見出し画像

余命宣告を受けた母への想いと自分ができること

普段のnoteのフォーマットや形式・内容は全てとっぱらって。
今日は自身の素直な気持ちや感情を文字にすることだけをします。
少し暗めの回になります。おそらく。
そして、長めの文章になります。まず間違いなく。
こういうのが苦手な方は、戻っていただくか、ページを閉じてください。
着地点としては、【一緒に上を向こう】になると思って書き出しています。

さて、少しだけ経緯です。
2020年1月27日、母が膵臓がんの診断を受けました。
StageⅢ-Ⅳで周囲(胃など)にも浸潤しているということでした。
診断を聞くために私も同席していましたが、その時は何が何やらわからない、というのが正直なところでした。
ただそれとは別に、頭の隅では病気などの知識を学んでいたこともあって、事実を客観的に捉えてもいました。

「ああ、末期がんだ。終末期医療(ターミナルケア)って教科書で読んだな。膵臓って沈黙の臓器とも呼ばれる、がんって診断を受けるときにはかなり病状が進んでいることが多いとも書いてあった。これがそれか。」

無神経にも、これが診断を受けて待合室で待っているときに考えていた自分の頭の中です。
自分でも驚くくらい、冷静にこのことを理解しようとして、自分の知識とつなぎ合わせていました。
感情面は今思えば、遮断するようにしていたのかもしれません。
努めて論理的にことを進めよう、担当の医師の方に最善の治療方法の相談とその説明を求めよう、という気持ちが大きかったです。

そして今日、母が検査の結果を連絡してくれました。
「転移があちこちにみられた。もう抗がん剤治療はできないって。薬で痛みを緩和することしかできないんだって。あと2〜3ヶ月って余命宣告されました。」
ターミナルケアでの疼痛緩和のみに移行するのだと把握をしました。
感情としては、これまで整理してきた自分の考えからか、あまり動かなかったかもしれません。
それ以上に、このnoteを書いているように、「いま何ができるか」を考える方が多いかと思います。

パラスポーツの資格を取りに行ったときに、何度も耳にした言葉があります。
パラスポーツの父、グッドマン博士の言葉です。
「失われた機能を数えるな。残された機能を最大限活かせ。」

いまこの状況は、グッドマン博士の言葉での<機能>を<時間>と置き換えて考えることが、自分にも、母にも、家族にも大切なのだろうと思っています。

なので、母への感謝を伝える記事を書くこと。
これまで自分が何を思い、何を考え、母と過ごしてきたかを残すこと。
そして、自分はこうやって歩んでいきたいと示すことで、母にこの子を産んでよかったと思ってもらえるようにしたいなと思っています。

ということで、これまでを振り返っていきます。

高校生まで、実は私は記憶が定かではありません。
むしろ大学・大学院まででも、何があったかという「エピソード記憶」がほとんどありません。
なので、あのときこうだったよね、と会話の内容を言われても全然覚えていないのです。

そのため、振り返ると言っても後から聞いた話や、こうして何か文字に残していることを見たりしてはじめておぼろげに思い出したりします。

その中でも、いま覚えていることは、高校生までの自分が「何ひとつモノで不自由を感じたことがない」ということでした。
ありがたいことに、自分が欲しいと言ったものは全て買ってもらえました。
パソコンにハマって自作PCを作りたいと言った時も、ゲームが欲しいと言った時も、勉強の教材が欲しいと言った時も、NOが返ってくることがありませんでした。
本当にありがたい環境で育ったなと、母には感謝してもしきれません。
昔は、一人っ子だしこれくらいはやってもらわないと、などというとても自己中心的なことを思っていた時もあります。本当に申し訳ないです。
のびのび育てることを大切にしてくれていたんだと思います。

少し前に記事でも書いたように、のびのびとやらせてもらったことがあったのが、自分の軸になっています。
受験勉強でもその他の宿題などでも、「勉強やったの?」「勉強やりなさい」とは聞いたことがなかったと記憶しています。
むしろ、勉強はいいから好きなことをしなさい、という方針だったようにも思います。
おかげで中学では、PCゲームにどっぷりはまり込んだり、高校でも勉強は学校以外でほとんどせず、バドミントンばかりしていましたね。
そのバドミントンも部活動だけでは足りないと、車でしか行けない社会人の練習会にほぼ毎日母さんに車を出してもらっていたなと思い出します。
その道中ずっと寝ていたと思いますが。すみません。
このような体験が積み重なったからこそ、今の大学教員の仕事やバドミントンコーチ、トレーナーの仕事を自分のやりたいようにやれているのだと思っています。
おかげで自分なりの道を突き進むことができています。感謝です。

