スピッツが好きという話〜暴力性と優しさについての考察〜
ロックバンド・スピッツが好きだ。
年齢が一桁の頃から、母親と一緒にカセットテープで聴き始めたから、もう20年以上ずっと聴いていることになる。
10代の後半なんかは、途中でジャニーズやらロキノン系の流行りのバンドやらを気に入って年単位でスピッツのことを忘れたりしたが、そうやって途切れながらも、なんだかんだ今まで聴き続けている。
ほとんど全ての楽曲を口ずさめる音楽グループは、私には他にない。
スピッツを好きな人がその魅力を語るとき、共通して出てくる言葉がある。
それは、歌詞の暴力性だ。
卑屈さ、皮肉さ、傲慢さ、幼稚さ、攻撃性、、、と、人によって言い回しは違うが、きっと意味するところは同じだ。
根源的な支配欲求や、口に出すのをためらうような願望、なんでもない人から言われたらきっと気持ち悪くて死んでしまうけど、特別な人からだったら舞い上がってしまうような、
愛のことば。
そんな過激でギリギリなワードたちが絶妙な配分で、ボーカリスト草野マサムネ氏の澄んだ歌声にのって、脳みそに入ってくる。ときに激しいサウンド、ときに長閑なメロディーとともに。
彼の癖のない歌声と、歌詞の中の一癖も二癖もある暴力的な表現が生み出すコントラストは、スピッツがファンを惹きつけてやまない魅力のひとつと言って差し支えないだろう。
暴力性というのは、そもそも人を惹きつける強い力を持っている。
任侠ものや、アクション系の映画などはわかりやすい例だ。
少年漫画で、冷徹なことをやってのける悪役キャラが、善良なキャラたちを押しのけて人気投票で上位に食い込むこともザラにある。
安全なところから、ハラハラ、ドキドキ、ビクビクすることを楽しむためにあえて暴力的な事柄に没入するのは手っ取り早く快を得られる。
では、フィクションではなく日常生活ではどうだろう。
暴力的な事柄に運悪く遭遇してしまった人の話は結構きく。
「道を歩いていたら突然顔にツバを吐きかけられた」とか、「上司に精神的に追い詰めるような言葉を毎日かけられて参っています」とか、暴力的な事柄というのは、何も殴る蹴るの暴行だけではない。
わざわざ書き出すまでもないくらい、大小様々な暴力性は、当たり前のように日常にある。
私はできれば暴力的な事柄には遭遇したくないし、自分から暴力的な事柄を生み出すのも避けたい。
痛くて気持ちがいいとか、苦しくて嬉しいとか、そういうものも世の中にはあるってことを知らないわけではないけれど、大抵の暴力は一方的で、悲しくて、痛くて、苦しい。
私は悲しいのも痛いのも苦しいのもあまり好きではない。
人間は生き物の本能として、暴力性を持っている。自分や、自分の大切な人の身に危険が迫ったとき、理性とは異なる瞬発的な暴力性がなければ命を落としてしまう。
たとえ普段は表にでなくても、暴力性をどこかに持っていることは抗いようのない事実だ。
それでは、どの程度の人が、暴力性を自覚しているだろうか。生き物としての性質上暴力性を持つ可能性があるのだ、と自覚するのは意外と難しい。
「自分は動物ではなくて人間だから」
「あの人は暴力的だけど、私は違う」
人は色んな方法で、自分の暴力性を否定する。蓋をできるならその方が楽だからだ。
人間は動物なので、ピンチになればその本能が出てきて、暴力性を発揮してしまうことがある。法治国家たる日本で裁かれるのは、基本的には暴力性が法に触れる形で他者に発揮されてからである。
ピンチかどうかに関わらず愉悦のために暴力性が発揮されたり、ギリギリ法に触れない形で実行に移されたりすることもある。悲しいけれど。
私は、「暴力性を自覚すること」と「他者に暴力性を発揮すること」、これらの2つのことがらは全く独立すると考えている。
これらを混同すると、例えば「男には性欲があるのだから、セクハラくらいしょうがない」とか「我が子に手を上げようとしてしまった。私はこの子を愛していないのだろうか?」とか「私には偏見はありませんが、ホモは気持ち悪いです」といった、視野の狭い認知・行動が生み出されてしまう。
