト人よ! 私はあなたたちに激しく共感する!
猫さまは太陽であると、私は常々思っている。
眩しすぎ、神々しすぎ、尊すぎて直視することができない存在であると。
もしかしたら、古代エジプト人も猫さまを見つめるたび、きゅんきゅんしていたのかもしれない。

私の頭の中は、9割猫さまである。
私の存在意義は、猫さまにお仕えすることだと思って生きている。
今回の「猫のいるしあわせ」というお題を知ったとき、私は小躍りした。
やった、これって私のためのお題みたいなもんじゃないか!
毎日、毎時間、毎分、毎秒、にゃんが我が家にやってきてから、私はずっとしあわせである。いわば私は「猫のいるしあわせ」のプロである。
ぐふふ、まかせて、いくらでも書けちゃうから!
人が私を何て呼んでいると思う? 「猫クレイジー」だぞ!
さぁ、今こそnote上に我が変態と呼ばれる所以を見せつけてくれよう!!

いざ、パソコンを開き愛猫との生活を書こうとして、愕然とした。
「かわいい、かわいすぎる、神、やばい、すき」
これしか浮かばなかったのである。やばい。

モノを言葉に落とし込むときは、対象をじっくり観察しろ。
とは、私の座右の書『三行で撃つ』(近藤康太郎)の教えである。
ふっ、猫が好きすぎるあまり気持ちが先走って、観察することを忘れていた。さ、「ちゅーる」あげるからおいでおいで。

すり寄って膝に乗り、うとうとしだした我が愛猫の、ぷくぷくしたほっぺをなでなでしながら、見つめる。観察する。
か、かわいい。かわいすぎる。うっわ、かわいい、かわいすぎる!!!
・・・だめだ。他に何も考えられない。見れば見るほど、かわいいしかない。顔、手ざわり、毛並み、色、たちのぼる匂い。全部かわいいのだ。
猫は人間の言語中枢を破壊する。
猫を見ていると「かわいい」以外の言葉が霧のように一瞬で消えてしまうのである。

谷崎潤一郎は、猫好きで知られる。
飼い猫に、口移しで餌をあげていたくらい好きだったらしい。
その彼に『陰翳礼讃』(いんえいらいさん・中公文庫)という素晴らしいエッセイ集がある。
中でも「厠について」には度肝を抜かれた。
厠である。トイレである。御不浄である。
京都の古いうどん屋さんで、急に催し厠を借りた。ただそれだけの話なのだが、これがスゴイ。何がスゴイって、彼が出したモノの描写がもう、とんでもなく美しいのだ。文豪の手にかかるとunkoすら光り輝くのかと、唸るしかない。

アレさえ宝石に変えることのできる男である。
その谷崎が大好きな猫を書いたら、さて、どうなるか。
『猫と庄造と二人のおんな』を見てみよう。
このタイトル、実は作中のパワーバランスを示している。
頂点にいるのは猫さま。だがしかし、猫さまは主役ではない。特にかわいい仕草をアピールするわけでもない。
ただ、いる。そこに。
なのに、庄造も、二人のおんなも、気付いたら骨抜きにされて狂っていくのである。
猫そのものではなく、勝手に周りを狂わせていくその魔性に、谷崎はスポットを当てた。

文豪ですら、猫さまを直視するのを避けた。
・・・なんて考えてしまうのは、邪推すぎるだろうか。

猫に翻弄されたり、下僕になっている人間を描くものはたくさんあるけれど、猫のみを描き、かつ、本物の猫に勝るとも劣らない魅力をもった小説を、私はいまだ読んだことがない。(猫が猫として語るものは除く)
狂うヒトがいて、ネコはより美しく輝くのだ。

すべての芸術は自然の模倣であると、昔の誰だったか偉い人は言った。
この世のほとんどのモノは、芸術に落とし込めるのかもしれない。
が、猫は無理だ。そんな気がする。
黄金を塗りたくっても太陽にはなれないように、猫は猫でしかその輝きを表せない。

猫は、猫である。
眩しすぎ、神々しすぎ、尊すぎて直視することができない存在。
太陽であり、神であり、猫である。



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