ただ、高校から大学へ進学すると次第に「あれ?」と思うことが増えました。
それは、これまでの視野の狭さを感じるようになったからです。
情報源がテレビと家族の話だけだったこと(一部ネットゲーム経由はありましたが)で、これまで自分が見知っていたことは、今後生きていく上でものすごくちっぽけな世界でのものだったと思い知りました。
大学で学べば学ぶほど、いろいろな人と話すほど、「自分の実家ってこんなにもちっぽけでつまんなかったのかな」と思うことがありました。

もちろん両親には感謝していて、尊敬もしています。
でも、学べば学ぶほど、見識が広がるほど、自分には「親の人生が楽しくなさそうに見えていました」。
毎日が変わらぬルーティン。
無言のテレビタイム。
会話もほぼないコタツでの時間。
ムードメーカーの仮面をつけて話を振るも、ただ顔がこっちを向いているだけなのではないかと疑うやりとりのなさ。

この年末年始もこの部分が色濃く見えてしまって、実家に居たくなくなってしまいました。
個人が嫌いではないんです。
仲を悪くしたくもないんです。
ただ一緒に長いこといると、息苦しさを感じてしまうのです。
「好きにしなさい」と言ってくれるのは嬉しいけれど。
やっていることに対して「自分の考えや感想」「自分の経験を織り交ぜた話」をぶつけて欲しい。
ただただその場にいること、「ゆっくりすることが一番」と押し付けられることは今の自分には苦痛でした。

面白いことに触れていたい。
会話のキャッチボールをしたい。
見たことのないことを見たい。
知らないことを知ってみたい。
自分にはできない経験の話を聞きたい。
アウトプットしてインプットしたい。

今の自分はこの想いで動くことが多いんです。
動いている方が楽しいし、誰かと話をしている方が楽しい。
だから、大学卒業以来自分が心地いい距離を保とうとしていたのかもしれません。
この辺りは、田村さんのタムココサロンで今朝読んだ記事が自分にめちゃくちゃ刺さって、これ自分かな?と思うことが言語化されていたので、少し言い回しをお借りしてます。

「やろうとしていることのテンションを下げないで」もそうだし。
「頑張っていることを否定しないでの気持ち」に似てるのだと思います。
「好きにしていいよ」をもっと広い意味で捉えて欲しいなと。
なんだかんだで、家族のことは大切だし、ふとした瞬間に感謝を感じることはあります。
でも縛られて固定した価値観に巻き込まないで欲しいなというのが本音です。

なんでこんな負のイメージを持ってしまったかというと。
大学4年生の時の自己破産のお話からだと思います。
「学費が出せなくなった。あとはなんとかして。」
これを言われた時のことが今でも心に残っています。
大学での学業成績も頑張って表彰も受けて、優秀者として大学院でも頑張るんだと奮起していた中でこの知らせ。晴天の霹靂でした。
おかげで結局、大学・大学院に在籍しながらのアルバイト3-4つ掛け持ち、後に派遣社員もやることを合わせると、2年弱いろいろな仕事をしました。
自分の社会勉強のための時間としては、とても有意義でしたが、ものすごく複雑な心境でもありました。
自分がやりたいことをやるために、「好きにしていいよ」と背中を押し続けてくれるものだと思っていたら、梯子を外された感覚。
ひとり立ちをさせるためにはとてもいい方法だとは思いますが、あまりにも突然で驚きが大きかったです。

またある時に、「なんで僕は一人っ子なの?兄弟欲しい」と言ったことがあると思います。その時母さんは泣き崩れて。
自分も思慮が足りなかったとは思いますが、なぜそうなったのか見当がつきませんでした。
親戚の人たちから、諸々事情や経緯を聞いて納得しましたが、このようなことも先の梯子はずしと関連しているなと思いました。
それはつまり、息子に対して「話さなくてもいいこと」と決めていることが多いのだということです。
自己破産に至るまでのお金のやりくりにしても、兄弟がいないことにしても、先日の大晦日の件にしても。

会話の量が極端に少ない。

意思疎通をしようと思ってもできない、というのが私の実家での特徴なのだと改めて気づきました。
これが息苦しさの原点であり、実家への足を運ぶことをためらう原因なのだと思いました。

