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またやべえ作家を見つけてしまった。

私は今、猛烈に嫉妬している。

もし、私に彼女なみの文章力があったならば、絶対ぜったいZETTAIに、私の内なる「中年男性の背中フェチ」を幻想的かつ耽美的に小説として昇華できたであろうに!!!!

私は小学生のころから、オジサンの背中が好きだった。
同級生が好きなふりをして、実はそのお父さんの背中を眺めたくて足しげく彼の家に通ったりしていた。
私をもっともゾクゾクさせるのは、30代後半から40代前半までの小太りで、しかし肩甲骨のあたりにはぜい肉ではなく適度に筋肉が浮き上がるという背中である。
ぽっちゃりでもなく、ゴリマッチョでもない。
そして、イケメンであってもだめなのである。

そういう背中の持ち主を見かけると、恋愛感情とは別に(そもそも私にはそれが欠落している)足の裏から頭の先まで歓喜に打ち震えてしまうのだ。
恍惚ってのは、もしかしたらコレなのかしらん。

あああ、ここまで書いて私は絶望している。
ちっとも幻想的でもないし、耽美でもない。
これではただ不快なだけだ。

くっそー、作家ってズルいよなぁ。普通だったら「キモっ」って思われてしまうものであっても、文章力と語彙力の魔法で、あたかも「美しい」ことであるかのように表現することができるのだもの。
文章力も語彙力もない私が「フェチ」を語ると、ただのヘンタイになってしまう。

『花びらとその他の不穏な物語』(グアダルーペ・ネッテル著 宇野和美 訳 現代書館)は、ほんの少しでも「フェチ」を持つ人であれば、その才能に歯噛みしてしまうであろう短編集だ。
収められた6編すべての主人公が超弩級のド変態なのである。

表題作の「花びら」なんて、日本文学きってのヘンタイ、谷崎潤一郎氏も真っ青だろう。
なんたって、主人公が愛し、追い求めているものは、女子トイレの便器に残った尿の跡である!!!!!
理想のそれを見つけるために、街中の女子トイレに侵入し、あまつさえ個室の中で隣の人が用を足すのを何時間も待っているという・・・。

やべえ。やばすぎるだろ。

正直、この本のあらすじを事前に知っていたならば、おそらく私は手にしなかっただろう。想像力だけは有り余っているので、潔癖な気のある私には耐えがたい苦痛なのである。トイレという場面設定は。

だというのに。

不浄な場所を再現しようとする脳内VRの襲来と戦いつつ、1ページ、また1ページと読み進めるうちに、私の中で「トイレ=ばっちい場所」という観念が徐々に薄まっていった。
それどころか、なんだか神秘的な場所であるかのように感じ始めたのだ。
(さすがに美しいとは思えなかったけど)

主人公に対しても、評価が反転した。
最初は「うげっ、キモすぎ!!! さすがの私でも許容範囲超えたわ、コレは・・・」だったのが、これを綴っている今は「あー、まあ、そういうのが好きっていうのもありかもなぁ。多様性の時代だし。うん、人とは別の美しさを見いだせるってのはある意味素晴らしいことかもしれないね」くらいに思っている。

人の考えを変えるのは、とてつもなく難しい。
人間関係に悩む人へのアドバイスには、いつもこう書かれている。
「他人の意見を変えることはできません。だから、あなたが変わりましょう」と。

それなのに、だ。
さらりとやってのけてしまうのだ、スゴイ作家ってのは。
説得しているふうを見せることなく、秘密裏に、しかし、緻密に。

おおお、なんて、なんて恐ろしいんだ。
そして、ヤバイんだ!!
こんな作家が世界中にウジャウジャいるんだとしたら、一体どうやって私は私の中の「普通の人」を保っていけばいいんだ!
揺さぶられるではないか。試されるではないか。暴かれてしまうではないか。
やめろ、やめてくれ!! 私は普通の小市民として一生を終えるつもりなんだ!!!


とかなんとか言いつつ、私もその技が欲しい。切実に欲しい。
そしたら「ヘンタイ」に崇高な意味を持たせられるかもしれないじゃないか。市民権を獲得できるかもしれないではないか。
ムフフ。
こりゃ、いっちょ本腰いれて、文章修行に励むとしようかね。




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