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【掌編小説】美しい世界の住人

 愛犬のサンゴと一緒に、散歩コースをいつも通り歩いていた。
 サンゴは穏やかな性格のゴールデンレトリバーで、引退した盲導犬だった。引退犬飼育ボランティアというものを知り、応募して出会った子だ。
 近頃はあまり走り回る事も無く、ゆったりした散歩を好むようになった。それなら景色を楽しめるようにと、散歩コースに海を入れたら大当たりで、サンゴは海を眺めている時間が一番楽しいようだった。
 太陽が顔を出し始める時間からサンゴとのんびり砂浜を歩いていた時のことだ。珍しいことに、サンゴが海水を撒き散らしながら砂をかきだした。
 おや? と思って様子を見守っていると、不気味な水色のブヨブヨした不気味なものが出て来た。サンゴはスライムみたいなそれを、懸命に砂から出そうとしていた。

「汚いよ」

 不衛生にしか見えないそれからサンゴを引き離した。サンゴはすぐに掘るのをやめた。しかし、どうしても謎のスライムが気になるようで、海に行く度にスライムがある場所に行っては、掘り起こそうとした。
 何度止めても、一向に飽きる気配は無い。それにあのスライムの方も、波にさらわれる事も無く少しも移動していなかった。
 今まで意思表示をあまりしなかったサンゴが、一つの物に執着するのはよっぽどの事なのだろう。どうしてもあれが気になる様子に、私は意を決してスライムを持ち帰ることにした。
 まだほとんどの人が眠っている早朝に、じんわり汗をかきながらシャベルで掘った。サンゴはお尻を波に濡らしつつ、その様子を真剣な眼差しで見つめている。
 水色のスライムはやっぱり気持ち悪かった。手のひらに収まるくらいのサイズで、使い捨ての手袋越しに伝わる、ひんやりとした温度に鳥肌が立つ。触り心地は腐った茄子みたい。

「本当にこれが欲しいの?」

 サンゴは頷いたりしないけど、立ち上がって懸命ににおいをすんすん嗅いだ。そう言えば、においは何も感じない。潮の匂いがするだけだ。私はそれを、持って来たジャムの空き瓶に入れた。
 その後、サンゴが砂浜を掘ることは無くなり、前のように海をのんびり眺めるだけになった。
 しかし、家にいる間の態度が激変した。
 サンゴはいつも私の足元にいたのだが、あのスライムの傍にいることが多くなった。
 スライムが入った瓶は、きちんと蓋をしてリビングの戸棚に置いた。サンゴは家にいる間、ずっとスライムを見つめていたのだ。起きたら戸棚へ、ご飯を食べ終われば戸棚の前へ、寝る時でさえも、サンゴ用のクッションベッドがあるのに戸棚の前で眠った。
 仕方なくクッションベッドの横に瓶を移動してあげたのだが、今度はベッドの横で眠るようになった。ベッドの中に置くと、やっとベッドを使うようになった。と言うか、ベッドからあまり動かなくなり、私は寂しくて困っている。
 

 ある日のことだ。汗だくになりながら帰宅したのだが、いつものお出迎えが無かった。スライムに心を奪われたあとも、お出迎えだけは毎回してくれていたのに。
 ついにここまで来てしまったのか……!
 しばらくサンゴを待ったのだが姿は見えず、落ち込みながら部屋のドアを開けた。
 するとサンゴが床でお腹を見せてゴロンと横になっていたのだ。私を見てビックリしたサンゴは、慌てて立ち上がり、しっぽをふりふり出迎えてくれた。

「どうしたの? 何と遊んでたの?」

 サンゴは何に向かってお腹を見せたのだろう?
 そんな不思議な日が数日続いたため、私はペット用カメラを設置した。この蒸し暑い中、近所の公園に向かい、私が不在中の様子を確認した。
 スマホに映し出されたこの映像を、ネットに上げたらどうなるのだろう? 多くの人が反応すると思う。テレビ局から連絡が来て、使用許可を求められるかもしれない。国内のみならず、世界中の人がこの映像に関してコメントをし、私は一躍時の人に――なんて今ならそんな妄想をするけど、初めて見た瞬間は恐ろしくて体が震えた。

