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ゾンビ化したら、私はきっと本屋に行く。

ゾンビになるってどういうことだろう。
「私」の意識とか、記憶とか、癖とか、かけらでも残るものなのだろうか。
『断絶』(リン・マー 著)を読むと、ゾンビ化したあとの事について考えてしまう。
簡単なあらすじはこうだ。

 2011年、謎の熱病「シェン熱」が中国で発生した。
あっという間にパンデミックが起こり、主人公キャンダスの暮らすニューヨークにも蔓延する。
 「シェン熱」の致死率は100パーセント。
 感染者はゾンビ化し、街中をさまよう。
 都市としての機能を完全に失ったニューヨークから、主人公ら生存者は脱出できるのだろうか――。

 と、言うと「ゾンビサバイバル小説」のようだが、本書はちょっとちがう。
 本書のゾンビは、人を襲わないのである。
 正統派ゾンビはかぷっちょされて感染するのに、本書のゾンビはウイルス性なので襲わなくても勝手に感染する。
 さらに、彼らは人間を食べない。
 彼らにとって人間は何の役にも立たないのだ。

仲間を増やすことも、捕食することもしないゾンビたちは一体何をしているのか。

とあるゾンビ一家は、母が作る夕食(みたいなもの)を、セッティングした(つもりの)テーブルに座って仲良く食べることを繰り返している。
とある女性は、家じゅうのドレスを着たり脱いだりして、鏡の前でポーズをとり続けている。
おっさんゾンビは、子供のころ大好きだったショッピングモールを端から端までブラブラし続けている。

どうやら「シェン熱」は、宿主を思い入れのある場所へ行くように仕向け、辿り着くと同時に発症、ゾンビ化するらしい。
ゾンビたちは、それぞれの思い出の中をさまよっているのである。

ああ、存在がなんて詩的。
こんなにも切なく美しいゾンビを、私はかつて知らない。

しかし、主人公たち生存者らには「素敵」なんて言っている場合ではない。病原菌のかたまりである「思い出ゾンビ」たちを次から次へと射殺する。
その場面を見るにつけ、胸がちくっと痛むのだ。
ゾンビたち、身体は腐ってるけど心は生きているときと変わらないんじゃないだろうか?

人生は記憶のかたまりだ。
そのかたまりの一部分をずっと繰り返しているってことは、ゾンビたちには多少の意識なり意思なりが働いているわけで、ゾンビ化する前の人格をそのまま保っていることになりはしないだろうか。

もし、私がゾンビ化するとしたら?
たぶん、本屋に行って片っ端から本を読むだろう。
私の人生で最も心が震えたのは、本を読む喜びを知ったときだから。

ゾンビ小説だけれども、人生について考えさせられるという不思議。
「シェン熱」の発生状況がコロナにそっくりなのに、執筆されたのは2018年というのも予言の書めいている。
世にも奇妙な『断絶』という一冊。

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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。