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動物園にて【短編小説】

 1月2日に動物園が開いていることを、僕は生まれて初めて知った。

「うおー! きりん! きりんだー! うおー!」

 ……さっきから彼はキリンを眺めながら、素直すぎる感想を述べている。ゾウの鼻には怯えて縮こまっていたのに、キリンには満面の笑顔を見せている。「長い」という共通点はあるのだが、感動する/しないのツボは違うらしい。

「キリンさん、凄いよねー! オバと近くで見ましょうね」

 そう言いながら、目線では「謙太くんをベビーカーから降ろす手伝いをしろ」と、母は僕に伝えている。そんなことを言われても。僕はベビーカーに乗っていたかもしれないが、使い方はよく解らない。とりあえず、シートベルトらしきものを見つけた。バックルをカチっと押すと簡単に外れた。そこまでは良いのだが、座席前方に付いている安全バーはどうすれば……。

「何してる!」

 強面の父が呆れていた。僕に代わってベビーカーの前に立つと、パパっと安全バーを取り外して、自由になった謙太を持ち上げた。実に手慣れた素振りだった。強面の元警察官で名を上げた男が、初孫の前では全く別の表情を見せている。
 これが親を経験した人間のなせる業なのかと、改めて思う。

 甥っ子の謙太君と会うのは1年ぶりである。夏休みの時は僕の仕事が忙しくて帰省できなかったので、久々に彼の姿を見ることになる。
 この1年間で、随分と代わってしまった。さっきまでベビーカーで押しながら園内を散策していたが、2歳児には2歳児なりの重みがある。出産して間もないころ、抱っこをさせてもらったことがあるが、その時とは違う質量が僕の手のひらから伝わってきた。

 そして、「歩ける」ことと「話せる」こともまた衝撃的だった。ワンワンと泣いていても、その理由が何なのかわからないということは、もうないのだ。
 僕が赤ん坊ではない謙太に呆気に取られているのと同時に、謙太は見知らぬ男性がひょっこり現れたことに驚いているのかもしれない。昨日は妹夫婦が持ってきたブロックのおもちゃをこっそり拝借し、説明書通りに「消防署と消防車」をつくり、初詣を終えて帰ってきた謙太君に見せてみた。サプライズに驚いた謙太君は、疲れた表情で消防車を手に取ると、バーンと言って消防署に向かってそれを投げつけた。妹夫婦は混雑で疲れて機嫌が云々ということだったが、なーに、僕は大丈夫。とりあえず、もう破壊された建物をもう一度作り直し、写真に収め、「甥っ子と作りました」という内容でSNS上にアップした。

 そんな彼と、今日は1日を過ごしている。妹夫婦にも羽根を伸ばしてもらおうということで、今日は両親と僕とで子守をすることになった。そしてその場所に、車で15分少々で行けて、子供が飽きなさそうで、正月の混雑とも無縁そうということで、この動物園が選ばれたのである。

   ◆

「ケンちゃん、お腹空いたね。何を食べる?」
「あのね、ハンバーグ!」
「そうね、じゃあケンちゃんはこのお子様ランチのCセットで……」

 この大人3名の中で最も謙太の扱いに手慣れているのが母だった。働きながら子育てを続ける現状を少しでも助けるべく、たびたび1時間半離れた妹夫婦の家にも訪ねているそうだ。それ故に、謙太とのコミュニケーションの深さはお手のものという感じもある。

「で、アンタは何にするの?」

 はい、ハンバーガーのセットです。

「ケンちゃん、飲み物はどうしようか?」
「アップル! アップル飲みたい!」
「はい、アップルジュースと、ホットコーヒーを2つ、あっ、アンタはどうする?」
「アップルジュース」
「おじ、アップル?」

 そうだ。今日はアップルジュースを飲むのだ。
 妹夫婦の子供と疎遠であっても、急に困ることはないかもしれない。でも頻繁に会える訳でも無いのだから、会える時はその時なりに、もう少し距離を縮める努力をしてみようと思ったのだ。

「おじね、謙太はアップルを3個食べたのだ」
「???」
「あはは、この前ね、保育園でリンゴが配られてね……」

 そんな感じで、食事中は謙太の保育園トークで盛り上がった。アップルジュースが良いツカミになってくれた。作戦成功。

   ◆

 それにしても、実家の近くにこんな穴場があるとは思わなかった。500円で動物が見放題なのはもちろん、何より混雑がそれほどひどくないのもプラスである。
 昼食後も園内を巡り続けた。サイ、カバ、コアラ、カピバラ、タンチョウ……そして、キリンは本人たっての希望で再度見ることにした。ゾウももう一回見るか? と僕が提案したところ、一人で行けば? 的な冷たい反応が返ってきた。
 昨日と違って謙太はご機嫌だった。広場や公園が併設されている動物園は、動き回るのが好きな子供にとっては最適な場所ということか。昼食後はベビーカーに一切乗らなかった。
 僕自身にとっても、動物園が意外と飽きない場所だと知れたのは新鮮な発見だった。文系なので生物の勉強はほとんどしていないし、ペットも飼ったことはない。なので、動物の何が魅力なのかはよくわからない。でも、じーっと眺めているだけで、心が洗われた気分になるから不思議なものである。
 そして、動物を眺めている子供を眺めることも、僕を同じ気分にさせてくれるのである。