――あのスライムは生き物だった。

 サンゴの留守番が始まってから数分後、ベッドに置いてある瓶からスライムが出て来た。蓋を無視し、コップから溢れる水のように……。サンゴはそれを見下ろして、しっぽを振っていた。
 やがて瓶は空になり、出て来た水色のスライムがベッドの上でゆらゆら揺れ始めた。スライムは小さな人型に変わり、蔓のように腕を伸ばしてサンゴの頭に触れた。
 サンゴは得体の知れない生き物に頭を触られて、ゴロンとお腹を見せてしまった。人型スライムは、サンゴの体に乗り、腹の上でゴロゴロ転がった。草原を転がりまわる子どものように。サンゴは大喜びだった。

「やめて!」

 画面に向かって叫んでしまった。水鉄砲で遊んでいた近所の子ども達が、私を見てヒソヒソと話し合っている。でもそんなことを気にしている場合では無い。
 急いで帰宅し、部屋のドアを勢いよく開けた。でもあれは瓶に入ってスライムのフリをしていたし、サンゴも何事も無い様子で私に近寄って来た。

「何? どういう事なの!」

 私はパニックを起こした。とっさに瓶を掴んで掃き出し窓から投げ捨てた。瓶は隣の家との境にあるブロック塀に当たって割れ、中のスライムがドロリと地面にこぼれた。
 サンゴはまるで自分が叩かれたかのように、キャンッと悲痛な叫びを上げた。

「何で?……サンゴ。ダメだよ。あんなの……あんな……」

 サンゴは私の制止も聞かず、雑草の上に落ちたスライムを我が子のように舐めた。

「ダメ! やめなさい!」

 無理矢理首輪を掴み、抵抗するサンゴを引き摺りながら家に入った。その間、スライムが人型になることは無かった。
 窓の鍵を閉め、カーテンも閉めた。腰が抜け、薄暗くなった部屋で頭を抱えた。
 サンゴはカーテンの中に入って外を気にしている。カーテンの下からはみ出ているしっぽが、悲しげに揺れていた。
 私はサンゴの、この行動が信じられなかった。
 元盲導犬のサンゴが、人間を無視した行動を取るなんて普通じゃない。いつだって、サンゴは人間――主人――を大事にしていたのだ。
 私には、あのスライムがサンゴの主人になってしまったとしか思えなかった。怪我をした主人を心配する忠犬に見えた。
 いつの間にそんな関係になったの? それとも海で見つけた時からそうだったの?

「お願い……やめて……もう、やめてよ」

 私に見向きもしないサンゴの背中に縋った。でもサンゴは外に目を向け、悲し気に鳴き続けた。


 翌朝、恐る恐る窓の外を確認した。庭と呼ぶのも恥ずかしいくらいの、とても小さなスペースに瓶の欠片が散乱している。でもスライムはいない。それがまた恐ろしくて、サンゴを連れて海に行くのがどうしても出来なくなった。
 サンゴは海に行きたがった。そこで待っている主人に会いたいのだろうか。あんな気色悪いのに……。
 数日経つと、サンゴは諦めてくれた。海を通らない散歩コースを歩き、日常に戻りつつあった。が、海に続く道に差し掛かるたび、サンゴは顔だけをそちらに向けていた。
 あの事はもう忘れたい、と思った。サンゴには申し訳ないけど、私にどうにか出来る事じゃない。冷静でいられないのだ。あんな映像を見て、怖くないはずが無い。
 それでも日が経つにつれ、歩くのもやっとになってきたサンゴの為に海へ連れて行った方が良いんじゃないか? と考えるようになった。
 今まで人の為に生きてくれたサンゴ。最後くらいサンゴの願いを叶えるべきじゃないか? もしかしたらサンゴにとっては、今年が最後の夏かもしれないのだから。


 夏休みがそろそろ終わる時期になった。今年も暑い夏だった。サンゴの体力を容易に削り取って行った夏は、残暑と言う名前に変わっても、まだまだ猛威を振るうのだろう。

「夏が終わる前にもう一回だけ、海に行こうか?」

 サンゴはやっぱり頷いたりしない。でもほんの少し、瞳の奥が光った気がした。

「……分かったよ。そんなに好きなんだね」

 八月最終日の朝。玄関先で気合を入れた私は、サンゴを連れて海に向かった。今までで一番ゆっくりとしたペースだった。休み休み歩くサンゴは、それでも決して帰ろうとはしない。最後のチャンスとばかりに、海を目指して進んで行く。
 朝日を浴びる海面は、私の心とは対照的な輝きを放っていた。
 サンゴは海を眺める事も惜しいらしく、あのスライムがいた場所にまっすぐ向かっていった。
 サンゴが砂を掘ると、そこに水色のスライムがいた。驚くことにそれは、私が見ている前で人型に変身した。やっぱり恐ろしくて、今すぐ逃げ出したくなる。でもサンゴがしっぽを振るから逃げるに逃げられず、怯えながらも見守り続けた。
 人型スライムは腕を蔓のように伸ばし、サンゴの頭を撫でた。そして今度はその蔓を私の足元に伸ばした。

