ヘミングウェイ『雨の中の猫』は、読むたびにちょっとだけときめく。

超短編、といっても過言ではない。
新潮文庫でわずか5ページ。
ネコを探して、ホテルの部屋と外を行き来するだけ。
登場人物も少ない。主人公の女性とその夫、二人が宿泊するホテルの支配人とメイド。この4人のみだ。

場所も行動も人数も限られた、小さな小さなおはなし。
なのに、読み終えたときの充足感は、映画一本見たかのようなのだ。

一体、このイイ感じは何なんだ???

映画のほとんどは、主人公が何かしら変化してゆく過程を描いている。
ヘタレだった少年が、一人前の料理人になったり。
バーで歌っていた少女が、スターになったり。

『雨の中の猫』にも、最初と最後で変化していくものが、ひとつだけある。
主人公の人称代名詞、呼び方、である。

主人公はまず「アメリカ人の妻」として登場する。
原文は「The American wife」。
彼女の夫には「ジョージ」というちゃんとした名前があるのに、「アメリカ人の妻」って・・・。
没個性的すぎる!!! まるで所有物みたいな表現!!!

「アメリカ人の妻」と呼ばれている間、主人公はとても従順だ。
雨のせいで、せっかくイタリアに来たのにホテルの部屋で過ごすしかなく、夫のジョージは読書に夢中でちっともかまってくれない。そんな状況にぶーたれることもなく、静かにお外を眺めていたら、にゃんこを見つけるのである。「アメリカ人の妻」は、読書に耽るジョージを残してネコを探しに部屋を出る。

ロビーで、主人公はホテルの支配人と軽い挨拶を交わす。
ホテルの支配人は高齢の男性。彼の見た目も態度も、何から何まで全部が好ましいと思うとき、主人公は「彼女」という一人の女性になっている。

「彼女」は、ネコがいたと思しき場所を探してみるけれども見つからない。
失望感に襲われた主人公は「若いアメリカ娘」に。「となりのトトロ」のメイちゃんよろしく、「だって、猫、いたんだもん」。

部屋に戻ろうとする「若いアメリカ娘」に支配人が一礼する。
その一礼は、「若いアメリカ娘」を「自分がこの上もなく重要な存在であるかのよう」な気分にさせるのだから、この支配人、恐るべし。

特別な存在だという自信をもった主人公は、ジョージを前にしてももう「アメリカ人の妻」ではない。「彼女」として、しっかりジョージと向き合う。
髪をのばしたい、定住したい、ドレスが欲しい、猫がほしい。
「彼女」は自分がどうしたいのかをはっきり主張する。
けれど、ジョージには全く響かない。
主人公はまた「アメリカ人の妻」に戻って、暗くなり始めた部屋の外を眺める。
そこに、支配人からの粋なプレゼントが届いて、物語は幕を閉じるのである。

たった半日の間に、主人公の呼び名は4つも変わる。そのたびに、彼女の内面は変化している。変身しているのだ。
特に劇的なことなんて起こらないのに、だ。

だからこそ、私はこの作品が好きなのかもしれない。
日々の生活には、劇的なことなんてほとんど起こらない。
変化すらないことだってある。退屈で、下らない毎日。
そんな中で、「自分がこの上もなく重要な存在であるかのよう」な気分にさせてくれる何かを探している。
主人公を変えてくれた「支配人」のような存在を探している。

普通の主人公が、ちょっとしたことで少し変わった。
その「等身大のファンタジー」が、読むたびに私の心をときめかせる。
明日、私にも起こるかもしれないじゃない。





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