「男には性欲があるのだから、セクハラくらいしょうがない」というのはどういう状態だろう。
これは、暴力性を自覚した上で、暴力性の保持や自覚を暴力性を発揮することの理由と混同してしまっている状態だ。その上、それを全ての男性の話にすり替えている。
暴力性を自覚し、それでも絶対に発揮せず生きている男性は他にいくらでもいる。そんな他の大多数の男性たちをここまで大胆に共犯者に仕立て上げる心の強さに感服してしまうが、本人にはその自覚もないのだろう。
「我が子に手を上げようとしてしまった。私はこの子を愛していないのだろうか?」というのは、暴力性をを自覚できてないため、(未遂とはいえ)自らの暴力性が発揮されたことに動揺してしまっている状態だろう。
冷静に考えれば、出産後のボロボロの身体に、毎日数十分単位の細切れ睡眠、慣れない育児の緊張感などが重なれば、動物の本能である暴力性が顔を出してしまってもしょうがない。
動物の母親はしょっちゅう、産んだばかりの赤子を放棄したり、弄んで殺してしまったり、食べてしまったりする。
けれど、人間の母親はとかく「母親はどんなときも子供を守り、慈しみ、可愛がり、愛おしがるものだ」と思い込みがちだ。
そんな限界モードで赤子を食い殺してないだけで、充分えらいのに。
「私には偏見はありませんが、ホモは気持ち悪いです」は、暴力性を持っているが、それを自覚していないため、暴力性を発揮していることにすら気づくことができないでいる状態だ。
「自分には偏見なんてない、差別なんてしない」と思いこんでいるがゆえに無自覚に、びっくりするようなひどい言葉で他者を攻撃している姿を見ることがある。
「偏見が無くて、本当に差別もしない人」が最も善良であろうことは言うまでもないのだが、そんな人はいない。生まれ備わった暴力性があるのだから。
現実では、「自分は差別をするかもしれないから、発言に気をつけよう」と、自らの暴力性を自覚し、言動に注意を払っている人のほうが、人を傷つけずに生きていける可能性は高い。
私は、自らが無自覚に暴力性を発揮してしまわないために、万が一暴力性を発揮してしまった際にきちんと気付くために、どうすればよいだろう、とよく思考する。
現時点で私が至ることのできる答えは、「暴力性を持ち、それを自覚し、それでもなお絶対に他者に発揮しないために何ができるかを考え続ける必要がある」ということだ。
暴力性の自覚と、暴力性の発揮の間には、境界線がある。この境界線を決して気軽に、無自覚に超えてはいけない。超えるのであれば、そのときは人間をやめる覚悟をしなければならないとまで、私は思っている。
さて、スピッツが人を惹きつける魅力のひとつである暴力性を語るために、ここまで筆を尽くしたのは、昇華の話をしたかったからだ。
「暴力性を自覚し、それでもなお絶対に他者に発揮しないために何ができるか」の答えのひとつが「暴力性の昇華」である。
道行く人をわけもなく突然殴ったら暴力性の発揮、立派な犯罪だ。しかし定められたルールに則ってリングの中で殴り合うボクシングであれば、それはスポーツである。暴力性を、より高度な別のものへ昇華している。
好きな子をいじめたくなったり、愛おしく思うものひどい目に遭わせたくなったりすることもあるだろう。相手が嫌がっているのにそれを行使してはいけないが、素晴らしい音楽に、美しい歌声と紡ぎあげられた言葉としてその暴力性を載せて届ければ、それはもはや暴力ではない別の何かへと昇華される。
自らの暴力性と緻密に向き合い、把握し、それに飽き足らず巧みな言葉の組み合わせとして音楽に乗せて世に送り出すことができる、そんな人並み外れたコントロールの持ち主が、むやみやたらに人を傷つけることがあるだろうか。
スピッツが歌詞の中で、様々な形で昇華している暴力性は、「暴力性を絶対に他者に発揮しないこと」の強い意思の表れであり、究極の優しさの証明であるように思う。
私は優しいものが好きだ。優しいものは暖かくて、ふわふわしている。
なるほどスピッツを好きなわけだ。
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