「ひっ……!」

 恐れた私に気づいたのか、蔓が一瞬動きを止めた。が、目にも止まらぬ早さで私の足首を一撫でした。
 その瞬間、耳にビビビと静電気のようなものが走った。

「あ……え?」

 声が聞こえた訳じゃ無い。脳に直接とかそんな事でも無い。でも私にはこの人型スライムが「ありがとう」と言ったのが分かった。
 人型スライムは、抱擁を交わすようにサンゴの首に細い両腕を回した。
 次の瞬間、画像が切り替わったかのようにスライムは消えた。あとには嬉しそうに私を見上げるサンゴと、サンゴが掘った穴だけが残っていた。

「ありがとうって何? サンゴに言ったの? それとも私に?」

 瓶に入れた事だろうか? でも私はその瓶を意図的に割ったのに……ありがとう、なんて。

「……ははっ」

 笑うしかない。私の気持ちがスライムに伝わっていなかったはずはないのだ。サンゴがあんなに心配していたんだから。私の行為はスライムを傷付けたに違いない。それでもスライムはお礼を言った。

「……すごいね。私に傷付けられたのに、感謝するなんて」

 自分は愚かな人間だと自覚せざるを得なかった。あのスライムが宇宙人にしろ、妖怪にしろ、私より素晴らしい存在であることは間違いない。自分を傷付けた相手に感謝出来るんだから。そして、サンゴもこの上なく尊い存在なのだと理解した。

「サンゴもすごいね。宇宙人に感謝された動物なんて、きっと史上初だよ。……サンゴはずっとそんなすごい世界で生きてたんだね」

 軽い気持ちじゃなかったはずだ。大型犬の介護は人と同じくらい大変だと覚悟を決めて応募した。
 でもあまりにも違う。
 サンゴもスライムも、覚悟とかじゃない。優しい心を持つことが、当たり前の世界で生きている。そんな世界がすぐそばにあったなんて知らなかった。

「私もそっち側に行ってみたいなぁ……」

 私とサンゴとスライムだけが存在する小さな世界で、悪は私だけだった。そのことに衝撃を受けた。
 自分は良い人だ、思いやりがあるなんて恥知らずも良いところだ。
 どこまでも優しいサンゴは、泣き崩れる私の顔をペロペロ舐めていた。
――それから秋が来て、冬が来て、年を越す前にサンゴは旅立った。


 その後、ピーターと言うベージュのラブラドールレトリバーと縁があり、一緒に暮らし始めた。
 また引退犬との生活を始めたわけだが、残念ながら私はまだサンゴたちの仲間になれていない。ピーターと生活することを選んだ背景には、自分が寂しいからとか、良い人に思われたいとか、存在意義が欲しいと言う気持ちがある。

「行こう! ピーター」

 今年も、暑い夏が来た。
 ピーターが浅瀬でおすわりをした。温泉に浸かっているように見え、つい笑ってしまう。
 この海には毎日のように通っているが、スライムを見つけたことは無い。ピーターも不思議な行動を取ったりしない。でも毎日期待してしまう。ピーターがスライムを見つけないかな、なんて。
 こんな私を見て、サンゴやスライムはどう思うんだろう? 時々、ふたりが遊んでいる映像を見返して考えるけど、こんな私でも、あの子たちなら簡単に受け入れてしまえるんだろう。
 いつか――あの世か、宇宙の果てで再会する時には、胸を張って隣を歩けるようになりたいと夢を見るが、何をどうしたら良いのか分からないまま平和な毎日を過ごしている。
 今日も海はキラキラと陽の光を揺らしている。サンゴたちの心の中を覗いているようで、あまりの美しさに目を細めてしまう。
 波が私の足を優しく濡らし、海に帰っていった。

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