そんな中、いい面を振り返ればこのがんの闘病は、これまでの母や家族の固定概念を崩すきっかけになったのだと思いました。

2019年末、後学のためにと「がんセミナー」へ足を運んだことがありました。
そこでは、標準治療ががんの治療として選択されるべき理由やその背景を、自身の大学の先輩(現在アメリカで研究をなさっている先生)が詳しくわかりやすく講義していらっしゃいました。
その後学が1ヶ月もしないうちに役に立つとはと、このタイミングに呆れ笑いが出たりもしましたが。

具体的に固定概念を崩す出来事となったのは、がん患者を対象とした詐欺についてです。
セミナーでも講義内容であったように、「がんが消えた薬」を求める人を食い物にする人たちに遭遇したのです。
診断後の母は、ツテを辿って2ヶ月分の薬を頼んでしまっているという事態になっていました。
結論から言えば、これは薬ではなく、まさに詐欺まがいの商法での、健康食品の売り付けでした。
私が間に入ることでことなきを得ましたが、こう言った世間の一般常識や自分たちの価値観では測りきれないことに対してのガードが圧倒的に足りないことに愕然としました。

がん患者やその家族をターゲットにする、自分たちが利益をうめればそれでいいと思う人たちがたくさんいること。
それで搾取されても全く気付かない側に立たされていること。
情報を知らないことで不利益を被る可能性があること。
これらを表した出来事でした。

知らないことを否定しないこと。
知ってから、さらに学ぶこと。

これをいまやることが必要なのだと思っています。
がん患者を要する家族は、患者本人と同じような精神状態になるとも言われます。
なぜなら、患者の発する言葉に精神状態が大きく影響されるからです。
死が目の前に迫っているのですから、不安な気持ちや辛さを吐き出すのは構わないと思います。
ただ、それが相手を思いやっていてのメッセージなのか、自分が生きる・楽しむ・喜ぶステップとしての行動なのか、それを一回考えて欲しいなとも思っています。

苦しい・痛い・辛い、こうしたメッセージに対して、息子も父も無力です。
家族がしてやれることとしては、聞くことと別の何かに時間を投資すること。
言葉には力があります。良くも悪くも。
ネガティブなメッセージを浴び続けていると、気持ちがそちら側に持っていかれます。共倒れです。

だからこそ、ポジティブに考えること。
自分がいま持ちうる時間と関係性、欲求に忠実であること。
それらが大切なのだと思います。

辛い時は寄り添いたいとは思うけれど。
それ以上に、一緒にいる時間を、連絡しているやりとりを、いかに楽しく嬉しいものにできるかどうか。
これを考えてみて欲しいと思っています。
時間がない人に何を言っているんだという方もいるかもしれませんが、だからこそ共に過ごす、やりとりをする、その中での言葉や表情一つ一つの大切さが変わってくるのだと感じています。

がんの闘病中に、絵本を一冊プレゼントしました。
えんとつ町のプペルです。
今のコロナウイルスの閉塞感もそう、私が感じた家族・実家での息苦しさもそう。
この絵本が持つメッセージとして、今「あなたは何をしたいですか?」「何を考えていますか?」「あなたが感じることはなんですか?」という提言が含まれているのだと思います。
自分としても、これで何か変わってくれないか、と期待して贈った節もあります。

映画も公開され、私自身3回観ていますが、そのひたすらに「信じ抜く」「上を向く」大切さをド直球に伝えてくれます。
諸々グチみたいなこととか、直接これまで言えなかったことも書いてしまいました。すみません。
でも、これらを素直にさらけだして、そしてさらけだしてもらってから、映画を一緒に観たいなと思っています。
今週末、世間がどうなるかわかりませんが、映画は一緒に観に行ければいいなと思っています。

がんの診断、闘病、余命宣告が与える本人への、そして家族へのメッセージは強力です。
ですが、そうした向かい風の時こそ、何かをするエネルギーや周囲を巻き込む力、素直な気持ちは増すのだと思っています。
だから、一緒に上を向いて歩くためにも、ただ嘆くだけでなく、行動する勇気を持っていきましょう。
気休めの言葉を表面的に交わすのではなく、お互いの気持ちをわかり合った上で、大切にするために。

このnoteが母へのエールとなりますように。
そして、今がんで闘病中の方、そのご家族の方にこうした仲間がいるのだと伝えられますように。

トレーナー・コーチ・教育者・研究者に役立つ情報を日々発信していきます! サポートしていただけると、それが活力になってより楽しく内容の濃いものが発信できるかと思います^^