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古代ローマの〈水泳〉 | プリニウスの追憶

「水泳やりなさい、水泳」

 かかりつけの病院で「肥満」と診断された私は内科医から<水泳>を勧められた。
 白衣の上からでもわかるほどのビール腹に、弛んだ二重顎。思わず「どの口が言ってんだ」と言い返したくなるのを私は堪える。

「とりあえず、来週の診察までに、最低1回は行ってきてね」

 肥満内科医が言った。
 行ってきて? 水泳にか?

 私が動揺していると、肥満内科医は続けた。

「いやこういうのってさ、強制力が働かないとみんなやらないんだよね」

「まぁ、私も忙しいからな」

「ほら、そうやってすぐ言い訳しちゃうでしょ。ハハハハハ」

「Ego interficere tu.」

「え、今なんて?」

「いや独り言だ」

「水泳はね、ほんとすごいから。まず……」

 暇なのか、この肥満内科医はそれから長々と「水泳による身体への効果」を鼻腔を膨らませながら興奮気味に話してきた。

 結局、私はその迫力に気圧され、「まぁ、そこまで言うのなら」と帰りに水着とプールキャップ、そしてゴーグルを購入し、自宅近くの市民プールにやってきた。

 “この世界”に来て、市民プールを訪れるは2回目だ。
 前回は、今から33年前。突然放り込まれた“この世界”のことを知るため、様々な施設に赴き、調査していた頃だった。ゆえに、その時はプールに行ったものの、泳いではない(というか、服のままプールサイドに行ったため、監視員に追い出された)。 

 今回はそれ以来となる。が......。

 入場したはいいものの、プールサイドで膝をガクガク震わせたまま、かれこれ30分が経とうとしている。


 そう、私は泳げないのだ。
 信じてもらえないだろうが、ローマ人ともあろう者が泳げないのである。

 ローマでは、たいていの者が泳げた。
 それは男だけでなく、女も含めてだ。なぜならローマにとって「水泳」は教育のイロハであり、軍事訓練の一部であったのである。首都ローマに住む 子どもたちは泳ぎをテヴェレ川で学んだが、北イタリアのウェロナ(現ヴェローナ)で生まれた私は、11歳でローマに赴くまでは近くのアディジェ川で遊んだ。そこでは心優しい奴隷たちが私に泳ぎを教えてくれたが、どう頑張っても周りの子どもたちのように泳げるようにはならなかった。クロールも平泳もダメ。なんとか形になったのは犬掻きだ。だが、それも「溺れかけているようにしか見えない」と、当時恋をしていた女の子に言われるような有様だった。

 ん? よく見ると、一番端のコースが「歩行専用」となっていることに気づいた。

 たしかに、歩くだけなら問題ない。私だって、軍にいた頃はあんなに重い防具(特にスクトゥム)を身につけて川を渡河したのだ。ほぼ裸で歩くことぐらい、余裕だろ。

 歩行レーンのプールサイドでしゃがみ、恐る恐る水に足を入る。そして、そのまま飛び込み、腰まで浸かった。
 快感だった。さっさとこのレーンに来ればよかった、と後悔の念が込み上げる。すると、陰部がすぅすぅしていることに気づいた。下を見ると、飛び込んだ衝撃で水泳パンツの紐が解け、少し緩んでいた。
 ふん、見てろよ。この水泳パンツがゆるゆるになって履けないぐらい、痩せてやる。紐を縛り直しながら、私はそう胸に誓った。

 歩行レーンにはすでに3人いた。
 皆、老後の昼を満喫しているおじちゃんとおばちゃんだ。外国人に警戒しているのか、3人とも私を横目でチラチラと窺いながら、上半身を捻ったり大股で歩いたりしている。彼らの動きを模倣しながら、ゆっくりと足を交互に踏み込んでいく。

 25mを2,3周もすると、早くも飽きた。
 やはり、歩くだけだとつまらない。
 よし。人も少ないし、少し泳いでみるか。

 マナー違反だとはわかりつつも、レーンを変えるのが面倒だったがゆえ、私はその場で潜り、床を蹴った。
 意外にも、容易に前に進むことができた。もちろん、クロールや平泳ぎはできないが、バタ足で10mほど潜水することぐらいはできた。おそらく、川のように水流がないからだろう。

 調子づいた私は、その後も歩行と潜水を繰り返した。
 途中、プールの監視員につたない英語で注意されたこと、潜水に夢中になりすぎて前を歩いていたおばさんのケツに頭から突っ込むという多少の混乱はあったが、これで水泳への劣等感を少しは払拭できた。

 ああ、気持ちぃいい! 最高だぁ!

 一度プールサイドに出る。帽子を外し、大きく伸びをした。
 こんなに晴れ晴れとした気持ちになったのは、久しぶりだ。自然と、頬が緩んだ。
 そして失われたビタミンを補給するべく、私は飲み物を置いていた壁際に向かった。おかしなことに、すれ違う者、プールの中にいる者までが、なぜか軽蔑と嫌悪が混じったような眼差しを私に向けてくる。私を見て、口を手で覆っているおばちゃんまでいた。

 ったく。たしかに歩行レーンだったが、数回潜水しただけだろうが。マナーがなってないって? わかったわかった。お前らは知らないと思うが、私はもう泳ぐことに抵抗はないんだよ。次からこっちのレーンに…。

 男の監視員が走り寄ってきたのは、その時だ。

「あ、ああの、それ、まずいです」

「あ? あのな、マナーがなってないというのなら、君だって今プールサイドを走ってたじゃないか」

「い、いやあの…」

 なんだ、なぜはっきりと言わない。
 この国は好きだが、この物事をはっきり伝えない、主張しない国民性は好きになれない。

「水着の着用はしていただかないと困ります」


Fin.

Warning

「プリニウスの追憶」に登場する人物及び事象の一部はフィクションです。


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