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哀しみにこんにちは

心理学者の河合隼雄先生は、物語について沢山書き記している。

『残酷な話をしたからと言って、子どもが残酷にならない。

「子どもたちのために」残酷な話をマイルドな形に書きかえている大人たちは、内的真実に直面することによって生じる不安を軽くするために、そうしていることに気づいていない人が多い。

残酷な話を一切しなかったら、子どもはどうなるであろうか。

その反応として、まず考えられることは、子どもが自ら残酷な話をつくり出すということである。

実はこれは極めて健康な反応なのだが(略)』

残酷な昔話が、残酷だからと話を変えてしまうのは違うということと、そもそも昔語というものは、語られるものであったということ、絵本やテレビで映像を与えてしまうことが、どれだけ影響を及ぼすことになるか、などについて書かれている文章を目にして、今、この社会は、自分たちの不安を軽くするために、どれだけのことを子どもに強いているのか、と、あらためて考えさせられた。

子どもたちのために、とか、大切な人のために、とかの、スローガンの後ろに、どれだけ多くの人の生活をないがしろにしているか、むしろ、苦しめていることになっているのか、といった全体像の話が情報としてほとんどあがらないことに、もう驚かなくなっている。


人類が滅びる時に、今生きている我々は立ち会うことはないから、もうどうなってもいい…というより、本当の意味で、これから明らかに自分たちより先の未来を生きる人間へ思いを馳せる人の少なさに、当初は何とも言えない無力感を感じたが、今は、ただただ哀しい、と思う。

婚活をしている知人に先日久しぶりに会った時、「紹介された人と、オンラインで出会いを設定されるから、オンラインで楽と言えば、楽なんですけど。ただ全身が見えないんですよね。会ってからまたあらためて、こんな人だっけ?っていうのもあって…」という話を聞いた。

画面で会った人と、実際が全然違う、というのは当たり前といえば当たり前だろう。私たちは、実際に空間を共有し対面している時、五感で多くの情報を感知している。

実際に対面することのない関係性のみで、何かのために、誰かのためになることなんて、本当に出来るのだろうか。

涙が出た、とか、感動した、といったテンション(感情というにはあまりにも浮ついていて軽いのでテンションとする)が「善」であると、ここまで世の中に浸透したのは、メディアやSNSの影響が大きいのだろう。

私自身は、まだ携帯がなかった時代を知っているが、振り返ってみると、30年前と現在では、情報量や情報が駆け巡るスピードが全然違っていることを実感する。


手元で情報を操作できるようになった今の時代は、例えるなら毎日がお祭りで、喧噪状態の中にいるようである。この喧噪状態において、もともと備わっていた人が人であるための機能をしっかりと発達させて、生きていくには、色々な意味での強さ、そして柔軟さが必要となる。


正解や、絶対的な正義など、本来どこにもないのだが、それを「そうだよな」と思えたり、答えがないこともそのままにしておける感覚を持っている人は、きっと今も目の前の日々を淡々と過ごしているのだろう。


葛藤を抱えて生きることは苦しく、痛む。

だが、答えのない葛藤や矛盾を抱え、心の片隅の哀しみと共に日々を過ごすことは、誰もがその人なりの哀しさと共にあると思えばこその、思いやりを生む。

判で押したような正しいことよりも、どっちつかずの心に寄り添っている哀しみを受け入れながら、また明日も生きていこう。

メリークリスマス

良い週末を


愛実




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