「オバとジジはトイレに行くからね、いい子にするんだよ」
 謙太は何度も首を縦に振った。
「しばらく任せたわよ」
 まあ、大丈夫だろう。隣のグッズショップの中にあるおもちゃやぬいぐるみで遊ばせておけばいい。そんな算段だった。

 グッズショップには所狭しと商品が並べられている。謙太にとっては、上下左右に宝物がある状態なのだろうか、目線が色々なところへ泳いでいる。しかしまあ、通路が狭い。ベビーカーも折りたたんでいるとは言え、通るにはひと苦労だ。流石に疲れてきた……。
 ふと気を抜いた瞬間だった。握っていた右手から温もりが消えた。言語化できない歓声をあげながら、謙太は小走りで通路を走っている。
 しまった!
 子供は何をするか分からないとは言うけれど、遂に僕もそのシチュエーションに遭遇してしまった。ベビーカーを脇に抱えながら、狭い店内を早歩きで追いかける。

 何かが砕け散る音が、耳に入ってきた。
 さっきよりも少しだけスピードを緩めて、恐る恐るその場所へと向かう。
 嫌な予感が的中した。床に割れたグラスが散らばっている。その目の前に謙太がいる。

「謙太! ダメ!」

 破片に触れようとした彼の手を引き、ひとまず動けないよう強く手を握りしめた。どうしよう、参ったなあ……。
 慌てていたので気がつかなった。僕らの向こう岸にはもう1組親子がいた。まー、大変! 大丈夫? 大丈夫? とキンキンする声で励ましている。雰囲気は幼稚園児っぽいが、少しふくよかで貫禄のある眼鏡をかけた男の子と、鋭い目つきを化粧で更に強めているお母さん。教育熱心そうだ。そして、手ごわそう……。

「ちょっと、危ないんじゃないの!」
 はい、いや、すいません。
「ウチの子に破片が当たったらどうするつもり」
 えーっと、その、どういう状況なのですか?
「お宅の子がそのグラスを割ったんですよ!」
 いや、ちょっと、ちょっと一方的にまくしたてないで……

 謙太がこの日一番の大声で叫び始めた。
 ゾウさんが……ゾウさんが……と言いながら泣いている。

 僕は努めて冷静に、床に落ちたものを改めて見てみた。ゾウのイラストが描かれたグラスが割れている。
 その商品は棚の最上段に乗っかっている。この高さ……2歳児の身長は届かないが、5歳児くらいの身長ならばできるのではないか!

「ちょっと! なんてことを言ってくれるの!」
 僕の推理は見事、教育ママの逆鱗に触れてしまった。ヘイヘイ、後ろで息子が冷や汗かいてるぞー! という心の中の声は出さなかったが、ここは立ち向かわなければ。
「ウチの子は……ウチの子は……ゾウが好きなので……グラスを割るようなことはしません!」

「おーい! ケンちゃん大丈夫かー!」
 助け舟が来た。父もなぜか、今にも泣きそうな顔をしている。謙太もワンワン言いながら、父親の元へと駆け寄っていく。人間は安心すると、泣きたくなるも生き物だと改めて思った。そして、チノパンの膝付近が濡れていることに、ようやく気がついた。

   ◆

 我が家一同がひと安心したのと引き換えに、教育ママ及びその息子は颯爽とどこかへ逃げ切ってしまった。「お父さん見てヤバいと思ったんじゃないの?」と母は笑うが、警察官が容疑者を逃がすとはいかがなものか。
 割れたグラスの代金は弁償するつもりだった。でも、優しい店員は状況証拠的に謙太がやった事ではない、と仰って下さった。その優しさについつい心動かされ、僕はグラスを2つ買ってしまった。

「ところで、キリンとゾウ、どっちが好きなんだろうね?」
 僕の隣で、チャイルドシートに包まれた謙太が寝息を立てている。
 あのとき、何で謙太はあれほど嫌がっていたゾウさんに情が移ったのだろうか? 実はゾウが好きだったのか? 実物のゾウとイラストのゾウは違うのだろうか? それとも……?

「ところで、買ったヤツはどうするの? 謙太に二つとも渡す? アンタが持って帰る?」
「んー、しばらく実家に置いといてくれよ」

 手提げ袋には、キリンとゾウが描かれたグラスがそれぞれ1つずつ入っている。それにアップルジュースでも注いで、あの日の出来事を語り合う。そんな日がいつか来ることを、僕は楽しみにしている。

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去年の実家帰省中にあったことと、無かったことをミックスさせた小説です。ちなみに、モデルとなった甥っ子はもうベビーカーを卒業しました。そんは縁起の良い小説です。

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