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本を読んだら人生変わるっての、ホントだった。

その本を読んで迎えた次の日の朝。
休日だというのに、私はいつもより一時間早くベッドから起きだした。
カーテンの隙間からのぞく空の色が、特別に青く澄んで見えたから。
私の休日は、もっぱら「丸一日パジャマでごろ寝」なのだが、今日の私はちょっと違う。
一張羅のワンピースを着込み、きちんとメイクをして、県でいちばん大きな街へ行く。
そこで開かれるお祭りに、十年ぶりに行ってみようと思ったのだ。

人混みが苦手な私にとって、お祭りに行くというのは、かなりの心づもりを要する。人と約束でもしないかぎりは行かない、魔境みたいな場所なのだ。
朝起きて「なんとなく行ってみるか」なんて、そんな気軽な場所ではない。
入念な下調べと、シミュレーション、それから偏頭痛用ロキソプロフェンが不可欠な、勇気と根性が試される場所。

それなのに、今日はなにもかもが違った。
なにもかもが、特別で、あったかくて、大切なんだと思えた。

街路樹の黄色。風の、キリっと引き締まった冷たさ。
歩くことをやっと覚えたらしき男の子と、それを追うお父さんの背中。
高校生たちの笑い声。
若いお母さんの胸の中で眠る、赤ちゃんの濡れた唇。
生バンドが奏でるジャズの響き。ソースの焦げる匂い。

ああ、いいな。
なんだかすごくいい。
見るもの、聞くもの、なんだかすべてが生き生きとしている。
みんな、とっても楽しそう。なんだかそれが、ものすごくうれしい。

そう感じている私に気付いて、おおげさだけど「啓示」を授かったように思った。ジャンヌダルクみたいに。

だって、本当だったんだもの。
「本を読んだら人生変わるよ」って説。
都市伝説みたいなもので、自分とは無縁のものだと思っていた。
もし本当に本を読んで人生が変わるのだとしたら、それは劇的で、雷に打たれたような衝撃とともに起こるのだと思っていたのだけれど。

ちがった。
それは、ものすごく静かに、いつのまにか起こっていた。
こんなに自然に、意識することもなく、さらっと内側から変わるものなのか。むむむ、もしかしたらあらゆる奇跡ってやつは、こうして密やかに起こるものなのかもしれない。
そして、奇跡を起こしてくれる神さまは、きっと地味な姿をしている。

今回私が読んだのは、『ある犬の飼い主の一日』(サンダー・コラールト著 長山さき訳 新潮社 新潮クレストブックス)。
なんとも地味なタイトルの本である。

内容も地味だ。
タイトルそのまんま、ある犬の飼い主の一日を綴っただけの小説。
この飼い主、どこにでもいるような普通の肥ったおじさんだ。
真面目に仕事をして、休日には大好きな本を読む。
本好きにありがちな、共感力が強い人でもある。
もちろん空想好き。

ただ、このおじさんには素晴らしい特技がある。
感情が顔にモロに出てしまうのだ。
つまり、ものすごく素直なのである。
嬉しいことも、悲しいことも、全部、その顔に書いてある。
まるで「子どもの本のように」わかりやすい人。

そんなおじさんの、なんでもない土曜日。
何かが始まりそうな予感はするけど、まだそれは起こらない、特別になる前の普通の日。

それが、なぜだろう。
なぜ、私の「世界を見る目」を変えてしまえるんだろう。

時々、本の賛辞に「映像化は出来ない」なんて文句が付けられることがあるけれど、たぶん、こういう本のことを言うのだろう。
これは、本として、活字をゆっくり追いかけていくべき一冊だと思う。
そうすることでしか体験できないことがある。

『ある犬の飼い主の一日』を読んでいると、自然と顔がほころんでいる。
主人公のヘンクおじさんと一緒に、犬を散歩に連れ出し、素敵な女性と言葉を交わし、姪っ子の誕生日プレゼントを探しに本屋さんに行く。
ヘンクが見るもの、感じるもの。それを私も一緒に体験する。
彼の視線はとても優しい。穏やかで、暖かいのだ。
今、この瞬間に対する愛おしさで溢れている。

本を読むことは、主人公に憑依することでもある。
私はすっかりヘンクになりきってしまった。
本を閉じたあとも、私の中にはヘンクがいて、彼の「世界を見る目」はメガネのように私の見る世界を変えた。
いつもの私の偏屈で斜に構える目は、ヘンク色に染められてしまった。

ああ、これか。
こういうことなんだ。
「本を読んだら人生が変わる」というのは。


奇跡ってやつは、案外近くに転がってるみたいだ。








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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。