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正しさってなんだろう

自分を大切にするとは、どういうことなのか?

何か人より目立たなきゃダメなのか?

何でもかんでもやりたいことをやることは自分を大切にすることなのか?

このあたりについては、どんなことについても、絶対的に良いもなければ、絶対的な悪もないとは思う。

だけど二元論では、必ずどちらかになってしまう。

どこかで白か黒か半分にわける線は必要ないし、灰色だってもちろんありだし、他の色だっていい。

白か黒かにすることによって、線を引いて裁いているのは、一体誰なのだろう。

二元論に振り回されているうちは、自分を大切にするのはどういうことか、わからないのではないだろうか。

どんな考え方もありだと思うが、誰かが傷ついたり、劣等感、あるいは優越感を感じているところに、本当の豊かさはないのではないか。

以前「愛実さん、キレイすぎるくらいキレイに性善説の人ですね」
と言われたことがある。

何か占ってもらっていたとかでなく、相手の人はただそう思った、と言っただけだったが、全ては善である、と一見良いことのように思えることを思っていたら、少しでもどこか信じている価値観とズレると許せないことばかりでてくる。

なんという悪!と。

自分の中の勝手な正義感で、周囲に対して許せないことがたくさんあるのは、自分自身に対しても同様だったのだと、今はわかる。

自分を、他人を裁くことにエネルギーを費やすより、やることはたくさんある。
そこにエネルギーを費やしているから、動けない…ということもあるだろう。

長年抱え込んできたナゾの正義感から解き放たれてみると、何をやって生きてもいい、と思うが、人を傷つけたり、人に迷惑をかけないのは前提かな、と私は思う。

それは、自分に対しても、他人に対してもだ。

誰かに対して申し訳ないと感じる罪悪感が、単なる思いやりの時もあるだろう。人としての理性や思いやりまで、罪悪感を手放して…と考える必要はない。

単純に与えたことが返ってくるのは、宇宙の法則だとしたら、誰かを踏みつけて、幸せになるはずもない。

全部完璧じゃなくていい、もともと全てが完璧なのだから。

矛盾して聞こえるかもしれないが、そう思って自分にも、通りすがりの誰かにも、少しずつ優しい気持ちになれたらいいな、と思う。

何か間違ったり、失敗したと思うことがでたのなら、また違う選択をしたらいい。

後悔や懺悔が解決してくれることは、何もなく、幸せの価値も、自分でしか感じられないのだから、些細なことにも、幸せを感じられるセンサーが稼働できるようにしたい。

幸せセンサーは、自分で手入れをするしかない。

自分の全てを受け入れるって、実はこれほど難しいことはないのかもしれない。

これは最高にして最強の人生の課題かもしれない。
この部分を正確に理解した時に、全てが平等なことが見えてくる。

お金があってもなくても。
やりたいことがあってもなくても。
身体が痛くても痛くなくても。

いまこの時に、この瞬間に全ての人が
同じように生きていることがわかる。

だから、自分の足りない何かを嘆き責めるより、自分を大切に出来ていそうに見せかける何かに飛びつくより、ひとつずつでも自分を大切にすることを積み重ねて、進んでいこう。

誰かにはそれがよくても、自分もそうしたら自分を愛せるようになるかは、わからない。

わからないからこそ、ああでもない、こうでもないと、悩み続けるのでなく、ひたすら目の前のことから選択をして、決断しよう。

小さなことでも自分で決めるのは、責任を持つことに繋がっている。

ごまかさずに、ひとつひとつ自分で決めて生きていくうちに、気づく時がやってくる。

人にどう思われるかとか、
人がどうだから、とかを基準にすることなく、
他の人のことは、いい意味で
どうでもよくなってくるだろう。

外から自分をいい気持ちにしてくれる何かや、誰かがやってくるのではなく、自分がどこまで自分のいい気分を保てる自分であるか、ということだ。

そのためには、今この瞬間にも、自分がどういう状態で、何を感じていて、どうしたいのかを向き合い続けるしかない。

だから、細かいことは気にせずに、気にしたとしても、大丈夫なのだということを私は伝え続けていくだろう。



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